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チョムスキーの「教育論」
原書: Chomsky on Miseducation
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2006年2月
- 書店発売日
- 2006年2月8日
- 登録日
- 2015年8月22日
- 最終更新日
- 2015年8月22日
紹介
「開かれた自由な社会」において,逆説的にも教師は支配的なイデオロギーに無批判に順応し,事実を歪曲・捏造して生徒を洗脳,自らを再生産する。米国の外交政策を事例に,教育による「家畜化」を暴露,真に民主的で自由な社会をつくる教育のあり方を考察する。
目次
序 章 チョムスキー教育学(ドナルド・マセード)
一 学校の「自己家畜化」機能
二 「嘘の教育学」と「同意の捏造」
三 言葉を読む力と世界を読む力
第1章 「家畜化教育」を超えて――マセードとの対話
一 「見ること」を拒否する
二 誰にどう真実を語るのか
三 人民統制委員としてのメディアと学校
四 民主主義度をはかる確実な尺度
五 学校は生徒に何を提供すべきか
第2章 教育にとって「家畜化」とは何か
第一節 教育における知識人の意味
一 三つの訓練場になった学校
二 知識人から身を守るべき手段を生徒に
三 社会科学(特に歴史)の学び方・教え方
第二節 教育における民主主義の意味
一 デューイとラッセルの教育観とは
二 「新しい時代精神」が東欧にもたらしたもの
三 かつて米国の労働者は何を求めて闘ったのか
四 貴族的政体論と民主的政体論
五 自由市場は子供に何をもたらしたか
六 自由市場の標的は英米の家庭だけではない
七 政治への軽蔑は誰にとっての勝利か
第3章 教育にとって大学とは何か
第一節 危機の時代における大学の機能
一 大学は誰にこそ奉仕すべきなのか
二 大学は営利的私企業に転落したのか
三 学生は社会の管理者という自分の役割に抗議していた
四 決定と管理のさらなる分散化こそ大学改革だ
第二節 冷戦の時代における大学の機能
一 冷戦時代の知的風土――自己正当化と盲目的愛国主義
二 積極行動主義と大学――MITとハーバード大学の違い
三 ベトナムと知識人――自己規制と体制への服従の典型例
終 章 教育にとって市場経済とは何か
――新自由主義秩序における市場民主主義
一 冷戦に勝利をもたらした原理?
二 「ひと」を支配する「法人」の誕生
三 「市場民主主義」の生け贄・ニカラグア
四 米国への脅威――自力再生モデルとしてのキューバ
五 自由市場はメキシコに何をもたらしたか
六 ハイチ大統領のための市場経済短期集中コース
七 保護主義による米国のメキシコ支配
八 保護主義による英国のインド支配
九 米国の「新自由主義」への転換
一〇 「新自由主義」に磔にされたハイチ
一一 利益は大企業に、費用とリスクは国家に
一二 広がる貧富の格差と強まる国際的団結
補 章 チョムスキー教育学・補遺
補章のための訳者解説(寺島隆吉)
第一節 「歴史捏造」の技術を検証する
一 「歴史捏造」の技術
二 沈黙の義務
三 サミット
四 メディアと国際世論
五 和平合意の解体
第二節 「嘘の教育学」の仮面を剥ぐ
第三節 「観戦型スポーツ」の役割
訳者あとがき
前書きなど
訳者あとがき(抜粋)
チョムスキーの主張と読み方
本書の著者チョムスキーについてはあまりにも有名すぎて紹介する必要もないほどですが、他方、今でもチョムスキーという人物は二人いると思っている人が日本では少なくありません。というのは言語学者のチョムスキーを知っていても、思想家・社会運動家としてのチョムスキーは日本ではつい最近まであまり紹介されてこなかったからです。
チョムスキーは一九二八年一二月七日生まれですから、二〇〇六年一月現在で七七歳ということになります。日本では大学教授に定年というものがありますが、米国の場合は終身教授という仕組みがあって彼は今でもMITの教授として言語学の研究と指導のために世界の先頭に立っています。
彼が創始した生成文法は「今ではもう古くなっていて昔ほどの影響力は英語学の分野ではない」という声も聞かれますが、それは失語症その他の認知科学に彼が与えた巨大な衝撃力を知らないからではないでしょうか。言語学が文学部に置かれている日本では「自然科学(特に生物学)としての言語学」という彼の主張が理解されがたいのも無理はないと思われます。ノーベル賞に言語学の分野があれば、まず真っ先に受賞すべき人物だと考えます。
他方、思想家・社会運動家としてのチョムスキーですが、米国の主流メディアからほとんど無視された存在です。民主主義の模範として自他共に認めているはずの国からしてみれば実に奇妙な現象ですが、これが「言論の自由」を誇る米国の実態です。彼の主張が常に米国の外交政策を鋭く批判し、日本で最近はやりの言葉で言えば「自虐史観」の持ち主と受け取られているからでしょう(九・一一事件の時も「最大のテロ国家は米国だ」と発言して有名になりました)。
このように国内では無視された状態のチョムスキーですが、世界中からインタビューや講演依頼が絶えず、五年くらい先まで予定が埋まっていると言われているくらいです。またシェイクスピアやマルクスなどを除けば現在存命の人の中で最も頻繁に引用される人物としても有名ですし、最近(二〇〇五年一〇月)おこなわれた英国の有力月刊誌プロスペクトと米外交専門誌フォーリン・ポリシーによる合同世論調査では、世界で最も重要な知識人としてチョムスキーが選ばれています。二位のイタリアの作家・哲学者ウンベルト・エーコをはるかに引き離し、約二倍の得票率でした。
ところで、米国では激増する中途退学や深刻な学力低下を反省して教育の「単線化」を目指し始めています。私の勤務する岐阜大学にも毎年米国から教師たちが、「驚くほど中途退学が少なく、世界的にも学力水準が高い、優れた日本の教育から学ぼう」という理由で、集団で視察に訪れます。米国の名門プレップスクールの毎日を描いた『レイコ@チョート校』(岡崎玲子、集英新書、二〇〇一)にも、「進んでいる」米国の教育を取材に訪れたNHK取材陣に対して「日本こそ進んでいるんじゃないの」というチョート校生徒の声が記されています。
ところが当の日本は「個性化」を旗印に「複線化」の道をひたすら走り続けています。その極致が「習熟度別指導」「能力別学級編成」「小学校選択制」ではないでしょうか。しかも、この過程で教師自身が疲弊していきます。最近では週五日制で授業時数が減っているにもかかわらず「総合学習」(「国際理解教育」「小学校英語活動」など)のように教科書なしの授業が増え、その準備で膨大な時間が取られます。それだけでなく、「学力低下」を理由とした教師批判が極めて強くなっていますから、従来にも増して教科指導を強めなければなりません。そのうえ「選択制」が広まってくれば学校をセールスするための宣伝活動にも時間を取られることになるでしょう。これで、どうして子供のために教材研究をする時間を確保できるのでしょうか。
今や全国で年間七〇~一〇〇人の教師が自殺しています。いま求められているのは生徒のための臨床心理士よりもむしろ教師のための精神科医だと言っても過言ではない状況です。二〇〇五年度FSNドキュメンタリー大賞ノミネート作品『先生の叫び』(テレビ静岡制作)は、そのことを何よりも強く訴えています。このような日本の教育現場は学力世界一を勝ち取ったフィンランドとは対照的な光景をなしています。なぜならフィンランドの教師の勤務時間は短く、終業時間も他の労働者と同じ午後四時で(これと日本の労働者を比べてください)、しかも自分の授業が終われば自宅で教材研究・授業準備をしてよいことになっているからです。
チョムスキーによれば、いまや学校は「共生」ではなく「競争」の場となっています。「民主的政体論」を学ぶ場ではなく「貴族的政体論」を教え込む場、『自己家畜化」の場になっていると言うのです。そう言えば、斎藤貴男『機会不平等』(文春文庫、二〇〇四)も、内申書重視の高校入試や大学入試が、教師に対する二重人格者を育て生徒をますます「自己家畜化」させる道具となっているとして、さまざまな具体例をあげています。また他方で、「飛び級」制度の導入は次のような鼻持ちならない傲慢な人間を育てる恐れがあります。
「最近は一部の私立の中高一貫校に、飛び級制度があるところも出てきているようですが、その程度じゃダメ、緩すぎます。もっとドラスティックに改革しないと。たとえば東大受験の年齢制限を取り払う。そうすればきっと一二歳で東大に人る奴も出てきます。一二歳で東大生になったってなんの問題もないわけですからね。
そうやって能力のある人間がその能力をどんどん伸ばせる環境を社会が用意し、彼らに惜しみなく投資する。国として効率を考えると、これがいちばん高いはずなんです。だってできる奴とそうでない人って、平気で千倍くらい生産性で差がつくんですよ。
いいじゃないですか、二極化で。それは止めようと思っても止められない、歴史の必然だと僕は思っています。(中略)だって明らかにできる子というのはいるわけで、そういう子は、おとなたちが守ったり、素質を伸ばそうと手を差し伸べてくれなければ、子どものコミュニティのなかで異端児扱いされて孤立し、不幸になるしかないんですから。僕がまさにそうでした。(中略)
別に能力がないことが人間的に劣っているわけじゃないんだから、全員を無理に低いレベルに合わせるんじゃなくて、優秀な人間は早期に選別してエリート教育を施すべきです。それで将来格差がひらいたっていいじゃありませんか。みんなエリートに食べさせてもらえば」(『儲け方入門』PHP研究所、二〇〇五)
このように語っているのは「ホリエモン」こと堀江貴文ライブドア社長です。昔なら恥ずかしくて口にすらできなかったようなことが堂々と文字になり出版されている現在の風潮に驚かされると同時に、このような本が売れていることに恐ろしさを感じます。マイケル・ムーアのドキュメンタリー映画の鋭さ・面白さは、恥ずかしくて公には語ったり文字にできないようなことを「突撃インタビュー」で思わず相手に語らせてしまうところにあるのですが、このような内容を文字にして恥じない堀江氏には、大企業告発映画『THE BIG ONE』で突撃インタビューされたナイキ社会長も思わず脱帽するのではないでしょうか。
堀江氏は先の箇所で「それで将来格差がひらいたっていいじゃありませんか。みんなエリートに食べさせてもらえば」と言っているのですが、アマゾン・ドットコムの『カスタマー・レビュー』欄に「『能力無い人は天才に食わせてもらえばいい』と言いながら片方では税金を払うのは嫌だとか、矛盾ではないか?と思う個所も多い。(筆者が貧者の生活保護制度のような機能を独自で持つというつもりかもしれないが、そういった計画は無いみたいだし。)」と述べている読者がいましたが、このような読者がいることがせめてもの救いです。
チョムスキーの説明によれば、企業は米国で不老不死の特殊な人格を持った特殊な「法人」として成長し、今や「法人」が「ひと」を支配する社会になってしまったと言っています。しかもこれはアダム・スミスが目指していた「自由主義経済」とは似ても似つかぬものだというのです。というのは、現在の米国流資本主義は「国家資本主義」とも言うべきもので、自分には国家からの手厚い保護と援助を要求し、相手国には丸裸の自由競争を要求するものだからです。また国内的には、「利益は企業に、リスクは個人に」「企業・富者には減税、個人・貧者には増税」となって表れます。これは真の「自由競争」とは程遠いもので、チョムスキーの説明によれば、この米国流「国家資本主義」を世界に広めようとするのが、いわゆる「グローバリゼーション」でした。
この「グローバリゼーション」が世界中に貧富の差を拡大させていることは周知のとおりです。世界銀行のチーフ・エコノミスト兼上級副総裁として働いた経験をもち、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツでさえ米国流の経済政策に強い警鐘を鳴らしています(『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』徳間書店、二〇〇二)。日本の国内でも、あとで詳しく述べるように、このような経済運営が七年連続で年間三万人の自殺者を出しているのです。また貧困が犯罪を増やすことは発展途上国だけでなく米国の貧困地区(たとえばニューヨークのブルックリン地区など)を見れば歴然としています。ところが日本の為政者は犯罪の増加は教育のせいだとして教育の管理統制を強める口実にしてきました。
しかし、次頁の図「グラフで見る世界二一〇」(『たのしい授業』二〇〇五年十二月号、裏表紙)に見るとおり、日本の凶悪犯、たとえば殺人検挙者数は決して増えていません。大戦中を除けば、むしろ「愛国心教育」をたたき込まれた戦前の方が格段に多いのです。また、紙面の都合で省略しますが、同グラフの解説ページでは、欧米との比較グラフも載せられています。それを見ると日本の殺人件数が米国・ドイツなどと比べて圧倒的に少ないことが分かります。さらにまた年齢別の変化グラフでは、むしろ青少年の減少率が大きいのに驚かされます。このことから、犯罪の増加を理由に教育に対する管理統制を強めたり教育基本法「改正」を唱えたりすることが、いかに恣意的な宣伝であるかがよく分かります。チョムスキーが「メディアや知識人が見ないふりをしたり、見るべきものから目をそむけている」と批判する「自己家畜化」の典型例ではないでしょうか。
ところで「成果主義」と「管理体制」は、実は「新自由主義経済」の推進と表裏一体になって拡大されてきたものでした。というのは、「規制緩和」というのは個人店舗や中小企業などの弱者を保護するために今まで大企業の手を縛っていた規制を緩和し、大型店舗や大企業による合併・買収・リストラなどを自由にするためだったからです(内橋克人『規制緩和という悪夢』文春文庫、二〇〇二)。しかも、このようなリストラを自由にするためには「成果主義」と「強力なトップダウン」による管理体制が不可欠な手段でした。今では「首切り」「リストラ」を大胆におこなう勇気を持つ経営者が「有能な」経営者だとされているのです。
こうして弱者切り捨てが強行された結果が七年連続、年間三万人を超える自殺者でした。二〇〇五年末のNHKスペシャル『自殺を減らしたい:救命救急センター・精神科医の模索』を見ていても、自殺者の多くはリストラによる失業、中小企業の倒産、個人店舗の経営難です。しかも大企業は倒産しても国が救ってくれるのに個人の失業や中小企業の倒産は全く放置されたままです。チョムスキーが本書で何度も繰り返し述べているように「新自由主義」「市場原理主義」というのは、実は「利益は企業に、リスクは個人に」という原理であり、ハリケーン「カトリーナ」が襲ったニューオーリンズに見られるように、「弱者・貧者」にとっては「落ちこぼれる自由」にしかすぎません。
この意味で、まさに米国は強者・富者・大企業にとって最高の「福祉国家」なのです。ここで「福祉国家」という言葉が出てくると一瞬「これはチョムスキーの言葉づかいが間違っているのではないか」と思われるかもしれません。というのは、ふつう「福祉」の対象は個人・弱者を思い浮かべるからです。しかしよく考えてみると、富者への減税と手厚い資金援助という点で、富者・大企業にとって米国はまさに最高の「福祉国家」なのでした。よく「チョムスキーは難解だ」と言われますが、言語学と違って実は彼の政治論や教育論に難解なところはほとんどありません。彼は事実をありのまま述べているのですが、それがあまりにも私たちの常識と違いすぎるので、読んでいて一瞬の混乱を覚えるだけなのです。
それはともかく、「富者・大企業にとって最高の福祉国家」という現実は、米国だけの現象ではなく「新自由主義」を推進する国にとっては共通の現象です。たとえば二〇〇五年春のNHKスペシャル『日本の群像・再起への二〇年「銀行マンの苦闘」』によれば、倒産した日本長期信用銀行(現・新生銀行)は日本政府が八兆円の税金を投じて再建した後、何と、たった一二一〇億円で米国資本リップルウッド・ホールディングスに売り渡されているのです。何のために誰のために国税を投じて不良債権処理をしたのでしょうか。やはり米国だけでなく日本も、チョムスキーの言うように、強者・富者にとって最高の「福祉国家」になりつつあるのです。
また先述の『機会不平等』を読むと、教育改革国民会議の有力メンバーであり元教育課程審議会会長(また元文化庁長官)でもあった小説家の三浦朱門氏が学習指導要領「ゆとり教育」の下敷きになった答申をまとめた最高責任者として次のような発言をしていることに衝撃を受けました。しかも、「それは三浦先生個人のお考えですか。それとも教課審としてのコンセンサスだったのですか」との斎藤氏の質問に対して、「いくら会長でも、私だけの考えで審議会は回りませんよ。メンバーの意見はみんな同じでした。経済同友会の小林陽太郎代表幹事も、東北大学の西澤潤一名誉教授も……。教課審では江崎玲於奈さんの言うような遺伝子診断の話は出なかったが、当然、そういうことになっていくでしょうね」と答えているので二度驚きました。
「学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。(中略)
今まで、中以上の生徒を放置しすぎた。中以下なら“どうせ俺なんか”で済むところが、なまじ中以上は考える分だけキレてしまう。昨今の十七歳問題は、そういうことも原因なんです。
平均学力が高いのは、遅れてる国が近代国家に追いつけ追い越せと国民の尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければいけません。それが“ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」
三浦朱門氏が斎藤貴男氏のインタビューで思わず「ゆとり教育」の本当の目的が「エリート教育」にあったとの本音を漏らしつつ、さらに「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」「教育課程審議会では江崎玲於奈さんの言うような遺伝子診断の話は出なかったが、当然、そういうことになっていくでしょうね」と述べているのを読むと、元文化庁長官の三浦氏やノーベル賞受賞者である江崎玲於奈氏の人間観に戦慄を覚えざるを得ません。というのは三浦氏の「非才・無才には実直な精神だけを養っておけばよい」とする言からは「エリートに奉仕する従順なロボット人間」が自然と思い浮かんでしまうからです。学校で奨励される奉仕活動・ボランティア活動のねらいも結局はそういう人間を育てることにあったのかと思わず考え込んでしまいます。
また先に引用した「江崎玲於奈さんの言うような遺伝子診断の話」というのは、遺伝子検査による優生学的選抜教育論のことですが、このような考えを推し進めれば、検査で優秀な遺伝子を持つと診断されたものだけがエリート教育を受け、あとは「実直な精神」をたたき込まれて奴隷労働を強いられるということになりかねません。また「悪性遺伝子」を持つと判断された人間や人種は最初から排除され、この世に生を受けるチャンスを奪われるかもしれません。これではナチスがおこなったいわゆる「ユダヤ人問題の最終解決」やユーゴ紛争で有名になった「民族浄化」とあまり変わらないことになります。これがノーベル物理学賞の受賞者にして教育改革国民会議座長をつとめた人の教育観・倫理観なのです。
もう一つ気になったのは「国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければいけません」という三浦氏の発言でした。最近ではベトナム戦争を間違っていたと考える米国知識人も増えてはいるのですが、チョムスキーの言によれば、「侵略戦争がそもそも間違いだった」と考えている人は皆無に近いのです。また驚いたことに、マクナマラのように「間違った戦争に対して謝罪したい」と回顧録で書いている「すごいリーダー」ですら、なんとその謝罪の相手は米国人であってベトナム人ではありませんでした。米国で最も人気の高い大統領の一人であるケネディもベトナム戦争を本格化させた張本人ですし、カストロ首相への数度におよぶ暗殺計画を黙認した人物でもありました(NHK・BSプライムタイム『CIA 秘められた真実』、ブルム『アメリカの国家犯罪全書』作品社、二〇〇三)。これが先進国である米国のリーダーなのです。
私たちは先進国のモデルとして米国を見る姿勢をそろそろやめる時期に来ているのではないでしょうか。チョムスキーがいま執筆中だというThe Failed State『失敗国家』もそんな願いを込めて執筆されているのではないかと推察しています。一刻も早い刊行が待たれます。
二〇〇六年元旦
寺島 隆吉
上記内容は本書刊行時のものです。