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人を伸ばす力 エドワード・デシ(著) - 新曜社
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人を伸ばす力 内発と自律のすすめ

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発行:新曜社
四六判
322ページ
上製
定価 2,400円+税
ISBN
978-4-7885-0679-4   COPY
ISBN 13
9784788506794   COPY
ISBN 10h
4-7885-0679-3   COPY
ISBN 10
4788506793   COPY
出版者記号
7885   COPY
Cコード
C1011  
1:教養 0:単行本 11:心理(学)
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
1999年6月
書店発売日
登録日
2013年2月1日
最終更新日
2013年2月1日
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紹介

アメとムチはもう利かない! 人の意欲と能力を伸ばす力は何か? アメとムチというのが従来の常識ですが、近年の心理学の研究はこの常識を否定し、課題に自発的にとりくむ「内発的動機づけ」と、自分が自分の行動の主人公となる「自律性」の重要性を実証しています。では内発的動機づけと自律性はどうしたら伸びるか、その成長をたすける方法は何か。説得的な事例に富み、研究成果への柔軟で深い洞察、現代社会の鋭敏な観察から書かれた本書は、自己の成長を願う人々はもとより、成長をたすける立場にある親や教師、カウンセラー、管理者にとって、人間観がひっくりかえされるような読書経験となるでしょう。
WHY WE DO WHAT WE DO,The dynamics of personal autonomy,1995.First Published by G.P.Putnum's Sons,New York

目次

◆目 次◆
第1章 権威と服従
第Ⅰ部 自律性と有能感がなぜ大切なのか
第2章 お金だけが目的さ
第3章 自律を求めて
第4章 内発的動機づけと外発的動機づけ
第5章 有能感をもって世界とかかわる

第Ⅱ部 人との絆がもつ役割
第6章 発達の内なる力
第7章 社会の一員になるとき
第8章 社会のなかの自己
第9章 病める社会のなかで

第Ⅲ部 どうしたらうまくいくか
第10章 いかに自律を促進するか
第11章 健康な行動を促進する
第12章 統制されても自律的に生きる

第Ⅳ部 この本で言いたかったこと
第13章 自由の意味
訳者あとがき
引用文献
索引

前書きなど

第1章 権威と不服従(より一部抜粋)
 生活にはストレスとプレッシャーがつきものだ。多くの人びとがなんとかそれから逃れようとして、無責任な行動に走っている。彼らは疎外され不満を抱いている。こうした兆候は無数に見られる。家庭で、街で、至るところに暴力がはびこっている。学校では逸脱行動が手に負えない。インサイダー取引や価格操作は、いまやあたりまえだ。肥満や拒食も流行に近い。払いきれない負債を背負い込む人もいる。
 無責任な行動には高い代償がともなうが、それは当人ばかりでなく身近な人々にもふりかかる。親が無責任なら子どもに高いつけがまわる。経営者や医者や教師の無責任は従業員、患者、生徒に高い代償となる。生活のストレスやプレッシャーをうまく処理できないと、ほかの人たちの生活にストレスやプレッシャーをかけることになる。
 現代に生きるほとんどの人にこうした状況があてはまる。まるで世界の統制のタガがはずれたかのように感じて、みんなうんざりしている。この状況を押さえ込み、しつけて、周囲の無作法な人間をもっとまともに行動するようにしたいと願っている。こうした願いはもっと責任ある行動をせよ、問題は道徳にある、いまや統制を強化するときだ、と叫ぶ著述家や政治家の声とこだまする。
統制するというのは安易な答えである。報酬を約束したり罰するぞと脅せば、違反者を従わせることができると考える。いかにも力強く響くし、何かが道から外れてしまったと思っているがそのことを考える時間もエネルギーもなく、何かをするしかないと考える人たちを安心させる。
 統制を求める声にもかかわらず、それでは問題が解決しないことがしだいに明らかになってきた。もっと厳しくしつけるという試みは、ほとんど効果がなかった。責任感をもたせようと報酬や罰もさかんに使われたが、望ましい結果をもたらすことはできなかった。実際、いわゆる権威に頼る解決策では問題を悪化させることはあっても改善することはない。そのこと示す証拠は山ほどある。
 非難したり統制したりするのではなく、人はなぜ無責任にふるまうのかをまず考えてみるのが問題を解決する道への第一歩である。なぜ暴力をふるうのか、なぜ不健康なことをするのか、なぜ見境もなく、借金を重ねるのか、なぜ金稼ぎに夢中になって、子どもをほったらかしにするのか。この本で用いるアプローチでは、そういう人がどんな見通しをもっているのかを考えに入れて、彼らの無責任な行動の背景にある動機に焦点を合わせ、そうした動機づけに影響を与える社会的な要因を解き明かす。そうして、人がもっと責任をもって行動するようになるための要因を見出してゆくのである。
 人が何かに動機づけられるとはどういうことなのかを、この本では考えてゆこう。そのとき、行動が自律的(autonomous)か、それとも他者によって統制されているかという区別が大変重要である。自律ということばは、もともと自治を意味している。自律的であることは、自己と一致した行動をすることを意味する。言いかえれば、自由に自発的に行動することである。自律的であるとき、その人はほんとうにしたいことをしている。興味をもって没頭していると感じている。確かな自分から発した行動なので、それは偽りのない自分(authentic)である。統制されているときはそれとは対照的に、圧力をかけられて行動していることを意味する。統制されているとき、その行動を受け入れているとは感じられない。そういう行動は自己の表現ではない。なぜなら、統制に自己が従属しているからである。まさに疎外された状態だと言ってよい。
 統制されたり疎外されたりすることなく、自律した偽りのない自分であることが、生活のあらゆる場面で大切だ。そのことは、社会的な出来事にからんで劇的に示されることもあれば、個人的なちょっとしたことに示されることもある。
 価格操作は間違っていると考えて、そうしたい誘惑に屈せず抵抗している人は自律的に行動している人だし、偽りのない自分を生きている人である。しかし、その誘惑に屈して、その結果多くの人たちに大きな損害を与え、国の経済にも悪影響を与える人は、外部の価値観に統制されているし、偽りのない自分を生きているとはいえない。教育委員会の仕事は重要であるとの信念から、自らの意思で勤めている女性は自律的であり、偽りのない自分を生きている人である。しかしそうしたいからでなく周囲の人によく見られたいために勤めているのなら、彼女もまた統制されている人であり、自己を見失っている人である。
行動が自律的でないということは他者に統制されているということだ。統制された行動には二つのタイプがある。一つは服従で、権威者の考えが実現されるように従う行動である。何年か前のこと、テレビが大統領の演説に続けてそれに反対する上院議員や下院議員の意見を放送するようになったときのことを覚えている。私の友人の一人が言った。「こんなやり方は良くないよ」。
「どうして?」私は尋ねた。「反対意見は聞く価値があると思うけど」。
「だって彼は大統領だぜ」友人は抗議した。
大統領へのこんな尊敬の念は今ではめずらしいが、この友人のコメントには服従的な態度が現れている。かのチャールズ・ライクは「名前をもたない権威」について述べている。この「名前をもたない権威」こそが、私の友人のイデオロギーに深く刻み込まれていた権威であり、彼の考えと行動を服従的にさせたのである。
 統制に対するもう一つの反応は反抗である。これは期待されていることとは反対のことを、まさにその期待のゆえにするということである。服従と反抗とは統制に対する補償的な反応で、互いに不安定な協力関係にある。すなわち、どちらかが優勢であるように見えても、一方が存在するときには、もう一方への傾向も潜在している。たいへん服従的で、要求されることなら何でもしてしまう人もいれば、権威の言うことには何でも反抗する人もいる。だが、こういった一方の反応が優位な人たちにも、他方の反応傾向があって、ひそやかに現れることがある。たとえば、上役の要求なら何でも表向き隷属している部下が、報復にこっそり妨害行動をすることもある。
 反抗というのは、統制されることに対する人々の抵抗の現れであり、服従の表現である同調と居心地悪げに共存している。この時代の権威者たちは統制に頼ってきたが、望んだ同調ばかりでなく手強い反抗も受けてきた。しかしさらに悪いことに、ほとんど気づかれていないけれども、服従するということ自体が法外に高くつく。その値札、つまり疎外とそのすべての結果を、これから詳しく見ていこう。

 ・・・・・・

 人はだれもが、地位や権力、統制などの点で異なるさまざまな関係の中におかれている。いわゆる上下の関係である。このような関係には、親子関係、管理職と部下、教師と生徒、医者と患者などがある。こういった関係では、親、管理職、先生、医者が社会化の担い手とされる。彼らはもう一方の人たち(子ども、部下、生徒、患者)の動機づけと責任感を促進するという仕事を受け持っている。ある意味で、こういった役割は人々を社会の中に組み込み、社会の価値や慣習を人に伝えるのである。このような関係が自律と統制――そして偽りのない自分であることと疎外――という概念にとって中心的な役割を果たしている。この本では、そのことを述べていきたい。
ほとんどのおとなは、親として、地域のまとめ役として、コーチ、仕事のリーダー、健康管理をする人として、助言したり要求を出したりする立場にある。しかし、時にはそれらを受ける側にもなる。いくら億万長者の社長だといっても、親からの忠告や医者や配偶者の指示には従わなければならない。人は多様な役割のもとに、他者が権威をもつさまざまな関係の中で加わる力のただ中に生きている。決して、自からのほんとうの声を聞き、進むべき方向を探る努力をやめることはない。
 いくら親密な関係でも、いくら対等な関係に見えようとも、自律と統制の問題を避けることはできない。しかしこのような関係では、自分が自律的になろうと努力するだけでなく、パートナーの自律性も支援するという複雑さがある。自由と感じることとパートナーの自由を支援することは、デリケートなバランスの問題だ。また自律性の問題が、いかに人間もすべての関係に埋め込まれているかを示すダイナミックな問題でもある。
 より自律的で偽りのない自分であるためには、上下関係における位置を把握しておかなければならない。ある意味で、そうした関係を越えなければならないとも言える。こうした関係を検討するのは特に得るところが大きい。なぜなら、権力をもつ側の人たち、すなわち、権力を及ぼされる人たちの社会的なあり方を決める人たちが、いかに動機づけに影響を及ぼしえるかを明らかにするからである。それはまた、下の立場の人たちが生きる力を維持し高めるための方略や必要も明らかにする。「奴隷」だと思っているサラリーマンはいくらもいるが、きちんと自分が自分の主人でありえている積極的なサラリーマンなどまずいない。そして、管理者のすべてが彼らを援助するわけではない。船の「乗組員」の一人だと思っている子どもはいくらでもいるが、自分の船の船長だと思っている子どもはめったにいない。すべての親や教師が彼らを助けるわけではない。こうしたことは、下の立場の人々の動機づけを高めること、さらに広くは社会的に人々の自律性と責任を促進することに関連している。
 ほとんどの人は、もっとも効果的な動機づけは本人の外から与えられるもの、熟達した人が与えてくれるものと考えている。それを示すエピソードならいくらもある。天性の説得力をもつコーチが、おだてたり強制したり、はずかしめたり熱心に説いたりして、意気地のない選手をチャンピオンにする話。あるいは熱心な教師が、報酬と罰を巧みに用いて教室を統制し、小さな獣を従順な学習者に変えてしまう話、などなど。
 ライアンと私が行った研究ではすべてが、それとは反対であった。外から動機づけられるよりも、自分で自分を動機づけるほうが、創造性、責任感、健康な行動、変化の持続性といった点で優れていたのである。外的な巧みな手段や外的なプレッシャー(そして、それらが内在化されたもの)によって服従させることもできるが、じつは服従には強い反抗への衝動を含む多様な否定的結果が伴うのである。服従も反抗も自律性と偽りのない自分にもとづくものではないから、一見逆説的な、非常に重要な問題にたえず直面することになる。もし最も責任ある行動に導くもっともパワーのある動機づけが本人の中から生まれなければならないとしたら、つまり、下位にある人たちの自己の内に動機づけがなければならないとしたら、医者や教師のように上位にいる人たちは、患者や学生などの下位にいる人たちをどう動機づけたらよいのだろうか。
 このように問いを立てたのでは、この重要な質問に答えることはできない。正しい問いは「他者をどのように動機づけるか」ではない。「どのようにすれば他者が自らを動機づける条件を生み出せるか」と問わなければならない。このように問い直して研究すると、権威をもつ人たちの支持や行為が決定的に重要であることが繰り返し示された。彼らが監督したり教えたり世話をしたりする人たちが自らをうまく動機づけられるかどうか、さらに、自律性と偽りのない自分を発展させるかどうかを決定する上で、大きな影響を与えているのである。この本では、このような社会的な力がどのように動機づけと発達に影響するのか、そのみちすじを述べたい。
 人は生涯、自己選択の問題に直面し続ける。すなわち自分の行為を自己決定するかそれとも、他者あるいは自分の内なる強力な力によって統制されるのかという問題に取り組んでゆく。自己決定し偽りのない自分であるということによって、選択するということが鍵であり、何かをしたときに実際に選択したのかどうかが、民事・刑事の裁判においても重要な問題である。医学的な治療に対して患者が告知にもとづく同意を与えたかどうかが、数百万ドルの支払いを決めることになる。死刑かそれとも精神病院への収監かの決定は、ピストルの引き金を自分の意思で引いたのか、それとも「一時的な精神錯乱」による強い衝動によって引かされたのか、という問いに対する陪審員の判断にかかっている。
 社会的な問題は、現実的・心理的な諸条件と関連しており、それらの条件のもとで、人は自らの行為の責任を問われるべきである。そこでもちろん、法律家の中には、この問題を取り上げてバランスを変えようとした人もいる。なかでももっとも極端な現代の動きとして、刑事裁判システムが「不完全自己防衛」という概念に翻弄されたケースがある。たとえば、ロリーナ・ボビットやメネンデス兄弟の裁判で、彼らは凶悪な行為を犯したことは否定しないが、そうした凶悪行為は自らの意志で起こされたものではなく、環境がどうしようもなく悲惨だったため他に選択の余地がなかったのだと主張した。彼らは直接的に攻撃にさらされたわけではないが、自己防衛としての攻撃を行ったというのである。彼らはおぞましい暴力に及んだが、それはそうしなければならなかったと信じていたからだと主張された。
 自律し偽りのない自分であるいう問題は、文化や人と人との関係のレベルで考えても複雑で魅力的な問題であるが、ひとり個人の中の問題として考えたとき、もっと豊かで刺激的な問題となる。だれの心の中にも主人と奴隷の関係がある程度存在している。人は自らをかなり自律的に偽りのない自分にもとづいて調整できるが、一方では自分にプレッシャーをかけたり批判したりして、かなり統制的あるいは独裁的なしかたでも調整している。二つのやり方の関係は、主人・奴隷の二分法をどう解決するかのあり方にかかっている。
 嗜癖の奴隷になっている嗜癖患者や抑えがたい衝動の奴隷になっている強迫神経症の患者を考えれば、この点を理解しやすいだろう。しかし、この力動性は他の多くの行動にも関連している。この力動性は家庭、学校、その他の対人的な過程として始まり、多少とも健康的であったりそうでなかったりするしかたで取り入れられる。対人的な過程も個人の内部の家庭も含めて、このような過程を理解することによって、重要な質問に対する意味のある答えが得られる。禁煙を続けたり、学習へのたゆまぬ興味を育てたり、スポーツでよい成績をおさめるのを援助するのに役立つ理解であり、誘惑と強制に翻弄される現代文化の中で、ほんとうの自己の居場所を定め根付かせるための理解である。
 この本のねらいを手短かに述べておこう。それは、さまざまな動機づけ研究から自律性と責任感の関係について探り、疎外をもたらす世界において責任ある行動を促すという問題に活かすことである。この本には希望がある。なぜなら、自分たちのために、雇われている人たちのために、患者のために、学生のために、スポーツをする人のために、私たちは何ができるのか――私たちは社会のために何ができるのか――を提示しているからである。ここに提供する処方箋は万能薬ではないし、たやすく実行できるものでもない。しかし、その処方箋はすべての人にかかわるし、教師、管理職、親、医者、コーチなどの役割に利用できる。実際、この処方箋は方針を立案する立場のすべての人々にとって重要である。処方はまず、動機づけを理解すること、そしてそれがどれほど偽りのない自分にもとづくものであるかを知ることから始まる。そうした理解に立って、自分自身をもっと有効に制御すること、今までとは違うしかたで他者と関係をもつこと、そしてもっと意味のある社会的方針を立てることを目指している。
 ラッシュやブルーム、パリッツ、その他の人たちの本と同じように、本書もまた現在の社会状況の多くに批判的である。人々の自我を引っ掛ける狡猾な広告。優位な地位にある人々が他者を統制しおとしめるやり方。(すべて何かのための手段とみなす)いきすぎた道具的思考の重視。物質的な所有への過度の評価。コミュニティの崩壊。しかし本書では、社会批判は二次的であって、露わというわけではない。主なねらいは、社会の崩壊がその成員の生活に与える影響を描くことであり、それに対してどうすることができるかを考えることである。
 偽りのない自分であることと疎外における動機づけの基礎を探るのに、ライアンと私は科学的な方法を用いた。それは基本的に、先行する出来事がある行動を導くという、アリストテレスが行動の作用因と呼んだものを信じる人々によって開発されてきた方法である。心の自由というような概念はこれまで、ヒューマニストや哲学者たちによって、科学的な方法を用いることなく議論されてきた。だが、科学的な方法を適用していけないという理由などない。
 経験主義的なアプローチは、理論仮説の正しさを判定するのに大きな力を発揮するが、実際的な不利もある。このアプローチは入念だがきわめて時間がかかるからである。4半世紀にわたって、アメリカやその他の国々の心理学実験室で、そして家庭、職場、学校、クリニックで、実験的研究やフィールド研究の成果が蓄積されてきた。私は本書で人間の自由と責任について議論するにあたって、そうした研究を基礎として用いた。だらか、本書の社会批判や処方箋は、そうした研究に立って考察されている。体系的な観察にもとづく統計的推論から始めること――それがここで、人間の幅広い問題に光をあてるために用いた方法である。
 人間の自律性の研究、すなわち偽りのない自分であることと責任についての私たちの研究は、動機づけの過程に焦点を合わせてきた。自律性として記述できる行動を調べ、それを調整している動機づけ過程を研究することによって、私たちは自律的な行動の社会文脈的な先行要因とその行動の結果を詳しく調べることができた。それが本書の中核をなしている。それは、私たちはなぜ、そのように行動するのかを語っている。さらに、どうやって責任ある行動を促進するかという、具体的で実際的な問題を考える基礎ともなっている。たとえば効果的な労働、効果的で楽しい学習、長期におよぶ健康的な行動への変化などである。それは個人にとっても社会にとっても利益となるだろう。

上記内容は本書刊行時のものです。