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特攻・さくら弾機で逝った男たち
「破られた遺書」を追って
- 出版社在庫情報
- 在庫僅少
- 初版年月日
- 2014年3月
- 書店発売日
- 2014年3月24日
- 登録日
- 2013年10月25日
- 最終更新日
- 2020年1月27日
紹介
破壊力の大きい新式爆弾=さくら弾を搭載した四式重爆の特攻機──機体の軽量化のため、計器類を必要最小限にし、自衛の銃器類の装備も無く、前頭部と尾翼の一部にはベニヤ板を使うという“人間爆弾”──がさくら弾機だ。
本書は、さくら弾機に乗って散った兄の足跡を追って、家族、特攻隊員たち、出撃基地、
交流した人たちの過去と現在を辿ったフォトドキュメンタリィ。
目次
はじめに
1 清泉閣はめぐる
2 母の死
3 破られた遺書と不可解な模様
4 南方戦線への出動
5 重爆特攻作戦
6 特攻隊員の心理をさぐる
7 九州展開
8 朝倉高女生との交流
9 さくら弾機放火事件の謎
10 出撃
11 さくら弾機の不時着
12 鳥浜トメさん
13 慰霊の旅
14 波上宮の丘に立つ親子
15 母の遺した納経帳16 平和の礎いしじ
17 山頭火の句碑
18 願主が私で、代参者が母
19 天人菊
解説「沖縄特攻作戦とさくら弾機」………林えいだい
前書きなど
先の大戦で、兄が特攻死してから、今年で六十九年目になる。
二〇〇五(平成十七)年に、母が逝って九年目の今になっても、兄の最後に過ごした福岡県大刀洗での生き様や、兄が一旦書いた遺言状をなぜ破り捨てたのか、そして兄の死は沖縄戦における幻のさくら弾機攻撃だったと言われたが、その真相は何か、また母が晩年執拗に続けた巡礼行の深い意味などを、知りたいという思いが残り火となって、老いた私の心をかきたてていた。
二〇一一(平成二十三)年十二月のこと、九州在住の友人であるノンフィクション作家、林えいだいさんから電話があった。「元学徒動員の高等女学生が二人見つかりました」というのである。私は狂喜して即座に大刀洗に飛んだ。
短期間ではあったが、大刀洗で実際に兄たちと言葉を交わした元学徒動員の朝倉高女生たちと直にお会いし、交流の模様を知った。現在八十五歳前後と高齢の彼女たちは、それぞれの家庭の事情を越えて話し始めた。多くの方が「肉親の方にお話ししておいてよかった」と言われたのが印象的であった。
彼女たちは私の既著、写真集『ゆめの腕に』を見て、当時のことを少しずつ思い出した。空白の七十年が一度に現実のものとなり、兄たちの声や、息遣いや、臭いや、ささやかな心の動きなどを、彼女たちの話を通して、鋭く私の神経系、特に五官を介して感受することができた。まるで間近で兄に接したようだった。このようなことは、誠にありがたいことと言わざるを得ない。
医学研究者の立場からいうならば、五官、特に眼の網膜から脳に入った視覚情報(光)は、後頭葉の第一次視覚野に送られ、色や、形や立体視などが認識される。さらにその情報は、側頭葉などの第二次視覚野に送られ、ついには、脳の奥深くに内在する海馬や扁桃体(大脳辺縁系)に到り、短期的な視覚記憶として残る。さらに、大脳皮質の情報などと合わせると、連合脳で長期的記憶となる、と現在考えられている。
恐らく、彼女たちにとって、十六、七歳の時に体験したことは、測り知れない程強烈なイメージとして残ったに違いない。若い特攻隊員にとっても、同様であったであろう。
写真の本質は、その記録性にある。瞬時に失われるものを、永久に保存できる。一枚の写真が発する想像世界を刺激し、それぞれの記録の断片をつなぎ合わせて、一つのイメージを現出する。その際、誠実に且つ正しく記録すれば、そのイメージが補強され、見る人に一層のインパクトを与えられるに違いない。
そう考えて、各章に出来るだけ簡単なエッセイをつけた。実際に見る人が異なれば答えも違ってくる。全く無反応だったり、過剰に反応したりして、一枚の写真の情報は、かなり修飾されるのであろう。
特攻隊の資料や、過去の事象や、状況や、遺品などは、積極的には何も語ろうとはしない。しかし、生き残った特攻隊員の証言や、周りにいた人たちの話や、資料を基に事実を綴ることこそ、亡くなった方々に対する真の鎮魂行為となるであろう。
広島の原爆碑で「安らかにお眠り下さい。もう過ちを決して繰り返しませんから……」とあるが、誰が繰り返さないのか不確かである。それよりも「安らかに眠らないで下さい。再び過ちを繰り返すかもしれませんから」と言うべきであると、指摘した上田正昭先生(京都大学名誉教授、私の高校時代の歴史の教諭)の言葉を思い出す。
戦争当時、特攻は日本の正義のためのものであると信じて、誰も疑わなかった。たとえ、いたとしても、声が小さいか、少数派であった。上官(参謀長及び高級参謀などエリート官僚)が悠久の大義の名のもとに、若者に特攻死を強いたことは、間違いのない事実であった。
特に「帰り」が絶対あり得ない、さくら弾機の場合、人は「物質」であり、「弾」であった。その弾「さくら弾」が一旦爆発すると、人間はコナゴナに分解され、かつての遺体の形跡を呈しない。
そう考えると、兄が修養録の中で、無意識に書いたのであろう一連の不可解な模様の意味が見えてくる。「飛び散る物」とその「容器」の姿である。これは従来までの死体の概念では括れなくなっている。これこそ、現在の死体なき、あるいは死体が見えない戦争の時代へと突入していることを予感させる。
事実、この延長線上に、現在パキスタンで行われているコンピューター制御による米軍の最新型無人機による空爆がある。実際には、民間人の犠牲や誤爆による死傷者を生じ、現在国際法に触れるとしてその合法性に問題が生じている。
大本営にとって、特攻はあくまで残された最後の選択肢の一つであるはずであった。本来なら、爆弾だけ落として敵艦を攻撃し帰還して搭乗員は生き残る可能性が残されていた。ところが、特攻死を余儀なくされるという誠に理不尽極まりないことになった。米軍では、決して考えられないことであった。
ほとんどの上官は「一旦出撃したら帰還することはまかりならん」と言い、敵に最大の損害を与え、戦果だけを目的とした。彼らは、本来の戦争哲学を逸脱して、搭乗員の心情を考慮する心のゆとりを失い、自己制御がきかなくなり、いわゆる一種のヒステリー状態に陥っていたとしか言いようがなかった。更に恐ろしい事実は、戦局が悪化するにつれて、特攻は中止されるのではなく、飛行機が不完全のまま、むしろ強化されていったことである。今西太郎少将のような理知的な判断力を備えた師団長もいたが、大本営の大きなシステムの中では、組織的硬直化が進み、正しい方向へ修正されることが不可能となっていた。
それを象徴する事件は、さくら弾機放火事件の犯人として、朝鮮半島出身の学徒兵(山本伍長)を、本人否認のまま終戦直前、福岡油山で銃殺刑に処した事実である。大本営の将軍たちや、エリート官僚である参謀たちの硬直化した病根の深さと、無責任さに、私は痛憤やる方ない思いで、一昨年八月銃殺現場に立ちつくした。
私は本書で、先の大戦で行われた特攻の一断面を、出来る限り正しく後世の人々に伝えようとした。知覧や、大刀洗の平和記念館や、各地に残る特攻に関する遺跡や、建物や、傷痕を、短いエッセイと共に「写真言語」で表そうとした。
先の大戦で同盟国の一つであったドイツ人は、アウシュビッツの収容所の跡を国を挙げて積極的に保存し、公開している。そして、世界各国から訪れる人々に、ナチス・ドイツの犯した戦争犯罪の実態を、曝け出している。同国民の犯した罪を素直に認める姿勢は見事である。
昨今の日本国内の風潮は、政財界をはじめ一部の報道やマスコミも、目先の利益至上主義の経済理論だけを最優先にかかげ、ひた走っている。先の大戦で亡くなった二百三十万人の犠牲の上に残された宝物、憲法第九条(これがたとえ米国政府によって誘導されたものであっても)の碑は、遥か石垣島の新栄公園で、毅然と建っていた。
プロシャの軍人クラウゼヴィツは、かつて「戦争論」の中で述べている。「戦争は政治の生み出したものである。政治が頭脳で、戦争は手段にすぎない」と。そして「戦争はペンに代えるに剣をもってした政治である」と。しかし、現在核戦争の出現により、もはや「政治の手段」を超え、その資格を失っている。戦争のない世界は、万人の願いであるが、核による人類の集団自殺に到らない程度で、人間相互の殺戮は続いているのも厳粛な事実である。
今求められるのは、予測し難い危機が充満する世界で、正しい歴史観を持ち、高い識見と品性を備え、実行力のある政治のリーダーである。偽りのヒーローや、人気取りだけの政治家ではない。
昨年四月、沖縄の糸満市の摩文仁の丘にある、沖縄県平和記念公園で出会った女子高校生たちの姿に、ささやかな希望の光を見出した。次代を背負う若い世代に、兄たちが特攻で散った事実を出来るだけ正しく伝えることが、消えつつある私たち戦争を体験した世代の務めである。
私が二〇〇四(平成十六)年に出版した写真集『ゆめの腕に』を、脳梗塞で倒れ闘病中の母に見せた時、病床の母は「オーオー、これは……」と一瞬眼を輝かせて見入ってくれた。あの時の感動が忘れられない。
版元から一言
本書を私に書かせた主な原動力は三つあると考えている。
その一つは、一九四四(昭和十九)年七月兄が帰省した時に懐にしのばせていた遺言状を両親に出せず、破り捨てたことにある。
連合軍の反攻作戦が開始され、ガタルカナル、ニューギニアが奪われ、いよいよ比島のレイテ、ルソン島上陸で、日本本土上陸は時間の問題となった。その初段階として台湾か、それとも沖縄なのか、あるいは直接日本本土上陸となるか、大本営は連合軍の侵攻作戦が読めなかった。切迫した戦況の中で、全国民総戦力で連合軍に対決しようと、最後の抵抗を試みようとした。大本営の最高指導部のあせりは次第に大きくなり、直接本土防衛に当る部隊は、これからの戦局に対して、最後の決意を求められていた。捨て身で日本を守るためには何をなすべきか、何ができるのか。兄たち通信教育隊の上官は、身体を投げ打って敵と戦う心構えを若き青年隊員に求めたのである。
兄は一九四二(昭和十七)年入隊して以来、はじめて一九四四(昭和十九)年七月帰省が許され、宇和島のわが家に帰った。その結果、はじめての遺書を書き、両親に直面した時、どうしても母の悲しむ姿を見るに忍びないとついに破り捨てた。
両親は、この再生した遺書を前にして、どうにもならない無力感と、苛立ちと、絶望感を抱きながら、じっと耐えながら生きて来た。
私にとって、コナゴナに破られた紙片の一片一片を貼り合せる母の姿が目に焼きつき、少年時代から今日まで、たゆとう陽炎のように漂っていた。それが深層心理となり、私の意識下に深い地層を形成し続けた。大刀洗に立ってはじめて、その地層を露出させることになったように思う。
次に、私が最も感銘を受けたのは、元学徒動員の女学生たちとの六十六年振りの邂逅である。大刀洗基地から特攻出撃直前の兄たち特攻隊員を取巻く人間模様と、特攻の実態を知りえたことであった。
三つ目は、病床の母の姿であった。
本書を作成する過程で知り合った林えいだいさんとの出会いは印象的であった。林さんはさくら弾機の放火事件に注目され、すでに『重爆特攻さくら弾機』を出版されている。
林さんから、大刀洗飛行場や特攻隊に関する資料等の提供を受け、更に、元特攻隊員や元学徒動員の女学生たちや陸軍専用旅館の元経営者の方々、及び地元の郷土史家の方々との出会いが実現し、本書のために多くのアドバイスを受けた。
林さんの「解説」では、陸軍第六十二戦隊の重爆特攻に関係した多くの方たちの人間ドラマが躍動している。
母が逝って七年目に、沖縄に出撃した兄が短期間滞在した大刀洗に立ち、写真撮影を重ね、解説を寄せてくれたノンフィクション作家の林えいだいさんや、写真の師新間隆子さん(女流写真家。㈱世紀堂代表取締役社長)や、瀧口悦弘さんら写真の仲間をはじめ、次に記す多くの方々のご協力により、本書を仕上げることが出来た。心からお礼申し上げます。そして、本書をまず、故母の墓前に捧げたい。母はどう思うであろうか。微笑んで「私の描いた通りに仕上がったようですらい」と言うのだろうか。
最後に、本書の取材執筆にあたって、御協力下さった方々、そして出版の労をとって下さった彩流社の竹内淳夫社長に心より感謝を申し上げます。
又、重爆特攻で兄らと共に戦没した諸氏に対し、霊安かれと祈りながら本稿を終える。(本書「あとがき」より)
上記内容は本書刊行時のものです。