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ミドリ楽団物語
戦火を潜り抜けた児童音楽隊
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2016年8月15日
- 書店発売日
- 2016年8月9日
- 登録日
- 2016年7月2日
- 最終更新日
- 2024年2月15日
紹介
疎開先でも活動を続けた世田谷・代沢小の学童たちのひたむきな演奏は、戦中、日本軍の兵士を慰撫し、戦後は音楽で日米をつなぐ架け橋となった!
戦時下に発足し、陸軍を慰問し評判となった代沢小学校の小学生による音楽隊は、戦後にはミドリ楽団として華々しいデビューを遂げ、駐留米軍をはじめ多くの慰問活動を行った。
音楽を愛する一人の教師が、戦中・戦後を駆け抜けた稀有な音楽隊を通して、学童たちとともに成長していく物語。
目次
第1章 代澤浅間楽団 昭和19年(1944年)
第2章 真正寺楽団 昭和20年(1945年)前半
第3章 真正寺楽団東京へ 昭和20年(1945年)後半
第4章 ミドリ楽団結成 昭和21年(1946年)
第5章 ミドリ楽団世代交代 昭和22年(1947年)
第6章 新生ミドリ楽団 昭和23年(1948年)
前書きなど
プロローグ
一つの新聞記事を紹介して物語の扉を開けることにしよう。昭和二十五年(一九五〇)十月十七日の「毎日小学生新聞」に載ったものだ。タイトルには「心をこめた演奏」とあり、続いて「傷ついた兵隊さんを慰める」とある。
きずついた国連軍の兵隊さんが、しずかにからだをなおしている、東京本所のアメリカ陸軍病院の劇場から、一昨十五日ごご、ラ・パロマやアメリカンメドレー、荒城の月などのうつくしいメロディーが流れました。これはいままでに小学生新聞紙上でたびたびお知らせした東京世田谷区代沢校のミドリがっそうだんのいもんえんそうでした。ミドリがっそうだんはいまから十年まえ学校をそかいしたころ、おんがくのはまだて先生を中心にうまれたのでした。年がかわり人がかわってもミドリ合奏団のなまえはうけつがれ、まいしゅうきまった日に、一生けんめいれんしゅうをしています。病院やアメリカン・スクールでえんそうしてアメリカのおじさんおともだちにもたくさんのファンができています。この日のいもんは、こうして外でえんそうをはじめてから百三十回目でした。がっきの中には、去る二月シヤトル市長ウイリアム・デヴィン氏などのアメリカ議員団のおじさんたちが日本にきたときにおくられた、ぴかぴかのシロフォンもありました。こころをこめた大ねっしんに、へいたいさんたちもすっかり元気をとりもどし、力いっぱいのはくしゅをおくっていました。
ここで触れられている合奏団は「ミドリ楽団」だ。東京世田谷の代沢小学校の学童三十二名によって構成されている。母体となったクラブの発足は昭和十四年(一九三九)四月だ。当校の教師浜館菊雄先生の発案で創部されている。この二年後の昭和十六年、太平洋戦争に突入する。戦況は次第に不利になり、東京は敵の重爆撃機に空襲される可能性が高くなってきた。このことから十九年夏、学童たちは地方に強制疎開させられることになる。
親から引き離されて学童は寂しい生活を送る。その彼らに浜館は、「慰安と娯楽こそ必要欠くべからざるもの」と考えた。それで楽器を疎開先へ運ぼうと決意した。その結果、戦争中もたゆみなく練習を続けた。戦争末期、合奏団は陸軍病院や決戦部隊などの日本軍の部隊を訪れ、兵隊たちを慰問している。ところが、昭和二十年八月十五日、戦争は終わった。学童たちは秋になってようやく故郷、東京に帰ってくる。やがて、荒廃した東京郊外の街に再び楽団演奏は響くようになった。戦争中もたゆむことなく貯えた力はここから花開いてゆく。
戦後は国連軍、アメリカ軍の傷ついた兵隊たちやアメリカン・スクールの生徒たちを慰問している。文字通り「戦火を潜り抜けてきた児童音楽隊」である。音楽に国境はない。子どもたちは音楽活動を通して敵味方を超えて人々の心を和らげてきた。その演奏技量は日本では群を抜いていた。「器楽の代沢」との評判を得ていた、この方面での先進校であった。実際、彼らの合奏を収録したSPレコードが日本コロムビアから「簡易楽器規範合奏」として複数枚発売されている。全国の小学校生が学ぶべき規範、器楽合奏の日本での先駆けとなる児童楽団だった。
これは、その「ミドリ楽団」の活躍を素材にして描いた物語である。
上記内容は本書刊行時のものです。