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留岡幸助と備中高梁
-石井十次・山室軍平・福西志計子との交友関係-
- 出版社在庫情報
- 品切れ・重版未定
- 初版年月日
- 2005年7月
- 書店発売日
- 2005年7月25日
- 登録日
- 2010年2月18日
- 最終更新日
- 2017年1月21日
紹介
新島襄、金森通倫、J.C.ベリー、二宮邦次郎、柴原宗助、赤木蘇平、留岡幸助、福西志計子、山室軍平、石井十次らが繰り広げた美しい理念追究の人間ドラマを紹介したのが本書である。
目次
一章 新島襄と備中高梁
1 新島襄と軍艦操練所
2 備中松山藩の「快風丸」と新島襄
3 同志社の設立と熊本バンド
4 岡山ステーションの高梁伝道
5 新島襄の高梁への伝道と高梁教会の設立
二章 明治初期 備中高梁における近代化の諸相
1 近代化プロセスの局面とステップ
2 備中高梁(客体)の社会構造
3 西欧文化導入の諸相
4 地域社会の文化変容
5 キリスト教伝道への拒否反応
三章 留岡幸助の思想形成と備中高梁
1 少年期の原体験
2 キリスト教入信と受難
3 同志社における留岡の思想形成と召命
4 留岡幸助をとりまく備中高梁の人脈
5 備中高梁にかかわる留岡幸助の人脈
6 留岡幸助の思想形成と備中高梁
四章 留岡幸助の思想・行動とその特質
1 留岡幸助の召命─監獄改良・教誨師
2 留岡幸助における教育と自然環境
3 教育の重視と家庭学校
4 二宮尊徳思想との邂逅と地方改良運動
5 留岡幸助の社会観・社会主義観に対する批判
6 教育農場の建設と経営
五章 三人の先駆的社会事業家と備中高梁
1 三者の行為にみられる共通点
2 石井十次と高梁基督教会
3 留岡幸助と二人(石井・山室)の畏友
4 山室軍平と三人(石井・福西・留岡)の敬愛する先輩たち
六章 順正女学校の教育理念と福西志計子の人間像
1 福西志計子の生い立ちと立志
2 キリスト教との出会いと受難
3 女子中等教育機関の創設
4 順正女学校の教育理念と基督教会
5 順正女学校の教育体制
6 県立移管とその後の歩み
7 福西志計子の人間像
前書きなど
はしがき
備中高梁の吉備国際大学に勤めるようになった平成9年ごろ、大学では地元が生んだ偉人山田方谷についての研究が始められていたが、そこに集められた資料から、ここにはすぐれた教育文化の伝統が存在することが察知された。さらにその高梁において幕末から明治にかけての動乱期に二つの感動的な人間ドラマが展開されたことを知り、これに興味をそそられた。
第一のドラマは、徳川幕府の崩壊に巻き込まれた佐幕藩の主従がたどった悲劇である。しかし幸い山田方谷等の献身的な働きによって、壊滅の惨劇は避けられた。家臣が身を挺して北国の果てから救い出し、自首して虜囚となった君主は許された後、死の間際に「あの世でも側にいてほしい」と家臣(川田剛)に遺言した。その家臣も7年後、主君の墓の側(東京駒込吉祥寺)に葬ってほしいと言い残して逝った。二人は結びついて永遠に離れることはない。幽明の界を異にしてもなおゆらぐことのなかった「君臣の絆」は時空をこえて限りなく美しい。
さて山田方谷は人倫の根本として「至誠惻怛」を説いた。誠をもって人に仕え、慈しみの心を持って人に接し、私利を捨てて人を救うことこそが最善の生き方であると教えた。この「惻怛」(いつくしみ)の精神は、次の第二のドラマを担った人々に引き継がれていると筆者は思っている。
第二のドラマは明治初期の高梁の近代化(文明開化)の熱い理念を求める物語である。敗者としての悲運にあえぐ備中高梁にも近代化の荒波が襲ってきた。それは、西洋の自由民権思想、キリスト教、西洋医学がセットとなって流入し、古い社会システムと衝突しながら、次第に定着していった。
筆者はことのほかこの第二のドラマに魅惑され、これを研究してみたいと思うようになった。そこには新しい文明・理念にとらえられた人々の精神の昂揚が見られ、また華麗な人間模様が織りなされているからである。
まず第一の自由民権運動については、板垣退助の「立志社」、大阪の「愛国社」の運動に呼応して岡山でもさまざまの結社が作られ、高梁でも柴原宗助によって「開口社」ができ、運動がなされたが、やがて岡山では「県議主導による請願の大衆運動」へと性格が変質していった。そのような中で、明治12年6月千葉県の桜井静から送られてきた「国会開設懇請協議案」に賛同した高梁の県会議員柴原宗助は「両備作三国親睦会」を通して、全国で二番目の国会開設請願書を元老院に提出している。このように、岡山県独自の活発な活動がなされたが、やがて県令の圧力によって、この運動も次第に下火になっていった。
第二の西洋医学については、岡山の米国コングリゲーション教会のミッション・ステーションに在任していた宣教医師J・C・ベリーと高梁の開業医赤木蘇平の協力によって導入された。まず、仮診療所が設けられ、続いて私立高梁病院が設立されたが、これは当時県立岡山病院につぐ設備の整ったものであったといわれている。
第三に近代化の三点セットの中で、ことのほかキリスト教の伝道が高梁に最も大きな影響を与えていたといえよう。高梁へのキリスト教の最初の伝道者は、熊本バンドのリーダーで同志社を卒業し、岡山教会の牧師を務めていた金森通倫(明治12年10月)であるが、さらに決定的な衝撃を与えたのは、新島襄(明治13年2月)の説教であった。新島襄は、備中松山と親戚藩であった群馬県の安中藩士であったが、江戸から備中玉島港へ、次いで箱館への回航も備中松山藩の快風丸によるものであり、さらに箱館からの脱出国を助けたのも松山藩士たちであった。新島はその恩返しに大いなる福音(キリスト教)を高梁の人々に伝えたのである。新島の説教に感動し、神に捉えられたのが二宮邦次郎、柴原宗助、赤木蘇平、福西志計子、木村静等初期の教会員たちである。明治15年4月には、高梁基督教会が設立された。この教会は、リバイバルや迫害を経験しながら順調に発展していった。
明治12年10月、初めての高梁伝道のあと、信者たちで「風俗改良懇談会」が結成され、併せて婦人たちによって「基督教婦人会」が形成された。そのリーダーが福西志計子であった。彼女らは会合を小学校付属裁縫所で開き、夜間にわたることもあったので、彼女らの活動のあり方が町議会で問題となり、それは風俗改良に名を借りた政治ないし宗教活動であるから公務員としての服務のあり方に反するものと批判された。そこで福西と木村の二人は、信仰を捨てるか、職を辞するかの二者択一を迫られた。二人は意を決して14年7月教員の職を辞した。しかし二人はこの逆境に屈することなく、信者たちの支援を受けて、同年12月10日「私立裁縫所」を開設したのである。さらに16年と17年には教会への迫害が襲ってきたにもかかわらず、福西は裁縫科に文科を加え、18年1月「順正女学校」を創設した。女学校は、岡山県下初めてのものであった。
町人の家に育った留岡幸助は、明治13年ごろ「士族の魂も町人の魂も赤裸々になって神様の前に出る時は同じ値打ちのものである」との説教に感動して信者となり、15年7月受洗した。彼を信仰に導いたのは、赤木蘇平医師であった。彼は同志社に学んだが、天職として監獄の改良運動を選び、北海道の空地集治監の教誨師となったが、そこの囚人との面接から不良少年の感化事業の重要性を悟り、東京巣鴨と北海道遠軽に「家庭学校」を創った。豊かな能力に恵まれながら、世俗の栄達には見向きもせず、ひたすら世の底辺を照らした留岡の崇高な生きざまは、筆者の魂を限りなく魅惑し続けている。
備中哲多町出身で明治28年に救世軍に身を投じ、遊郭の女性の解放運動など留岡と同じ社会事業に献身した山室軍平は、明治22年17歳の若さで初めての路傍伝道に立ったのが高梁であったし、翌23年と27年にも高梁基督教会で伝道している。山室にとって高梁教会は信仰の故郷であった。また山室軍平は、留岡幸助の父金助がキリスト教嫌いから回心して信者となる過程の生き証人でもある。誠に二人は不思議な縁で結ばれた心友であった。
調査を始めたころ、岡山孤児院の石井十次が高梁教会と関係があるとは思っていなかったが、調べていくうちに意外な関係があることが次第に分かってきた。まず、石井は炭谷小梅の勧めで妻品子を就学(明治18年5月)させたが、それは高梁の順正女学校であった。品子は高梁教会の牧師によって洗礼を受けている。また石井はその傘下(岡山伝道義会)に牧師花田岩五郎を擁していたが、この花田岩五郎は福西志計子等のはからいで高梁の伊吹家の養子に迎えられて、高梁教会の牧師を務めるとともに順正女学校の講師になったが、後には校長の重責をになって中興の祖と仰がれるようになった。石井十次もまた高梁教会と極めて深いつながりがあったのである。
留岡幸助と山室軍平との人間的な縁についてはすでにふれた。石井十次と山室軍平はあたかも兄弟のような終生の真友であったし、石井と留岡は同業の社会事業家として尊敬し合った心友であった。これら三人の先駆的社会事業家の熱く崇高な人間の絆を深く詳細に探ることは、誠に意義のある課題といえよう。
以上述べてきたように、明治・大正期に備中高梁を舞台に、新しい理想の結晶として成立した高梁基督教会、順正女学校を核にして展開された、新島襄、金森通倫、ベリー、二宮邦次郎、柴原宗助、赤木蘇平、留岡幸助、福西志計子、山室軍平、石井十次等が繰り広げた清冽で美しい第二の人間ドラマを追跡し再構成したのが本書である。筆者が魅惑されてやまない理念追求のドラマである。
版元から一言
岡山県高梁市が生んだ偉大な社会事業家・留岡幸助と、高梁ゆかりの先駆的社会事業家たちとの崇高で熱い絆を描いた1冊。山田方谷の「至誠惻怛(ルビ:しせいそくだつ)」(福祉と奉仕の理念)は、岡山・高梁市で受け継がれていたのである。
上記内容は本書刊行時のものです。