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パリ、歴史を語る都市
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2020年3月10日
- 書店発売日
- 2020年3月12日
- 登録日
- 2020年1月9日
- 最終更新日
- 2024年2月15日
紹介
「私にとって、パリは石に刻まれた歴史書のような印象を与えた」(1911年、ピレネーからパリに来た15歳の菓子職人見習いの少年、後年フランス共産党の有力幹部ジャック・デュクロの回想を引用)
パリの街並を楽しみながら、数多の建物、石碑、人物の像、プレートに刻まれたフランスの歴史、記憶をひもとく。
多元的な都市の時空を訪ねる異色のパリガイド。
目次
はじめに~歴史を語る都市を歩く
第1章 首都パリの誕生
第2章 フランス史を書く
第3章 国民史とパリ
(1)三つの広場
(2)パンテオンとパリ市庁舎
(3)エトワール凱旋門とアンヴァリッド
第4章 文学、芸術、思想と科学
第5章 二つの大戦――鎮魂、栄光と「過ぎ去らない過去
第6章 破壊と近代化――失われたパリ、新しいパリ
第7章 語ることが困難な歴史
第8章 女性、外国人、帰化者
第9章 二十世紀末のパリ エピローグ――二十一世紀のパリは何を語るか
コラム
1 ノートルダムの火災
2 『二人の子供のフランス巡歴』と『教育事典』
3 エグザゴーヌ(六角形)
4 「黄色いベスト」運動とパリ西部
5 ジュール・ヴェルヌ
6 呪われた作家たち
7 贖罪礼拝堂
8 スタール夫人
9 ジュゼッペ・ガリバルディ
10 チャーチルとフランス――一九四〇年六月
11 二〇一五年のテロ事件
前書きなど
はじめに~歴史を語る都市を歩く
パリで最高の楽しみは何だろうか。こう訊ねられたとき、私はいつも散歩だと答える。もちろん、パリでの楽しみはいろいろある。美術館巡りは最高の楽しみの一つだ。ルーヴルはいつも観光客でにぎわっているが、たとえば北方絵画やフランス絵画の一部の展示室は来館者が意外にもまばらで、クラナッハ、あるいはジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品などをじっくりと堪能することができる。書店を覗くのもいいし、サン・ジェルマンやモンパルナスのカフェで時間をつぶすのも悪くない。月並みながら、ショッピングもあるし、レストランを食べ歩くのもいいだろう。しかし、私にとっては、パリで最も贅沢な楽しみは、何といっても散歩である。
パリでの散歩には、必ずといっていいほど発見がある。費用がかからないのに、収穫は大きいのだから、最高の楽しみだと言わなければならない。マレやカルティエ・ラタンなどの歴史地区を歩けば、必ず興味深い古い建築物―あるいは門扉などの建物の部分―に行き当たる。十九世紀後半以降に本格的に開発されたパッシーからオートゥイユあたりでも、ギマールのアール・ヌーヴォー建築やオーギュスト・ペレあるいはアンリ・ソヴァージュのアール・デコ建築の作品をそこここに発見することができる。こうした楽しみはパリの専売特許ではないが、パリのように中世のゴシック様式の教会やルネサンスの貴族の館から近・現代建築に至るまで、多様な建物を発見できる都市はそう多くはないはずだ。ノートルダムやパンテオンのように巨大な建造物だけでなく、中小規模の館などが多く残されているところも、私には好ましく思われる。
もう一つ、パリをぶらりと歩きながら発見できるものに、さまざまな広場や大通りと街並み、記念碑、人物の像、記念プレートなどがある。広場や大通りは単にオープンスペースや道路というだけではなく、周りを囲む、あるいは通りの両側に並ぶ建物が、たとえばヴォージュ広場やリヴォリ通りのように統一的な様式で造られていたりする。記念碑や像は多くの場合、広場や公園など、いくらか広いスペースのある公共の街路に建っている。人物の像はブロンズ像または石像で、騎馬像もあれば立像、座像、胸像もある。ときには、横になっていることもある。実在の歴史上の人物の像もあれば、ギリシャ神話の女神の像もある。アレゴリー的、抽象的なものもある。ロダン作のラスパイユ大通りのバルザック像などのように、誰でも知っている彫刻家の作品を見ることもできる。さらに、ヴァンドーム広場やバスティーユ広場の中央には円柱が建てられ、レピュブリック広場やナシオン広場の中央には記念碑が置かれている。トロカデロ広場の南西側、パッシー墓地の外壁にあたる部分には、第一次世界大戦の死者に捧げられたポール・ランドフスキ作の慰霊碑がある。エトワール広場の中央に建つ凱旋門も、ナポレオン戦争の勇士たちに捧げられた記念碑なのである。
広場や通りの名前にも意味があり、また役割がある。マレ地区やカルティエ・ラタンなどの歴史地区には、いかにも歴史地区ゆえの名前を見いだすことができる。サン=ジャック通りは、かつてのサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼に向かう道路の始まりにあたる。サン=ジャックとはキリストの使徒の一人、聖ヤコブのフランス名であり、サンティアゴはそのスペイン名である。サンティアゴ・デ・コンポステラはフランス語ではサン=ジャック・ド・コンポステルと呼ばれる。タンプル通りは、かつてテンプル騎士団(フランス語ではタンプル)パリ本部の脇を通る道であることからこう呼ばれた。一区にあるフェロヌリ通りは、十三世紀に聖王ルイ九世が貧しい金具職人にこの通りに仕事場を作ることを許したことから、金具製造の職業を指すフェロヌリという名がつけられたという。この通りは、一六一〇年五月十四日に、アンリ四世がフランソワ・ラヴァイヤックに暗殺された場所であることから、歴史にその名をとどめている。
特に十九世紀になって、一八六〇年にパリ市が周辺の村を吸収して面積を大幅に拡大し、セーヌ県知事オスマンの指揮の下に都市の大規模な近代化が図られると、いくつもの新しい大通りが開通し、それらに名前が与えられた。エトワール広場から放射状に伸びる十二本の大通りには、第二帝政下で、ボナパルト一族の二人の皇帝(ナポレオン一世と、その甥のナポレオン三世)と二つの帝政の栄誉を称える名称が与えられた。広場から西へ、こんにちではラ・デファンス地区のアルシュに向かって伸びる道路にはグランダルメの名がつけられた。グランダルメとはナポレオン一世の率いた軍に与えられた名称であり、偉大なる軍隊を意味する。北へと向かうヴァグラム大通りは、一八〇九年にナポレオン軍がオーストリア軍に対して勝利を収めた戦場の名にちなんでいる。現在のヴィクトル・ユゴー大通りは、ユゴー存命中の一八八一年にこの文豪の名前が冠されるまで、エイロー大通りと呼ばれていた。エイローとは東プロイセンのアイラウ(現在のロシア領カリニングラード近く)でナポレオンが一八〇七年にロシア・プロイセン連合軍に対してあげた勝利を記念してつけられた名である。
これらの像、記念碑、広場や通りの名前の存在は、パリがフランスの首都であることに由来している。当然ながら、どこの町にも記念碑や像は存在する。ヴィクトル・ユゴーやド・ゴール、あるいはパストゥールの名のついた広場や通りは、他の多くの都市にも見られる。しかし、パリほど多くの記念碑や大規模な建造物がある都市はフランスでは他には存在しない上、歴史的人物の像などにしても、その都市もしくは地方にゆかりの人物のものが多い―カストルとカルモーのジョレス像、ストラスブールのクレベール像、ディナンのデュ・ゲクラン像などのように。
歴史家モーリス・アギュロンは、著書の中で、一九一一年に生まれ故郷のピレネー地方からパリにやって来た、当時十五歳の菓子職人見習の少年の後年の回想を引用している。「私にとって、パリは石に刻まれた歴史書のような印象を与えた」。この少年とは、後年フランス共産党の有力幹部となるジャック・デュクロ(一八九六―一九七五)である。十五歳ですでに学業を離れ、働きはじめていた少年の目に、パリが歴史書のように見えたという事実は注目に値する。この引用の後で、アギュロンは、現代の十五歳の少年に、歴史建造物のファサードや彫像を解読する能力があるのだろうか、と疑問を呈している。
いかにも、首都パリはフランスの歴史、そしてフランスの記憶を語る都市である。パリは、それぞれの時代の支配者、それぞれの時代の体制が、それぞれの歴史観、国家観に基づき、造ってきた。したがって、パリは決して終始一貫した、一つの論理だけによって造られたのではなく、むしろ多元的な都市だと言える。そこには、絶対王政の主張も、二度の帝政の思想も、そして共和国の哲学も刻まれている。しかし、こんにちのパリが主として十九世紀後半に形成されたことを考えると、それは十九世紀の国民思想を主たる基盤としていることが理解できるだろう。十九世紀末の、共和主義的なフランスの思想が凝縮されていると言って差し支えないのではないだろうか。
それと同時に、公式の記憶に残されなかった事件、存在を忘れられた人々もある。はるか後になって、記憶を回復された出来事や人々もある。これらについても、本書では触れておきたい。
これから、この都市が表現するフランスの歴史とフランスについての観念がどのようなものかを訪ねるとともに、二十一世紀のいまに至るまで、どのような変遷を遂げてきたのかについても、考えてみたい。
本書を案内役としてパリの街を歩いていただけるなら、著者としてはこの上ない喜びである。
上記内容は本書刊行時のものです。