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シンガポール捕虜収容所
戦後60年・時代の証言
- 出版社在庫情報
- 品切れ・重版未定
- 初版年月日
- 2005年12月
- 書店発売日
- 2005年12月21日
- 登録日
- 2010年2月18日
- 最終更新日
- 2011年1月17日
紹介
太平洋戦争でマレー半島に出征した英軍兵士は,1942年,シンガポール陥落後日本軍の捕虜となり,屈辱的扱い,過酷な使役から多数の死者を生じた。戦後60周年に“生きて虜囚の辱め”を受けた彼らが書き残している体験を検証し,後世に伝える時代の証言。
目次
まえがき
1 シンガポール陥落
《1》日本軍の自転車部隊の活躍と制空権の掌握
《2》英軍のシンガポール防衛態勢の不備
2 降伏とチャンギー戦争捕虜収容所
《1》5万人を超える捕虜と抑留者
《2》「マラヤ共産党員」の摘発
3 収容所での生活と使役
《1》収容所の管理と日本軍との関係
《2》「世界を平定するという聖なる使命感」
4 食糧と衛生問題
《1》脚気と赤痢
《2》セレラン事件と悪化する日本軍との関係
5 泰緬鉄道建設工事
《1》「枕木一本、人柱一本」
《2》マラリア、脚気、赤痢、そしてコレラ
《3》 半数が犠牲になったF部隊
《4》 捕虜も同情したアジア人労務者の悲惨
6 その他の外地キャンプでの使役
《1》モルッカ諸島―「海は天皇陛下のものだ」
《2》北ボルネオのサンダカン―ラナウの「死の行進」
《3》台湾のキンカセキ銅鉱山―「マギー、マギー」
《4》タンポイ(マレー半島)のキャンプ―「テイラーの軍律」
7 日本での使役
《1》日本への移送と米軍潜水艦の攻撃
《2》日本人も極度の貧窮生活だった
8 終戦まで
《1》隠しラジオで戦況情報
《2》「ダブル10」事件
9 引揚げと戦後の日本
《1》一日も早く日本人と縁を切りたい
《2》一般市民の好印象
《3》「亡霊を鎮める」ための日本への旅
あとがき
前書きなど
まえがき
もう四〇年も前のことになろうか、英国の大学都市ケンブリッジに近いイーリー(Ely)という村にある大聖堂を訪れて、何気なく第二次世界大戦の戦没者の銘板を見ていたとき、中年の紳士が寄ってきて、「チャンギーを知っているか」と尋ねた。「知らない」(ほんとうに知らなかった)と答えると「そうか」と言っただけで、何の愛想もなく立ち去っていったことを思い出す。実は英国ケンブリッジ県からは、太平洋戦争に際して歩兵大隊がマレー半島に出征し、シンガポール陥落後に日本軍の捕虜になって、その中から多数の死者を生じたため、同県はことのほか反日感情が強い地域だった。
太平洋戦争が終った後、満州あるいは朝鮮半島にいた日本兵や軍属がシベリアに送られ、長期にわたり抑留されて過酷な使役に従事させられ、一〇人に一人の死者を生じたことがよく知られているが、それに比べて、マレー半島やオランダ領東インド(現インドネシア)でも、終戦を迎えた日本兵の多くが一年半以上にわたって抑留され、連合軍によって諸々の使役に従事させられたことはあまり知られていない。
シベリア抑留者ほど多くはないにしても、これらの日本兵の数は約一〇万名に上り、港における荷役作業や土木作業、農漁業あるいは連合軍兵舎における雑役等に就労させられていた。また国際法に反して、植民地支配の復活に反対する民族独立闘争の武力制圧のために日本兵が動員されたこともあった。これらの日本兵は「降伏日本兵員(Japanese Surrendered Personnel)」と呼ばれ、軍人でありながら戦争捕虜の扱いを定めたジュネーブ条約の適用外として扱われて、会田雄次の「アーロン収容所」に描かれているような屈辱的扱いを受けたり、あるいは給養や衛生面においても、戦争中に連合軍捕虜が日本軍から受けた扱いに見合う報復的取扱いをされたりした。特に捕虜等に対する虐待などの罪でBC級戦犯として訴追された者は、 拘置所で飢餓食を与えられるとともに、殴られたりへとへとになるまで走らされたり、無理やりに水を飲まされたりと、拷問に近い仕打ちを受けたとも言われる。
日本が戦争に負けたとはいえ、なぜ日本兵がそのような扱いを受けることになったのか、多くの抑留者にとって合点がいかず、かつ長年にわたる憤りの因にもなっていた。その背景となっているのが、実は、シンガポールのチャンギーにあった連合軍捕虜収容所の問題なのである。戦争中に連合軍捕虜たちが日本軍から受けた過酷な扱いについては、映画「戦場にかける橋」で多少は察しがつくものの、彼らが労働力として就役した使役キャンプによっては、配置された部隊の半数以上が死亡したことなど、その正確な実態は必ずしもよく知られていないのが実情だろう。そのために連合軍の元捕虜たちの間には、これまで日本政府が意図的に歴史を隠し、その記憶を消し去ろうとしてきたと疑う気持が根強くはびこっている。また対日批判の背後には、英国戦争博物館に第二次世界大戦の欧州戦線に関する展示は無数にあるもののアジア戦線の展示がほとんどないことに表わされるように、自分たちの苦労が英国国内で正当な評価を受けていないと考える元捕虜たちの不満や焦燥感が働いていることも指摘できる。
そのためか近年英国や豪州では、すでに晩年を迎えた捕虜たちが「生きて虜囚の辱め」を受けた体験を後世に書き残しておこうとする回想録が次々に刊行されており、その数は一〇〇冊を下らないだろう。そのいくつかは日本においても翻訳の上出版されているが、あまり話題になったことがない。ロンドンにある英国戦争博物館(Imperial War Museum)には、英軍の捕虜たちが書き残した多数の日記や回想録が保存されている。本書は、このような歴史認識の彼我の懸隔を埋めるために、できるだけ公平な立場から史実を整理し残しておきたいという思いから、これらの日記や回想録のうち、特にロイヤル・ノーザンバランド歩兵連隊所属のC・ウィルキンソン大尉の日記、ラナークシャー歩兵連隊所属のピーター・ローズ測量兵の回想録、そしてシンガポール義勇軍第4大隊のL・V・テイラー少佐の回想録をもとに、捕虜収容所の生活や使役の様子を記述したものである。
その内容はもちろん捕虜の眼に映るかぎりの状況であり、いきおい泰緬鉄道建設工事など過酷な労役が強調されることになるのは避けられないし、後になって書かれた回想録には、記憶の薄れによる不正確さとともに自己弁護も少なくないであろう。しかしながら、その中でもウィルキンソン大尉の日記は、日本軍に摘発されたときのことを考えて、日本軍を刺激することがないように差しさわりのない日常生活に関する描写が多くなっているものの、泰緬鉄道建設工事の使役の様子を丹念に記録した将校の日記の原本として史料価値が高く、またピーター・ローズは、日本に送られ過酷な使役を経験したにもかかわらず、後年何人もの日本人留学生を世話することによって個人的反日感情を克服しようと努力した類まれな人物であり、その記述に誇張や歪曲は少ないものと考える。またテイラー少佐の回想録も、配下の兵士の規律を厳しく保つことで日本軍の司令官との間に一定の信頼関係を築くことができた経験を記述している点で特記に値すると言える。本書では事実関係をできるだけ忠実に反映するために、この三名が書き残したものを要約して紹介することを柱にして記述している。解説を行うにあたっても、捕虜の目に映ったまま感じたままをできるだけ忠実に表現するために引用を多くするよう心がけた。それに対する著者自身の意見や解釈は、本文よりも注記の中に記述して、できるかぎり本文に主観が入り込まないようにしたつもりである。
総じて捕虜たちが日本軍から受けた過酷な扱いが強調される中にも、テイラー少佐がその回想録に「彼ら全員が悪人だったわけではない」と表題を付しているように、捕虜と日本兵との間に心の通う交流があったことが少なからず記録されていることに注目したい。
なお本書の執筆にあたって参考とした英軍捕虜たちの日記や回想録は、精粗まちまちであるが、まとめて以下に掲げておく。そのほとんどが英国戦争博物館に収蔵されているものだが、一部は、ロンドン大学キングズ・カレッジのリッデル・ハート軍事文書センター所蔵のものを参照させてもらった。
なおピーター・ローズからは、その回想録からの長文の引用について快諾を得たが、C・ウィルキンソンおよびL・V・テイラーについては、その日記および回想録を保存している英国戦争博物館を通じ、その引用について遺族の許諾を求めるべく二度にわたり連絡を試みたが、遺憾ながら回答が得られなかった。ここに改めて記して了解をお願いしたい。
上記内容は本書刊行時のものです。