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非日常のアメリカ文学
ポスト・コロナの地平を探る
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2022年10月31日
- 書店発売日
- 2022年10月24日
- 登録日
- 2022年9月21日
- 最終更新日
- 2022年10月31日
紹介
私たちは今、従来の20世紀的な日常とはすこし異なる「非日常」を生きている。コロナという人知を超えた災厄と対峙する知恵を、「非日常」という共通項を軸に、ヘンリー・ソロー、マーク・トウェイン、スコット・F・フィッツジェラルド、カート・ヴォネガット等、著名な作家の文学作品に探る。
目次
はじめに
第1部 日常のなかの非日常
第1章 コロナ禍に読む『ウォールデン』の空気[浜本隆三]
第2章 遊びをせんとや生まれけむ――マーク・トウェイン『王子と乞食』におけるごっこ遊びによる非日常化[新関芳生]
第3章 ヴェルマ・ウォーリスが描く北米先住民の日常――姥捨ての物語が明らかにした真実[林千恵子]
第4章 山火事とともに生きる――ビッグ・サー文学における逗留の感覚[菅井大地]
第2部 非日常のなかの日常
第5章 ニューヨークの幽霊たち――マーク・トウェインと非日常[辻和彦]
第6章 一九二〇年代のアメリカ小説と(非)日常――『グレート・ギャツビー』を中心に[坂根隆広]
第7章 カリフォルニア・ベイエリア現代詩における「非日常」に対する抵抗[高橋綾子]
第8章 身体の非日常――『ダイエットランド』と『ファットガールをめぐる13の物語』を通して考える[日野原慶]
第3部 非日常のなかの非日常
第9章 カート・ヴォネガットのSF小説『タイタンの妖女』と『猫のゆりかご』[平田美千子]
第10章 カート・ヴォネガット『タイムクエイク』における既視感の(非)日常[中山悟視]
終章 難破する想像力と非日常[辻和彦]
あとがき
さくいん
前書きなど
はじめに
(…前略…)
もはやコロナ禍以前の日常は過去となり、ウイルスとともに暮らす「ウィズ・コロナ」時代が日常化しつつある。日本ではパンデミック以前の日常を取り戻そうと、ワクチンの接種が奨励されてきたが、ウイルスによって歪められた日常生活がそのまま元の型枠に収まるとはもはや思えない。
それでは、このコロナ禍という経験が人類にとってもつ意味とは何か。街の書店の棚には、コロナに関する「ニュース関連本」や「トンデモ本」があふれているが、いずれも表面的な解釈にとどまる。医学や経済学の分野をはじめ、ようやく社会科学や人類学の専門分野からの考察も出はじめているが、コロナ禍という未曽有の歴史的経験を知的・学術的に消化し尽くすには、まだ時間を要するといえる。
海外に目を向けてみると、二〇二二年五月現在、アメリカの書店では『あの長い一年――二〇二〇年論選集』(The Long Year: A 2020 Reader)が注目を集めている。同書は社会科学系の執筆陣によるコロナ禍論の論集である。コロナ・ウイルスが世界的なパンデミックを引き起こした背景に、グローバル化や格差、貧困、差別といった社会問題があった点を指摘しつつ、編者はコロナ禍が社会の抱える諸問題を浮き彫りにしたと結論づけている。
各分野の専門家による、この人類の未曽有の経験を捉える試みは、まだ始まったばかりであり、この災禍と相対するのは容易なことではない。この困難さの根源は、ちょうどアルベール・カミュが『ペスト』において、「天災というものは人間の尺度とは一致しない」と書いたとおり、コロナ禍が人間の想像力をはるかに超えた事態であった、という点にあるといえるだろう。
ところが、カミュが『ペスト』で描く災禍には、市民の行動、内面心理、行政の対応から観光業の崩壊まで、二一世紀のコロナ禍と驚くほど多くの共通点が見られる。つまり、カミュはペストと対峙して、それを描ききることで、その不条理を乗り越えて見せたといえるのではないか。すなわち、文学の想像力は、未曽有の災禍とも対峙しうると、カミュは示して見せたわけである。
パンデミックの渦中、科学の専門家や政府の言説には、コロナ禍という異常事態を、「正常」な日常の地平に回収しようという力学があった。一方、われわれ専門外の人間は、コロナ禍を非日常そのものとして受け止める、素朴な感性、プリミティブな勘とでも呼べるものを働かせていたように思える。このように考えると、コロナ・ウイルスが招いた混乱とは、非日常をめぐり、それを正常と捉えようとするか、異常と捉えようとするかという、相反する理解のせめぎ合いに起因していたとも考えられる。
このような日常の地平が揺らぐ時代に思い出されるのは、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』である。同作の主人公は、歪んだ世界観に屈することを強いられる極限状況のなか、「自分が間違っていることはわかっている。だが間違った人間でいたいのだ」と信念を打ち明ける。この「間違っている」感覚とは、先に説明した、われわれ専門家ではない人間がもつ、素朴な感性、あるいはプリミティブな勘と呼べるものと、どこか通じるところがあるように思える。
本書では、コロナ禍という人知を超えた災厄と対峙する知恵を、「正常」の内側に回収しようとする政府や専門家に頼るのではなく、素朴な感性に根差した考察を展開する文学作品に探ってみたい。とりわけヨーロッパから独立を果たしたアメリカには、旧世界の日常とは異なる宗教、政治、社会、民族構成などの特質を有しながら、世界の超大国へと発展してきた経緯がある。このような歴史的背景をもつアメリカ文学には、非日常について考えるうえで示唆的な作品が数多くある。
また、本書がウイルスや感染症ではなく非日常という枠組みを設定している理由は、コロナ・ウイルスが引き起こしたパンデミックが、「感染症と文学」という次元には収まりきらないほどの圧倒的な影響を人類に及ぼしている、という認識に立っているからである。このような理解のもと、「非日常性のアメリカ文学」というテーマが設定された。
このテーマでシンポジウムを組んだとき、登壇者の間で、非日常に相当する英単語が思い当たらない、ということが話題となった。たとえば「日常」を英語で表現する場合には、normal / ordinary /daily / routine / regular といった修飾語や mundane といった語が思いつくが、「非日常」という表現の決まり文句は見当たらない。先に紹介した研究書では、pandemic / corona virous crisis / COVID-ised / inexplicable incident / life on the other side / upheaval / new normal / quarantine days といった語句を「非日常」を言い表す文脈で用いているものの、日本語の「非日常」に相当する語は見当たらない。非日常は文脈によって変わるものであるが、日常と非日常の定義についても然りである。したがって、本書では日常と非日常の定義については、各論考とそこで取り上げる作品に対する執筆陣の解釈にゆだね、この語彙がもつ可能性を最大限に探ることとした。
(…後略…)
上記内容は本書刊行時のものです。