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ベートーヴェンとベートホーフェン
神話の終り
- 初版年月日
- 2013年9月
- 書店発売日
- 2013年9月12日
- 登録日
- 2013年8月8日
- 最終更新日
- 2013年9月9日
紹介
交響曲《運命》《田園》や《合唱》(第九)、ピアノ曲《エリーゼのために》など、数多くの名作を生み出した大作曲家「ベートーヴェン」の真実が、ここにはじめて明かされる。
メイナード・ソロモンによる『ベートーヴェン(上・下)』(岩波書店)以来、日本ではおよそ20年ぶりに刊行される、楽聖の生涯をめぐる謎に迫った大著。
これまで描かれた肖像画がどれほど理想化されていたか(第2章)、社交界の女性たちや「不滅の恋人」との関係の真相(第4-5章)、甥の親権をめぐる裁判沙汰(第6章)、「第九」の歌詞に込められた若き日からの思い(第9章)……そして巻末付録には、彼の生涯を巡る最大の謎とされた「不滅の恋人」への手紙の全訳を収録。
構想に3年、執筆に2年をかけた、日本を代表する音楽評論家による畢生の書き下ろしである。
目次
プロローグ
第1章 盛 名
第2章 有名人の肖像
第3章 ゲーテとベートホーフェン
第4章 女たちの影
第5章 “不滅の恋人”
第6章 愚 行
第7章 革命的な音楽家
第8章 栄 冠
第9章 終 章
巻末付録=「不滅の恋人」への手紙
あとがき
前書きなど
あとがき
「生前のベートホーフェン本人を知っている人が彼の伝記を読んだら『いったい、これはだれのことを書いているんだ』と言うだろう」
と言ったのは、二十世紀の前半から後半にかけて音楽評論の世界で、質量ともに圧倒的な業績を残したアーネスト・ニューマンである。それほどに、世に行われてきたベートホーフェンの伝記は、真実とはほど遠かったわけである。
といってもこれは本人の罪ではない。周囲がそのように仕立てたのである。周囲とはまた時代のことである。時代はまさに、プロイセンを代表とするドイツが、国内統一とヨーロッパの覇権を目指す時期にあった。政治的にも、文化的にも、彼らは先進のフランス、イタリア、スペインなどのラテン系諸国やアングロ・サクソンに対して〝追いつけ、追い越せ〟の旗印を掲げて走り出したところであった。
幸か不幸か、ベートホーフェンの革新的でアグレッシヴな中期の音楽はこの目的に合致し、ミシュレの言うとおり国民精神作興のシンボルとしてふさわしいものであった。
ドイツ人の学者たちはまもなくこのベートホーフェンの音楽を頂点とした音楽史観を作り上げ、音楽とは崇高なものでなければならず、それはとりもなおさずドイツ人の器楽のことであり、その器楽の規範はベートホーフェンとソナタ形式にある、としたものである。これはきわめて独善的で勝手なご都合史観で、事実とはほど遠いが、一八七〇年にプロイセンがフランスを打ち破り、ヨーロッパに覇を唱え始めると、この史観は独り歩きを始め、何も知らない日本人やアメリカ人を巻きこんで、居座った。ドイツ人たちはバッハの平均律曲集を旧約聖書に、ベートホーフェンのソナタを新約聖書になぞらえた。すなわち聖典なのである。
無数のベートホーフェン賛美者が生み出され、シンドラーを筆頭とする伝記作者たちは正確な伝記の代りに、賛美歌を書き綴ったのである。ほとんど最後の賛美者となったのは二十世紀のフランス人ロマン・ロランで、彼は厖大な著作をベートホーフェンの生涯や作品に捧げたが、彼の賛美するところはフランス人に欠けていたものであるといえる。すなわち、美は官能的なものではなく精神的なもの―崇高なもの―という概念、艱難辛苦に耐えて高きを目指す志、などである。それは彼の大作〈ジャン・クリストフ〉の中に結実する。
ベートホーフェン聖化の嵐が衰えてくるのは第一次大戦後のことであろう。
アメリカを除けば、ヨーロッパのどの国も荒廃し、ダダイズムの栄える一方で、電灯、自動車、飛行機、電話、ラジオ、レコード、地下鉄など新しい機械文明のもたらす新しい生活スタイルが普及すると、十九世紀の教養主義がゆっくりと衰退していく。第二次大戦も終ると〝崇高な〟クラシック音楽への嗜好も後退し、気がついてみればドイツ人の学者が目の仇にする低劣なはずの〝イタリア・オペラ〟もずいぶん面白いし、今まで名前も知らなかったヴィヴァルディの音楽なども〈四季〉が登場して世界のベストセラーになった(残念ながらバッハのベストセラーというのはない)。十九世紀には〝子供の音楽〟と見なされていたモーツァルトが、一九六〇年代に入ると、するすると出てきて、レコード売り上げトップの座をベートホーフェンから奪ってしまう。
こうしてカント哲学の〝美は崇高にあり〟という理念の体現者のようだったベートホーフェンの〝高きを目指す〟音楽の座はゆらぎ、戦前には至高のベートホーフェン演奏とされたシュナーベルの全曲録音も、いまの人たちが聴けば、「なに、この人、テンポがでたらめじゃない。音もまちがってるわよ」となる。そうした批評にはもはや古き佳き日の精神主義、教養主義のカケラも見えてこない。偶像は墜ちたのである。
*
本書で取り上げたような等身大のベートホーフェン像は一昔前なら聖天使たちから袋叩きに遭うようなものであった。筆者は今からちょうど六十年前の一九五三年「ベートーヴェンの後期」に関する卒論を提出した。戦後の四等国の学生だった私たちの前にはろくな資料もなく、外国書を探すには丸善か紀伊國屋で外国出版社のカタログを見せてもらうより手がなかったし、発注しても到着までには何カ月も待たねばならなかった。それが今では自宅のコンピュータひとつで海外のあらゆる文献が捜索できるし、注文したものは遅くても二週間もあれば手もとに届く。隔世の感である。私が当時使った参考書のセイヤー=クレビールの伝記は今は一段と綿密な校注を施されたフォーブズ版に変り、とかく問題だらけのドイツ語の書簡集もエミリー・アンダースンの正確な英語版(一九六一)が手に入るようになった。また精神科医のシュテルバ夫妻による『ベートホーフェンとその甥』(一九五四)はこの巨匠の愚行にメスを入れ、聖像時代の終りを告げるファンファーレとなった。一九七〇年、ベートホーフェン生誕二百年の年には、綿密な実証的方法に精神分析の手法を加えたメイナード・ソロモンによる伝記が出版され、〝不滅の恋人〟に関するそれまでの迷論を一掃したほか、多くの実証的な視点を提供した(当時は画期的に新しかったこの本も考えてみればもはや四十年も前のことになる)。多くの古い伝記作家たちはベートホーフェンの〝恋人〟をあれこれ見つけたのであったが、ソロモンはベートホーフェンにはこれという女は一人もいなかったことをはっきり言ってのけた。彼はまたベートホーフェンの肖像画の欺瞞性に着目した最初の伝記作者といえる。
以上のようなすぐれた書籍が刊行されたおかげで、〝等身大のベートホーフェン〟が見えてきたし、また書き易くなった。
ウィーンにはかなり威圧的な〝いわゆるベートーヴェン〟の銅像が立っているが、実際はあのような強烈な容姿の持ち主ではなく、背丈はずば抜けて小柄で、髪は黒く、顔も黒くてモール人(北アフリカの住民)とまちがえられるうえに、アバタだらけというからおよそ金髪長身のドイツ人とはかけ離れていた。すべてに不器用だったが、二十二歳でウィーンに上京してきたとき、最初に手帳に書き留めたのはダンスの教師のアドレスだった(メイナード・ソロモン)。都の紳士たるべく、ダンスでも習って淑女と踊る日を夢見たのであろうか。もちろん彼は一生の間にダンスを習いに通った記録はないし、貴顕たちのパーティに出て踊ったりしたことも一度もない。性格は愚直ともいえるほどに正直で直情径行、一種のパーソナリティ障害症候群といえるような性向があり、他人との折り合いは悪く、虚飾が苦手で(従って社交界になじめず)、まるでモリエールの〈人間嫌い〉そのものであった。カトリックの家に生まれたが、ウィーンでカトリックの教会に通った形跡はなく、大自然とそれの創造者としての神に深く帰依していた。体は病弱で、一生腸の病に苦しんだ。ほとんど健康な日を数えるのが難しいほどであった。そのためもあってか、機嫌のいい人ではなかった。召使たちを雇ってはすぐにクビにしてしまうので、周旋する人間は大変だった。弟が二人いたが、彼が兄貴風を吹かすのでケンカが絶えなかった。三十歳頃から耳が遠くなり、晩年はほとんど会話も不能で、筆談にたよっていた。金運には比較的恵まれており、若いときからそれなりにスポンサーがついたので、衣食住に困ることはなく、そこそこの遺産も甥のために残した。
と書いてくれば、とても〝巨匠〟と呼ばれる人物には見えない。しかし彼には、ドラマティックな昂奮をもたらす音楽を書くという独特の才が備わっていた。それを生命線として活動し、あるとき時代の英雄に祀り上げられたが、おのれを知る者としてはその虚像に満足できず、それを超克することによって晩年に孤高で限りなく高貴ないわゆる〝後期〟の世界に到達することができた。そこに具現化された高みの世界は巨大な文芸作品のもたらす感銘にも似たものがある。それは愚直で真摯に、ひたすらに生きた人間の悲しみの芸術であり、人類がこれを超えるのは難しい。偶像は墜ちても、これらの作品は不朽のものとして、人類の到達点の指標として、歴史の上に残っていくことであろう。
二〇一三年七月 石井 宏
上記内容は本書刊行時のものです。