書店員向け情報 HELP
出版者情報
書店注文情報
在庫ステータス
取引情報
江戸文学を選び直す
現代語訳付き名文案内
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2014年6月
- 書店発売日
- 2014年6月9日
- 登録日
- 2014年5月8日
- 最終更新日
- 2014年8月12日
紹介
今、江戸文学の「古典」として取り上げるべきものは何か。
新たに「古典」を掘り起こすとしたら、どういうアプローチがありえるのか。
挑戦的、挑発的に実践する、現代語訳付き名文解説。
時代を越えて読み継がれ、それぞれの時代の価値観の中で読み替えられ、常に新たな外套をまとって我々の前に姿を現す「古典」を、既存の古典文学全集とは違う「古典」を、新たに汲み取り、光を当てる。
執筆は、井上泰至、川平敏文、一戸 渉、田中康二、高山大毅、勢田道生、池澤一郎、木越俊介、佐藤至子、日置貴之。
【江戸文学といえば、庶民の文学、というレッテルは、未だに高校の教科書レベルでは固定化してある。そして、小説・俳諧・演劇という三分類から、代表作者と作品を選び、これを特権化してきた。しかし、それは近代の眼から見てすくい上げやすいものを焦点化してきたのではなかったか?
近代の文学に対する目そのものが問い直されている時代、豊富な作品のある江戸文学から、見逃され、忘れられてきたものについて問うことは、文学への新たな見方を教えてくれるものになりはしないか? もっと言えば、近代の価値観に欠けているものを、認識させてくれることにつながるのではないか?
それまでの時代よりも、江戸時代に多くの古典たるべき作品の候補があるということは、それだけ多種多様な、日本語による文章の試みが行われ、名文が残されてきたことを意味するわけで、そうした日本語世界の言葉の森を一般にも知らせることが、私たちの急務なのではないのか?】...本書「序」(井上泰至)より
目次
序◉我々は江戸文学の魅力を本当に汲み取れているのだろうか?▼井上泰至
Ⅰ サムライの文学の再評価
1 戦国武将伝のベストセラー○熊沢淡庵『武将感状記』▼井上泰至
1 敵に塩を送った真意―現実的武士道
2 義のヒーローへ―『日本外史』
3 平時に武士道を忘れないために―『武将感状記』の成立環境
4 勇者への道
5 三杯の茶―人材登用の「眼」
6 天下取りに後れてきた男―管理者の心得
7 軍国の季節の修養書
8 縮こまりたくない男(女)たちへ―現代文学との交差
2 近世~戦前における「知」のスタンダード○室鳩巣『駿台雑話』▼川平敏文
1 「忠義」のゆくえ
2 朱子学の逆襲
3 鳩巣と和歌
Ⅱ 江戸版「日本の古典」への扉
3 和漢という対―近世国学史の隘路―○荷田春満『創学校啓』▼一戸 渉
1 『創学校啓』の来歴―聖典化と偽造説のあいだで
2 上表文としての『創学校啓』―読むための前提
3 『春葉集』における位置①―荷田信郷の「改竄」?
4 『春葉集』における位置②―和漢の位相をめぐって
4 擬古文再考―「文集の部」を読み直す○村田春海『琴後集』▼田中康二
1 古典文学の引用により成り立つ文―王朝物語や日記を想起
2 文体を駆使して和文を構成する春海
3 村田春海の和文論―和文における「記事」と「議論」の両立
4 擬古文成立史―擬古文は国学者が創造した
5 擬古文享受史①―近代以降の擬古文研究の流行
6 擬古文享受史②―戦後の擬古文研究の衰退
Ⅲ 漢文という日本文学の多様性
5 古文辞派の道標○荻生徂徠『絶句解』▼高山大毅
1 「夜色楼台図」と古文辞派
2 文学の制度設計
3 『絶句解』の注釈法
4 解釈の実例
5 「婉曲」の愛好
6 和歌表現との類似
7 『絶句解』の応用
8 文学評価のつづら折り
6 歴史人物のキャラクター辞典○安積澹泊『大日本史賛藪』▼勢田道生
1 『大日本史賛藪』の概要と成立過程
2 毀誉褒貶と人物イメージ
3 忠義の人・新田義貞
4 新田義貞は忠臣だったのか
5 義貞はなぜ忠臣とされるのか
6 『大日本史賛藪』の影響
7 『大日本史賛藪』の近代
7 美術批評漢文瞥見○薄井龍之「晴湖奥原君之碑」と『小蓮論画』▼池澤一郎
1 大正年間に綴られた漢文は「大正文学」たりうるか?
2 大正漢詩文を江戸文学に組み入れる
3 美術批評としての墓碑銘―「晴湖奥原君之碑」を読む―
4 『小蓮論画』を読む
Ⅳ リニューアルされる俗文芸の読み
8 西鶴武家物・解法のこころみ○井原西鶴『武道伝来記』『武家義理物語』▼木越俊介
1 選び直されてきた武家物
2 歩く火燵の怪
3 犬と臆病と武辺
4 虚(戯)につけ込むハナシ
5 死に至るハナシ
6 土中の死体
7 秘すれば漏れる
8 絶望的なまでに伝わらないハナシ
9 読む戦略を選び直す
9 二人の男の「復讐」と「奇談」○山東京伝『安積沼』▼佐藤至子
1 『安積沼』の概要
2 京伝読本の翻刻状況
3 戦前までの評価
4 作品研究の深まり
5 「復讐奇談」としての『安積沼』
6 『安積沼』の文体と『奥の細道』
7 読本をどう書くか
10 「選び直され」続ける歌舞伎○河竹黙阿弥『吾孺下五十三駅』『三人吉三廓初買』▼日置貴之
1 黙阿弥と小団次
2 『三人吉三廓初買』
3 『吾孺下五十三駅』
4 上演史と作品の評価
5 文学史の中の歌舞伎
跋◉かくして江戸文学の「古典」は選び直された▼田中康二
執筆者プロフィール
前書きなど
序
◉我々は、江戸文学の魅力を本当に汲み取れているのだろうか?▼井上泰至
日本料理が無形文化遺産に登録されたように、世界が日本の食文化に魅せられている。来る東京オリンピックでは、是非日本文化の「粋」と言える和食の数々で「お・も・て・な・し」をしてもらい、世界の人々に日本を深く知ってもらいたいものである。
その和食は、四季の移ろいを前提にした、多様で豊かな食材を、人工的な手を加え過ぎず、その本来の味を引き出す「思想」に基づいている。そんなことを考えさせてくれる名文に、辻嘉一の『味覚三昧』(中公文庫、一九七九年)がある。裏千家の茶懐石料理の達人にして料理研究家の食のエッセイ集だ。
海の中層の岩礁の多いところを好むタイは、海魚の王とたたえられるだけに、色調も姿も立派で品位の高い魚であり、しかも、すべての料理に適し、クセ味がなく、歯触りも固からず軟らかからずで、タイ以上の魚は見あたりません。
こんな調子で、一流の料理人にして、食材とその調理法を研究しつくした人間の眼を前提に、平明な文章で「記述」と「議論」が語られ、読むにつれ御腹が減ってくる。そればかりか、食材と料理同様、日本語の本来もっていた豊かさを実感させてくれる名文だ。漢字漢語・和語・カタカナを駆使して品位を下げず、「ざわり」でなく「触り」、「硬く」でなく「固く」、「柔らか」でなく「軟らか」と、表記の多様さを踏まえつつ、的確な字を選んで、さりげなく綴っていく。「教訓」も忘れない。戦後の農薬を使った量産・均一化を戒めてこうも言う。
あらゆるものが土より生まれ、土の恩恵によって成長し、やがて土に帰る宿命をもっていることを忘れてはならないと思います。
野菜も魚類と同様に、新鮮であることが最も大切なことで、刻々に鮮度は落ち、味わいもさがります。三里四方の野菜を食べておれば、延命長寿まちがいなし―といわれた昔を考え、できるだけ、近在の季節折々の旬の野菜を求める努力を忘れてはなりません。
こういう文章のモデルは、「正統」的な近代文学にも、「王道」をゆく平安文学にもない。本書の序文を、江戸文学に造詣の深かった石川淳が、わざわざ「夷斎學人」と名乗って書き、その冒頭には江戸時代の随筆的風土記『雍州府志』「土産門」を挙げているように、江戸文学の、それも小説・詩・演劇の近代的「文学」ではない「文章」に、その源流は求められる。江戸文学の研究も、教科書に載る古典も、「文学」にその精力を集中して光を当ててきた。我々は、江戸文学の魅力を本当に汲み取れているのだろうか?
そもそも「古典」とは何なのか? 長く読み継がれるべき模範的な作品とはどういうものなのか? 江戸文学とその研究の歴史は、それ以前の文学のそれから見ればはるかに浅い。我々は本当に江戸文学の中から「古典」を選び得ているのだろうか?
本書は、こういう問いかけに応じて、今江戸文学の「古典」として取り上げるべきものは何か、新たに「古典」を掘り起こすとしたら、どういうアプローチがありえるのかを、執筆者それぞれの関心に応じて呈示して頂いたものである。
本書に示された名文・価値観・読みの更新とその背景は、文学への新しい見方を教えてくれるし、日本語で書く文章の多様性と可能性を再認識させてくれる。
もう少し具体的に、本書における「古典」を選ぶ基準について話をしよう。江戸文学といえば、庶民の文学、というレッテルは、未だに高校の教科書レベルでは固定化してある。そして、小説・俳諧・演劇という三分類から、代表作者と作品を選び、これを特権化してきた。しかし、それは近代の眼から見てすくい上げやすいものを焦点化してきたのではなかったか?
近代の文学に対する目そのものが問い直されている時代、豊富な作品のある江戸文学から、見逃され、忘れられてきたものについて問うことは、文学への新たな見方を教えてくれるものになりはしないか? もっと言えば、近代の価値観に欠けているものを、認識させてくれることにつながるのではないか?
それまでの時代よりも、江戸時代に多くの古典たるべき作品の候補があるということは、それだけ多種多様な、日本語による文章の試みが行われ、名文が残されてきたことを意味するわけで、そうした日本語世界の言葉の森を一般にも知らせることが、私たちの急務なのではないのか?
さらに、詳しく、本書に収められた十編の編成から、各論の問題意識を明らかにしよう。
江戸時代は、二百六十年余りの平和が続きながら、東アジアでも特異な武士の政権であった。彼等社会に責任を持った階層の、価値観とそれを他の階層まで浸透させた文章群を問うことは、江戸の実態を明らかにする視点として有効であるばかりでなく、集団的な意識や、社会的責任といった問題を文学が正面から扱ってはいけないのかという今日的な問題を我々に問いかけるであろう(Ⅰ井上・川平稿)。
江戸時代はまた、漢学を知的世界の中心に据えたことを意識しながら、日本の古典を発見しようとした時代である。それを担った国学者は、日本語で学問をする意味、日本語で記述と議論をする方法を問うている。文化の中心から周縁に位置し続ける「日本」が、普遍性を持つ外来文化を受け入れつつ、どう学問をするのかといった今も変わらない問題がここには潜んでいる(Ⅱ一戸・田中稿)。
その江戸時代の学問の中心であった漢学は、どういう価値観を詩文・歴史・芸術に見出したのか。漢文という東アジア世界共通の古典語を、独自に日本語として組み入れ、かなり一般に浸透させた江戸時代の、教育プログラムや古典選定の方法、あるいは日本の歴史を秩序や倫理から読み直す意匠、さらには自然と馴致した世界観・価値観を背景とする美の世界。それは、日本語表現の豊かさと、近代科学や近代的個我の価値を問い直すことにもなろう(Ⅲ高山・勢田・池澤稿)。
最後に、こうした江戸当時の本流の文学とその価値観に照らした時、いわゆる庶民の文学はどう再評価すべきなのだろうか? また、そうした庶民の文学の、生命を持った古典化とはどうなされていくべきなのだろう? それは勢い、特権化された作家の文学の中から、評価されてこなかった作品に新たな魅力を見出し、古典が古典として立つ条件を顧みることへと繋がってゆくはずである(Ⅳ木越・佐藤・日置稿)。
本書によって、研究者が新たな文学史を志向することになれば、それはもちろん有難い。が、それ以上に、本書で紹介された作品群を読んでみたいという一般読者や、教えてみたいという中等教育の先生が現れることの方が、大切であると思う。それが古典を立てるという古典学者の一番大切な仕事の今の形だと思うからである。
上記内容は本書刊行時のものです。