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伝えたい アイヌ民族の紋様
- 出版社在庫情報
- 品切れ・重版未定
- 初版年月日
- 2020年2月25日
- 書店発売日
- 2020年2月25日
- 登録日
- 2020年2月12日
- 最終更新日
- 2020年12月22日
紹介
長年アイヌ文化の伝承と作品制作活動に携わってこられた、小川早苗と加藤町子のコレクションを纏め、178点を収録。アイヌ民族の魂とも言える独特の紋様・文化を後世に残す願いをこめて編まれた珠玉の一冊。
目次
出版に寄せて ……… 4
着物 ……… 5
小物・手回り品 ……… 97
タペストリー ……… 113
あとがきにかえて ……… 147
収録作品 ……… 150
前書きなど
あとがきにかえて
浦河に生まれて
北海道東部の日高地方に浦河という、ニシン漁で栄えていた町があります。
私が生まれたのは、浦河の浜荻伏、父方祖父、日本名浦川亀太郎が所有する漁場です。妻のゆきと懸命に働いた祖父は一代で漁場を作り、一族で船主となり、当時は盛んだったニシン漁をして豊かに暮らしていました。一族の住む家も「小学校ぐらいの大きいお屋敷」とご近所から言われていたほどだったそうです。
亀太郎の息子、米造に嫁いだ私の母、カタコは、漁場で働くヤン衆たちのために、掃除、炊事、洗濯はもちろんのこと、捕れた魚をモッコ担いで運んだりと休む暇もなく働いていたため、私の子守りはヤン衆たちの役目でした。私がお転婆娘に育ったのは、肩車だのマリ投げだの些か乱暴に扱われたせいかもしれません。
ところが、私が三歳のとき、父のタバコの不始末のせいで漁場が全焼してしまったのです。蓄えてあった大量の米も食料も、そして多額のお金も、全部灰になってしまいました。それを目にした母は、こんなに蓄えがあったのなら嫁の私にあんな重労働を強いることはなかったのでは、と愕然としたそうです。そして、私たち家族は、父の不始末に怒った祖父母に家を追い出される羽目となりました。この火事が発端となったのでしょうか、その後、一族の男たちが次々に海難事故で亡くなるという不幸がつづき、みな離散してしまったということです。
三石に移って
住み家と働き場所を失った父と母は、兄、私、妹の三人の子どもを連れ、母の祖父テッパエカシ(日本名:幌村運八)と祖母ウポポアンフチの暮らす三石町ホロケコタンを訪ね、親戚の小さな持ち家に住まわせてもらうことになりました。
三石町でやっと落ち着いてまもなく、終戦の前年に父に召集令状が届きました。そしてサイパン島上陸の二日後に父は戦死しました。私が五歳のときです。私のことをたいそう可愛がってくれたと聞かされても、悔しいことに父の顔をはっきりと覚えていないのです。
幼かった私は、コタンに来る和人の郵便配達員さんに向かって、「早苗の父さん返せ」と泣き叫び、その度に、フチたちが慌てて、私の口におやつの甘いものを放り込んで黙らせたそうです。また、汽車が通ると「父さん帰ってくる」と言っては、周りの人たちの涙を誘ったとも。コタンに作られた父さんのお墓にはユリの花とイチゴが植えられました。そのお墓も、文化遺産の発掘調査で掘り返されたらしいと聞いています。
当時のことでよく覚えているのは、コタンのフチたちが口の周りにしていた入れ墨で、いつも私を抱き寄せてチューしてくれたのですが、それが私は大好きで何度もおねだりしてはしてもらったものです。
やがて、親戚が総出で山から木を切り出し、母と子ども三人のためにポンチセ(小さな家)を建ててくれました。屋根は柾葺き(薄い板を何枚も重ね合わせたもの)で壁も薄い板です。冬の寒さを凌ぐために熊の毛皮を敷いてくれ、枯れ草で布団を作り、食べ物も分け与えてもらうなど、みんなに助けられながら暮らしました。
その家のそばに、大きなハルニレの木(ポロニ)がありました。病弱で歩けない妹の祥子のお守りを任された私は、彼女をフキノトウの上に寝かせ、ポロニの根元に縄でつないで、辺りの食べられる山菜を集めたりしたのを思い出します。賢いのに病気がちな妹に、健康なのに考える力の弱い姉が申し訳ないことをしましたが、その妹も五歳で、モシリホッパ(この世を後にしました)。
ポロニは特別な木で、ホロケコタンにはウムレク(夫婦)と称される一対が三箇所に植わっていました。春になると、天にそびえるそれら三組のポロニの下でハルエカムイノミの儀式が行われました。お供物を捧げ、「食べ物の神、病・災害のカムイよ、このコタンを避けて通ってください」と祈るのです。エカシ(おじいさん)やアチャポ(おじさん)たちが祈祷しつつ、チッカチッカ(火のカムイ)にパスイ(酒箸)で酒を落とします。
こういった祭事には、テッパエカシやウポポアンフチはもちろんのこと、コタンの人々みながアイヌの正装で参加します。そして祈りの後、みんなが持ち寄った供物を頂くのですが、あの楽しい賑わいは今もはっきり覚えています。
私にとって戦争とは、ご飯を食べられないもの、飛行機が橋や鉄橋を破壊するものでした。老いたエカシはリヤカーに乗せられて神社に行かされ、敵機が落ちるように祈願することを要請されました。日の丸の旗を背にし、和人のためにです。エカシをリヤカーで運んだ子どもたちは、供物のお裾分けにあずかれるのを楽しみにカムイノミが終わるのを待って無邪気なものでしたが、私は「なんでカムイノミしたら飛行機が落ちるんだろう?」と不思議で割り切れない思いでした。
エカシたちやフチたちがしっかりと守るアイヌ民族の作法や風習を見て真似て育ったこの当時の生活は、私の生き方の基礎を成したのだと、今つくづく実感します。厳しく教え込まれたわけではなく、自然に、目と手と心で学ぶように伝えてもらったのです。
風習の一つとして、モシリホッパ(葬儀)のたびに、故人の着物を形見分けする習慣がありますが、私もいろいろな着物をいただき、その結果、本書にご紹介したとおりの貴重な着物が数多く集まってくれました。
学校時代を
終戦後二年ほどすると、樺太からの引き揚げの人たちや、国の政策による本州からの
移民の人たちが大勢入植し、三石にも人が溢れ、道端に生えている、食用植物を採集するおばさんをあちこちで見かけるようになりました。
私が小学校に入学したのは、町の様子が大きく変わったそんなときでした。母が自分の帯をほどいて作ってくれた可愛いドレスを着て、期待に胸をふくらませて通い始めた学校でしたが、夢はあっけなく消え去ります。ひどいいじめが怖くて、どうしても通学できなくなってしまったのです。
でも、中学生になると、小林辰雄先生、杉本茂先生、橘先生とおっしゃる三人の先生がアイヌ民族を大切に思い、人権を護る教育をしてくださったおかげで、登校できるようになりました。そして、生徒会の委員や風紀委員長になり、腕章をつけて通学するようになった結果、アイヌへのいじめも徐々に減り、アイヌの子たちの教師になるのが私の夢になりました。
母と子ども三人の当時の生活を、母はしっかりと支えてくれていました。コンブ採りや畑仕事など、いつも働いている母を見て、「母さんは寝ないし食べない人」だと私は思っていたようです。食糧難の苦労も実感しないぐらい、私たち子どもは母と祖父母と親戚たちに守られていたのですね。
本州からの農業移民には戦後も開拓政策が適用されて、指定期間内に開墾すればその土地を譲渡されたため、広大な田畑を持つようになった人たちも多かったようです。しかし、狩猟採集中心の生活で、農耕の伝統のなかったアイヌ民族の母は、要領よく変化に応じられなかったのか、旧土人保護法による給与地三反四畝(1020坪、3366㎡)の水田を耕作していました。
そんな中、私の兄は勉強好きな優等生でしたが、一家の状況を察したのでしょう。家族のために中学校を休学してイカ釣り船に乗せてもらったことがあります。自転車の後ろにイカのいっぱい詰まった箱を積んで帰ってきたとき、母は泣いて喜びました。そのイカは、お世話になった中学の先生にもお届けしました。
母は、私たちの父の死後、親戚の勧めで松前の足軽だった男性と結婚させられました。兄と私はうれしくて、「父さんが来る」とみんなに言い回ったものです。とても優しい人でしたが、実は松前に家族がいることがわかったとき、母は許せず、家を出て行ってもらわざるをえませんでした。その時の父との間に生まれたのが妹の町子です。
生活保護のない当時、子どもを抱えた母親は再婚するのが当然とされ、またもや親戚の話し合いの結果、母は親族のおじさんと結婚させられて、美代子が生まれました。
結婚して
親戚の紹介で浦河の生協職員だった小川隆吉と出会ったのは、私が22歳のときでした。自然に結婚を決めたのは、お互いに好意をもったからでしょうね。結婚後もしばらく浦河に住んで、長男の智志と長女の純子が生まれ、周りのみんなに可愛がられて、平和な暮らしでした。
夫は、子どもたちのためにもっと給料のいい職を得たいと考え、職業訓練校に通えるように一家で札幌に引っ越すことを決めました。最初に移り住んだ中央区の伏見で、次男の基が誕生。上の子ふたりは、保育園でも小学校でも差別を経験することもなく、いつも守ってくれる人たちに恵まれた、穏やかな生活でした。
その後、隆吉は仕事を転々としましたが、まもなく白石区北郷に古い一軒家を購入。一家五人の暮らしが続きました。が、ここの小学校で長男へのいじめが始まったのです。上の子ふたりが毎日辛そうに学校から帰ってくる姿を目にするのは、ほんとうに心が痛みました。何度も学校へ相談に行きましたが、何も状況が変わることはありませんでした。
悩んだ私は、あることを決心しました。アイヌの誇りを持って、アイヌの着物を着よう、そうすることで、アイヌを蔑む人たちに私たちの存在をわかってもらおうと。そこで、アイヌの着物を作ろうとしたのですが、しばらく作ってこなかったこともあって、正しい刺繍のやり方も思い出せません。それで、34歳のとき、三上まりこさんの刺繍教室に通い始めました。 三上まりこさんは和人ですが、昔からアイヌ紋様に興味を持たれ、児玉コレクションの児玉氏の助手となって、児玉氏と共にあちこちの部落を回ったりもしていた方です。また、北大植物園の難波琢雄先生には、イラクサやオヒョウの樹皮をはぎ、糸にする手法・工程を教わりました。
ところが、習い直して自分で刺繍したアイヌの着物を身につけ、外出しようとすると、娘が「学校でいじめられるから、やめて」と嘆願するのです。それでも、アイヌとして胸を張って生きる姿を子どもたちにも見せたくて、頑張り通しました。すると、娘も次第に喜んでくれるようになり、ついには二人してシャクシャインのイチャルパ(ご先祖供養の儀式)にもアイヌの装いで行ったりできるようになりました。嬉しかったですね。
するうち、周りの雰囲気も少しずつ変わり、小柄でいじめられていた長男も、サッカー試合にヘディングで得点するようになってから、だんだん仲間にとけ込めて行けたのです。
そして、今
長く続いてきたアイヌの伝統や習慣を、一時は隠して暮らした時代もありました。生活のため、そうせざるをえなかったのです。でも、私が作った着物や刺繍に大喜びしてくれる祖母や母たちを見ると、どんどん作りたくなり、いつしか、アイヌの伝統的な着物を作るのが私の職業になっていました。というより、天職だと気づいたのでした。
我が家に作業所を作り、大勢の生徒さんたちが通ってきて熱心に学んでくれました。共同制作の日など、手も口も忙しく、和気あいあいの楽しい時間でした。
そして、国内外で作品の展示活動をおこなうようになりました。国内では各地の民主的な考えを持たれる方々が作品展を開いてくださいました。外国では、アラスカ州のフェアバンクス、オレゴン州のポートランド、カナダのアラートベイ、カナダ国立オタワ博物館など、北米各地で展示会を催し、たくさんの方々に見ていただきました。
アメリカのイリノイ大学での作品展の際には、アイヌ料理を提供したりもしました。大きな体のアメリカ人男性が、発泡スチロールのどんぶりを手に、ニコニコしながら長い行列の中で待ち、言葉も通じないのに、町子と私を励ましてくださいました。
今、私が願うこと、それは、子供たちや孫たちがお友だちと楽しく時をすごし、先住民族アイヌに差別のない学校教育、和語もアイヌ語も共に学び、お互いの文化を尊重して暮らせる社会をみんなで育てようと努力してほしい。それだけです。
2019年12月吉日
小川 早苗
上記内容は本書刊行時のものです。