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負けないで! 小松 憲一(著) - 柏艪舎
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負けないで! 精神主義ランニングの道

発行:柏艪舎
発売:星雲社
四六判
300ページ
並製
定価 1,500円+税
ISBN
978-4-434-26644-7
Cコード
C0095
一般 単行本 日本文学、評論、随筆、その他
出版社在庫情報
在庫あり
書店発売日
登録日
2019年9月11日
最終更新日
2019年10月9日
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紹介

人生を明きらめる!

この書は単なる走闘記ではない。
苛烈に走ることによって学んだ、「生きる哲学」の集大成である。
僕は多くの人に「負けないで!」と叫びたい。

ランニングにはメリットとデメリットがある。僕自身、メリットばかりでデメリットはまったくないと主張する気はないし思ったこともない。
三十年もほとんど休まずに走っていると楽しいことも苦しいことも数多く経験し、当然苦しいときには「こんなことやっていて何のプラスになるのか」と自問自答したこともあった。しかし僕の場合、プラスになることの方が多いと判断するから継続しているし、人に勧めるのである。(本文より)

目次

【目次】

 はじめに

第一章 精神主義ランニング
  高齢者ランナーに学ぶ 10/ 走りはじめた動機 11/ 定期的なランニングをはじめる 13/ 
  ハーフマラソンの苦い経験 17/ 高校時代の思い出 20/ ウルトラマラソンへの思い 26/ 
  はじめて五十㎞を走る 29/ 入賞と虚しさ 30/ 嫌悪した弱者の思想 36/ 
  幻のサロマ湖一〇〇㎞マラソン 38/ 阿蘇のヤマを走る 40/ 経験したことのない苦痛 48/ 
  猛暑にやられた北海道マラソン 52/ 初のサブスリー 54/ 一睡もせず…… 57/ 
  表彰台と過信 61/ 日本一ハードな山岳マラソン 63/ 山岡鉄舟 67/ 父祖の地四国へ 74/ 
  一〇〇㎞ 大会前のアクシデント 77/ 四万十川ウルトラマラソン 80/ 地獄の体験 89/ 
  「虚血性心疾患の疑いあり」 94/ 気楽に挑む一〇〇㎞ 96/ 円谷幸吉伝説 99/ 
  クロスカントリースキーで肋骨骨折 104/ 皇居外周を走る 106/ 
  忘れられない鹿児島旅行と桜島一周ラン 109/ マラソン人生最大の障害 113/ 入院 119/ 
  桜島再戦そして再び…… 121/ 行けるところまで 127/ ついにランニングを諦める 129/ 
  走れるかもしれない! 131

第二章 走る哲学
  『不幸を喜べ』 137/ 修行 142/ 帯状疱疹 146/ 三回目の桜島と新聞取材 148/ 
  少年たちから学んだこと 152/ 「有難う」 156/ 走る楽しさ 159/ 僕の夢 164/ 
  激痛で走った桜島 166/ 百日走 169/ 甘え 175/ 敗北者 178/ 皮肉の手紙 181/ 
  自然との対決 184/ 過剰な体罰禁止論 188/ 女子高生への人生訓 190/ 酷寒のマラソン 193/ 
  「死」について考える 196/ 重なる不遇 199/ もはや縁なし!? 204/ 疝痛との闘い 208


第三章 根性主義からの変転
  ランニング依存症 215/ ランニング継続最大の危機 218/ 
  精神主義の変化 プライドについて 223/ 「執着心」の無意味 227/ 放下 231/ 
  最大目標の実行計画 235/ 腰痛との永遠のつきあい 241/ 
  何度も悩む「途中棄権」と「完走」 243/ アラン・シリトー『長距離走者の孤独』 246/ 
  『強うなるんじゃ!』 250/ 精神主義の真の意味 252/ 非完走をめざす 253/ 
  レースを終えて 262/ 頑張らなくてもいい、負けなければいいんだ! 264/ 
  総括 精神主義ランニングの道 266

第四章 走ることのすすめ
  有酸素運動のすすめ 271/ ①生活習慣病の予防 272/ ②人間の持つ力を向上 277/ 
  ③脳の活性化 280/ ④スローランニング 288

 おわりに

前書きなど

はじめに


どんな人にも悩みというものはあります。
悩みというのは精神的な苦痛です。
お釈迦様はこの世で受ける苦しみを生老病死と四つに分類されました。
この世に生を受けること、老いること、病気になること、死ぬこと―更に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦が加わり、これを四苦八苦といいますが、細かく分ければそれを超える無数の悩み苦しみが襲いかかってきます。人間として生まれた以上苦悩はつきものです。
ではこれを解決する方法はあるのでしょうか。
人に相談したり、音楽を聴いたり、ギャンブルに興じたり、薬物やお酒に頼ったりしても一時しのぎにはなりますが根本的な解決にはなりません。己の精神力を強化する以外に方法はないのです。
かつて僕は政治運動を行っていましたが、その思想の根本にあるのは「政治」という〝俗物〟ではなく、強者の論理、人やモノに頼らない考え、甘えを廃絶する精神でした。
幼少期、軟弱に育った僕は年齢的に成長するにつれて、自分のわがままが世間に通用しないことを思い知らされました。泣けば許される、困ったことがあれば誰かが守ってくれると思っていたことは、実は子どもだからこそ認められる権利、大人になったら認められない思考なのだと気づかされました。それは年齢が上がるにしたがって更にその感を強め、政治思想運動の世界に入る頃には頂点に達していました。
当時左翼思想―反国家主義思想、過剰な民権思想というものは僕には甘えの思想、弱者の思想にしか受け止められませんでした。
たしかに遠い時代にはそうとは言い切れない実態もありましたが、昭和元禄と呼ばれ、高度経済成長期以降になると、学生主体の左翼運動の形態は、戦争の反動からか自由と権利を謳歌し、不自由を「ナンセンス」と決めつける状況へと様変わりし、僕が政治運動に関心を抱いた頃には、完全に左翼イコール自分勝手な振舞いにしか映らなくなっていました。
時代状況によって政治運動の質や立場、態度が変わるのは、近代国家が形成されてからの流れを見ればわかることで、ちょうど僕の時代にはその差が明確に現れていたように思います。
だとすればこの先、日本の政治的状況、及び未来の日本を背負っていかなければならない若者のとるべき態度はどのように変わっていくのでしょうか。
国家というものがいかに素晴らしい施策を考案しようとも、それを実践していく人間が不甲斐なければ国家は空洞化し退廃することは免れません。つまり国家の命運は一人ひとりの資質にかかっているということです。
現在、学校教育は本来人間が有すべき徳目主義や素養というものを教えることはしません。
戦前戦中は戦争気運の高まりがあったとはいえそれが明確にありましたが、戦後はむしろそれを戦争に結びつく思考として排除してきたように思います。
それをいいことと考えるか問題ありと捉えるかそれぞれ意見が分かれましょうが、焦点を国家の伸張に置くならば僕は明らかに後者だと思うのです。
家を建てるなら外観よりもまずは基礎をしっかり構築する必要があります。
それと同じく国家、いやもっと身近なコミュニティーを健全化するためには、その基盤たる人間の資質を向上させなければならないことは言うまでもありません。それが精神です。僕が政治活動から、目を精神という分野に向けたのはそれに気づいたからにほかなりません。
政治的状況はこれからどのように変遷していくか、それは誰にもわかりません。
現下の情勢なら数年、いや一年単位でスタンスは大きく変わります。しかし人間が何年経っても、何十年経っても変えてはならないものはあります。
その枢要なものが精神―協調の精神、思いやり(愛)の精神、頑強な精神、正義の精神……それらは底辺で結びつき、必ず国家の伸張に結びつくものと確信しています。
僕はそれを訴えたく思い今回の書にしました。
具体的なことは本文に譲りたいと思います。まずはじっくりと読み進めていってください。




おわりに


この書は自身のランニング歴、エピソードと精神の成長過程についてまとめたものでありますが、同時に多くの人々の自己啓発を願って書きました。
「人間の限界は自分が思っているよりもずっと遠くにある」ということを本文中にも書きましたが、僕はランニングを継続している中ではっきりとそれを確信しました。
僕は苛酷なランニングを自らに課し、精神の強化を目指しましたが、これは決して大したことをやっているわけではありません。根性なしの僕でさえここまでやれたのだから誰でもできる、だから「負けないで!」と言いたいのです。

この書の原稿を書いている最中の平成三十年十一月十六日午後三時半、本文にも書きました我が家で飼っている愛犬のあいが十六年と七ヶ月の生命を終え永眠しました。
以前よりペット愛好者の方から「飼っているペットが死んだら悲しいよ」と聞いてはいましたが、これほど悲しみの深いものとは想像もできませんでした。「親兄弟が死んだときよりも悲しかった」と言う人もいました。どうしてこれほどまで悲しいのか……。
その理由はいろいろ考えられますが、僕が感覚的に思ったことは「自分よりずっと短く終える生命」に対する哀憐の情ではないか……。
コピーライターのひすいこたろうさんが『名言セラピー』(ディスカバー・トゥエンティワン)という本の中で披露している言葉が強く心に響いています。

「あなたがくだらないと思っている今日は、昨日亡くなった人がなんとかして生きたかった、なんとしてでも生きたかった今日なんです」

出典は趙昌仁氏の著書『カシコギ』(サンマーク出版)だそうです。
僕が愛したあいも十六年間、その人生(犬生)を楽しんでくれたと思いますが、もっともっと生きたかったと思います。普段はおとなしく、滅多に鳴いたり吠えたりしないあいが最後の一週間は何度も鳴き叫んでました。部屋で独りぼっちになることが多く、あいは「一緒にいて!」と言いたかったのかもしれません。そう考えれば断腸の思いです。
いつまでも悲しむことはよくないといいます。
しかし生命を軽視したり、人生を無駄に生きていると思える人を見ると、望まずして生命を終えた生物の無念さを思わずにはいられません。せっかくの人生、僕たちは日々学び、心を鍛え、有意義な一生を送りたいと思うべきではないでしょうか。

僕は幼少の頃から「死」というものに関心がありました。
こう書くと、それを希望したり讃美しているような誤解を招くかもしれませんが、まったく逆です。
「死を学ぶということはそれ即ち生を学ぶこと」といいます。
つまりよりよく生きることを目指しての関心ですから、むしろ生の重要性を考えての思考といえます。無駄に生きること、無意味な人生を送ること―それは神様から与えられた大事な命や修行の精神を放棄するようなものです。
若い頃の僕は命を積極的に捨てる精神を立派なものだと思っていました。若気の至りです。死を恐れぬ精神こそ男らしいことと考えて粋がっていたのです。
東京で政治活動を行っていたとき、ご高齢の域に達していた師が、三島由紀夫の死を「自ら死ぬなんて間違った考えだ、生きて闘わなくちゃダメだ!」と言われたことがありました。まだ若く、生命の価値を軽視していた僕はそのとき異論をとなえました。
しかしその後、自分が年齢を重ねるにしたがって、そうした僕の捉え方は誤りだと気づきました。そればかりかご高齢に在られる方の心も悟らず、無礼なことを言ったものと今になって後悔しています。
幕末の志士吉田松陰は「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし」と言いながら、その後続けて「生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」と主張しています。
これが真理でしょう。
この考えは「死ぬことを求めてはならない」しかし「死ぬ段階になればじたばたしてはいけない」ともとらえられます。
それが真の「諦め」であり、そうした真理に目覚めるのが「明らめ」なのでしょう。

大会後、スリランカ仏教の長老アルボムッレ・スマナサーラの著書を読みました。
その名も『執着しないこと』というズバリのタイトルですが、この書に「人が自分の死を恐れ、他人の死を悲しみ、また悩みや迷いが生じるのは執着があるからで、こうしたこだわりが諸悪の根源である」という主旨の箴言があります。
こだわりというのはどんな人にもあります。しかしそれを極力なくせばもっと人生が充実できるのではないだろうか―。
また、合わせて読んだキリスト教のシスター鈴木秀子さんが書いた『「聖なるあきらめ」が人を成熟させる』の中には次のようにあります。

「あきらめとは、投げ出すということではなく、前向きにあきらめること。物事に執着しない「諦め」と、物事を明らかにする「明らめ」です。聖なるあきらめが一番大切なものを明らかにするのです」

三十年の年月を経て、もしかしたらこれが―と思うものに触れました。それが「執着心を持たない」ということ、それを「明らめる」切っ掛けとなったのが僕にとってはランニングだったのです。
あいの死もそうですが、愛情の気持ちを維持しながら、それでもそうした現実(執着)から脱却できなければ成長はないと教えてくれたのです。そこに到達できたことはよかったと思います。今のところはこれを信じて生きたいと思っています。

かつてW・ジェームズという心理学者が唱えた情緒理論というのをご存知でしょうか。
大脳などの中枢神経系よりも手足や内臓といった末梢神経系が優先するという説ですが、難しい説明をしても分かり難いので一つ例をあげて示すことにしますが、たとえば「人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなる」ということです。
これは主観的体験(悲しい)より生理的感覚(泣く)が優先するというものです。
こうした理論に基づけば「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しくなる」「苦しいから嘆くのではなく、嘆くから苦しくなる」ということになります。
更に深く考究していけば、行動によって感情が確立するという理論が成り立ち、突き詰めて応用していけば人生を有意義にできるものが発見できるような気がします。
こうした理論に異議をとなえる学者も在りますが、近年になって支持する学者も増え、実証的研究が進み論議が活発になっているようです。
バイタリティー―気持ちの持ち方が幸福のスイッチをONにし、人生に快をもたらすものと信じようではありませんか。

僕がケガや故障、疾病を抱えながらこれまで走り続けて来られたこと、また多くの気づき(明らめ)を得ることができたのは、たくさんの方々の支援や協力があったからこそ為せたものと思っています。
まず、今回の出版にあたり、多くのご助言をいただいた柏艪舎の山本哲平さんにはお世話になりました。有難うございます。
またこの原稿執筆中、僕のマラソンの記事をたびたび書いてくれた地元新聞記者の吉山一徳さんの訃報に接しました。
自らもスポーツを嗜む行動派で、ケガや故障をする僕にいつも慰労の声をかけてくれた優しい方でしたが、一昨年にがんを患い、昨年暮れ多臓器不全で亡くなられました。
敬虔なクリスチャンだったということを後になって知りました。彼のことは本文中にも書きましたが、誠にもって感謝に堪えません。
その他にも、齢七十を過ぎ、数年前には心臓病の手術をしながら今も走り続けている鍋島博さん、健康や漢方薬についていろいろとアドバイスしてくれた同じくラン友のウェルネスかいしん堂の金子勉さん、マラソン歴は短いながら、多くの苛酷なランに挑戦し続けている札幌の矢内利行君、ランニングで傷害を負ったり病に倒れたとき病院へ搬送してくれた曹洞宗祇園寺住職の北川智徳君、東京から遠路応援に駆けつけてくれた赤尾由美さん、いつも励まし力になってくれる親友の桜井邦平君、森岡幸一君、小林英児君……その他書ききれないので省略しますが、多くの理解者協力者の皆様に感謝申し上げます。
そして何よりも「走ること」を理解してくれた父さん母さんと、常に心の支えになってくれた愛犬のあいに感謝するよ。有難う!

令和元年九月吉日
小松 憲一

著者プロフィール

小松 憲一  (コマツ ケンイチ)  (

昭和37年北海道紋別市生。
昭和62年より東京において政治活動を行い、平成2年より精神の向上を目的にランニングの世界に入る。二十数回におよぶ100㎞マラソンをはじめ、多くのマラソン大会に出場し、また日々の過酷な走り込みの中で精神を養う。走る目的を独自の死生観に照らし、競技としてではなく修行と捉え、よりよき人生を全うできるという観念から現在も走り続けている。総走行距離は30年間で約10万キロ。

上記内容は本書刊行時のものです。