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映画の戦後
- 初版年月日
- 2015年5月
- 書店発売日
- 2015年5月15日
- 登録日
- 2015年4月2日
- 最終更新日
- 2016年5月25日
書評掲載情報
2015-07-26 |
毎日新聞
評者: 池内紀(独文学者) |
2015-07-05 |
東京新聞/中日新聞
評者: 小野民樹(大東文化大学教授) |
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紹介
「やくざ」を演じてきた高倉健と菅原文太が相次いで亡くなりました。同時代のアメリカでダーティ・ヒーローを演じてきたクリント・イーストウッドは、戦争をテーマとした新作を発表しています。
小津安二郎作品のヒロインである原節子の瞳から消えない悲しみ、昭和20年代の日本人が夢中になったリベラルなハリウッド映画、戦勝国アメリカを揺り動かした赤狩りとヴェトナム戦争──戦後、日本映画は「悲しみ」を描き、アメリカ映画は「個の誇り」を描いてきた、と川本氏は考えています。
敗戦から70年を迎える今、川本三郎氏が綴る日本、そしてアメリカの戦後映画史です。
目次
1 戦後映画の光芒
「やくざ」が輝いていた時代──追悼 高倉健と菅原文太
詫びるヒーロー──かたぎへの負い目
「聖林」に酔った日本人
戦争の時代から、戦後へ──原節子の「悲しみ」
昭和史のなかの小津安二郎──田中眞澄『小津安二郎周游』
東宝映画に見る、「映画館」と「都電」のあった頃の東京
ひとの生き方に関わる映画論──佐藤忠男『映画の中の東京』
歩くことから始まる──美術監督、木村威夫
昭和三十年代の東京が捜査の舞台──『警視庁物語』シリーズ
文学と映画──松本清張原作『張込み』を見る
黒澤明の型破り
幻想の良き町と現実の小さな町の狭間で──『男はつらいよ』の風景
旅する寅さん
昭和という時代を生きた名女優 高峰秀子
「玄人」の美、芸が裏打ち──山田五十鈴さんを悼む
女優という「魔」──中丸美繪『杉村春子 女優として、女として』
通り過ぎる者の目で見た風景
2 アメリカの光と影
個独のヒーローのゆくえ──クリント・イーストウッド論
個性派スターの輝き──ワーナー映画の魅力
大衆の反乱、知識人の戦慄──ハリウッド赤狩り論
エドワード・ドミトリク──泥だらけの弁明
異邦人の裏切り──エリア・カザンと赤狩り
戦争は否定しても兵士自身を否定する理由はどこにもない
──ヴェトナム戦争を描くドキュメンタリー『ハーツ・アンド・マインズ』
『ディア・ハンター』
ヴェトナム戦争後の故郷への回帰──七〇年代アメリカ映画
「家に帰りたい」──八〇年代アメリカ映画の内向き志向
あとがき
前書きなど
あとがき
今年、平成二十七年(二〇一五)は戦後七十年目になる。私は昭和十九年(一九四四)生まれだからほぼ戦後と同じ年齢になる。
その七十余年の人生の五十年以上を映画と共に過ごしたことになる。自分が生きてきた時代がどういう時代だったのか気にならない筈はない。
映画批評を書くようになってから四十年以上になるが、私の批評は、映画をその時代のなかに置いて見ることが基本になっている。映画を独立した表現テキストと見るよりも、そこにどういう時代状況が反映されているのか、映画と時代の関わり、接点が気になる。
「戦後」という時間は「昭和」と重なる。平成も三十年近くなると「戦後」という言葉は、次第に歴史用語になりつつある。しかし戦後を生きてきた人間にとってはいまだに現実の重みがある。
子供の頃は、東映の時代劇の他は、あまり日本映画は見なかった。暗く、貧しい映画が多く、たまに見ても、日常の暮しの地続きで「我を忘れる」楽しさがなかった。
文芸評論家の平野謙はかつて、小説の面白さは「我を忘れる」か「身につまされる」かだと言ったが、それに倣えば、子供の頃は、「我を忘れる」映画のほうに夢中になった。
戦後の日本映画を名画座やフィルムセンターでよく見るようになったのは四十歳を過ぎてから。懐かしいと同時に、「身につまされた」。そこには、たしかに「戦後」があった。言うまでもなく「戦後」とは「戦争のあと」。その「戦争」とは、戦時中は、大東亜戦争と呼ばれた第二次世界大戦のことである。
戦後の日本映画には、戦争映画だけではなく、小市民映画にも、あるいは怪獣映画にさえ、まだ戦争の影が落ちていた。そのことを考えさせられた。
私にとって、戦後の日本映画を語ることはその戦争の影をとらえることになった。原節子や高峰秀子の美しい表情のなかに、どうしようもなく、戦争を体験し、敗れ、そして家族を失った日本人の悲しみを見てしまう。
六〇年代の後半に人気が出た東映のやくざ映画にしても底流には戦後があった。やくざは戦後の闇市と深く関わったのだから。『仁義なき戦い』シリーズは、もうひとつの戦後史になっている。そう思ってやくざ映画を見ると、これも「我を忘れる」というよりも「身につまされた」。
一方、子供の頃に見るアメリカ映画は、仰ぎ見る映画だった。憧れの対象だった。常盤新平さんの言葉を借りれば「遠いアメリカ」だった。
その一九五〇年代のアメリカ映画が実は、当時、「赤狩り」の影響を受けていたと大人になって知ったときは驚いた。
『エデンの東』(五五年)を作ったエリア・カザンや、『若き獅子たち』(五七年)『ワーロック』(五九年)のエドワード・ドミトリクが赤狩りに屈して、「密告者」になったと知ったときは愕然とした。彼らの映画が「明るく楽しい」ハリウッドに比べると「暗い」とは感じていたが、その背景には彼らの挫折の体験があったか。
一九七〇年代のはじめ、映画批評を書くようになってから、「赤狩り」は私のテーマのひとつになった。自身の体験もあったから、『赤狩り」への関心は強まった。
そして、「赤狩り」へ抗い続けたドルトン・トランボやジョセフ・ロージーに対する敬意を持ちながら、他方、「裏切者」「転向者」と進歩派映画人に指弾されたエリア・カザンやエドワード・ドミトリクに興味を覚えた。何よりも十代のときに感動して見た映画の監督のことをないがしろにしてはならないという思いがあった。「赤狩り」を、敗者のほうからとらえるとどうなるのか。
はじめての「赤狩り」論、「大衆の反乱、知識人の戦慄」は、松田政男さんが編集長をつとめていた、いまはない「映画批評」誌の一九七二年十二月号に書いた。「赤狩り」をテーマにすることを強くすすめてくれた松田政男さんに感謝したい。この論文は、私の最初の評論集『同時代を生きる気分』(冬樹社、七七年)に収録した。この本はとうに絶版になり手に入りにくくなっているので、今回、再録できたのはうれしい。私の映画批評の出発点としてお読みいただければ有り難い。
近年、赤狩りを論じる若い批評家が増えたが、彼らの文章には「情報」はあっても、書き手の「葛藤」「痛み」が感じられない。ただ、「赤狩り」をお勉強している。また抵抗者は善、転向者は悪と決めつけているきらいがある。ドルトン・トランボが言ったように「犠牲者だけが残った」という視点が大事だし(エリア・カザンもエドワード・ドミトリクも犠牲者だ)、人間を白か黒かで論じるよりも、むしろその中間の灰色の領域で考えることが大事ではないか。
その意味で「中央公論」一九八四年二月号に書いた「エリア・カザン論」も私にとっては思い出が深い(単行本未収録)。私と同世代で、やはり十代のときにカザンの映画に感動していた、当時の「中央公論」の編集者、早川幸彦さんに感謝したい。
「遠いアメリカ」が一九六〇年代に入って「近いアメリカ」に変わった。『俺たちに明日はない』(六七年)にはじまるアメリカン・ニュー・シネマの登場である。
ヴェトナム戦争に対する反戦運動が強まってゆくなかで作られたアメリカン・ニュー・シネマは、当時、二十代だった日本の映画ファンの心をゆさぶった。無論、彼我の違いはあったが、『俺たちに明日はない』も『イージー・ライダー』(六九年)も『明日に向って撃て!』(六九年)も「我らの映画」に感じられた。「ヴェトナム戦争」は、「赤狩り」に続いて私のなかのテーマになった。「赤狩り」が過去の歴史だったのに対し、「ヴェトナム戦争」は同時代の出来事だった。
ただ、彼我の大きな違いがあった。日本の若者は反戦デモには参加したが、ヴェトナムの戦場に駆り出されることはなかった。しかし、彼らはそこに行った。
「週刊朝日」の記者をしていたとき、青森県三沢基地を取材し、若い米兵に会った。私より年下だったかもしれない。彼は、「お前たち日本人はいい。反戦デモをしているだけでいいんだから。俺たちはこれから戦場に行くんだ」と言った。
このときのことはいまでも忘れられない。
そのあとにつくられる『ディア・ハンター』(七八年)や『地獄の黙示録』(七九年)などのヴェトナム戦争を語るとき、この無名の兵士の視点こそを基本にしようと思った。
本書は、これまで書いてきたさまざまな映画批評のなかから、七つ森書館の上原昌弘さんが取捨選択して構成してくれた。日曜日の夜遅くにまでわが家にゲラを届けてくれる熱意あふれる上原さんに深く感謝したい。
上記内容は本書刊行時のものです。