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寒流 飯島幸永写真集
津軽のおんな╱越後・雪下有情
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2012年11月
- 書店発売日
- 2012年11月1日
- 登録日
- 2012年8月7日
- 最終更新日
- 2019年2月27日
書評掲載情報
2012-12-09 | 日本経済新聞 |
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紹介
高度成長期の昭和40 年代の〝陰〟に息づく日本人の芯の強さと品格!
風土がいかに人間を鍛え、人間がいかに風土を乗りこなしていくか。この終わりなき死闘
と蘇りの生の歓喜、人とのつながりの光景をカメラの眼が切り撮った飯島作品の決定版。
目次
▼目次▲
序文 「寒流」にはじまる「繁栄昭和」への逆照射……岡井耀毅
Ⅰ 津軽のおんな
・雪娘
・巣立ちの春
・海峡、冬
・帰省、それぞれの家路
・夜汽車で…
・雪路
・働くおんな
・妓に生きる、女
・野辺の送り
・ぬくもりの、時間
・大地の貌
Ⅱ 越後・雪下有情
・雪・雪・雪の日々
・冬の糧
・歳月の素顔
・恵みの棚田
・全校生徒六人の、学び舎
・春を待つ
「風土を生きる人々」に思いをかさねて──「寒流」の完成にあたり 飯島幸永
前書きなど
「寒流」にはじまる「繁栄昭和」への逆照射 ……………………岡井耀毅
本書は、かつて注目をあびた秀作群の決定版ともいえるものだが、四十数年後の今、当時をふり返って飯島幸永はこう述懐している。
「ちょうど高度成長期にさしかかり、オリンピックや新幹線開通、万博などで沸き返っていたが、そのとき、今こそ、わが国の裏側の実社会の在り様を凝視しなければならないと思いつめていた。それでこそはじめて時代の動向をありありととらえることができるのではないか、と」
飯島幸永は、まず、新潟の豪雪地帯の中に入り、さらに津軽の風土と人間の抜きさしならないきびしい風雪の中にたくましく生きる女性像に肉迫していったのである。
厳冬の苛酷な自然にさらされる風土の中にくりひろげられる人間ドラマを透かして見えてくる世界。そこには、どのような苦難にも耐えてあくまでその父祖の土地に愛惜こめて生き抜いていく人間の姿のきびしくも雄々しい中に、ひそやかにたおやかな優情があふれていたのであった。
飯島幸永は感動した。どこの家でも彼を歓迎し、優しく接して宿泊までさせてくれた。彼は、夜中になっても、蒲団にくるまっても、寝入るまでシャッターを切りつづけたのである。
どのような写真家にしても、その写業の在り様を言い切ることは至難に近いが、時代の動向を複眼でとらえる飯島幸永の座標軸はかなりの振幅で展開されてきた。
東京写真短期大学(東京工芸大の前身)に在学中、はやくも女剣劇を撮ったが、主役よりむしろ脇役に着目し、さらに式根島のミサイル騒動に揺れる島昆の動向を追うなかで、内面に渦巻く充たされない疹きを抑えきれなくなり、高度成長下に疎外されて貧困にあえぐ恵まれない民衆サイドから社会を見透す逆照射を志すようになる。
そのなかで開発の波に奔弄される「棄海」の漁師たちを追い、抑留の危険をかえりみずに出漁する北海道根室の漁民たちのオホーツク海にも彼のカメラは突き進んだ。また、養護施設の孤児たちにも注がれていた彼のカメラは、そ一方では「文楽」にも熱いまなざしで迫っていたのである。
こうした「燃える熱写」の情念は、昭和三十九年春、「鬼の吉良」ともいわれた杉山吉良に弟子入りして、その九年間に及ぶアシスタント体験で、さらに決定的に昇華していったといえるだろう。杉山吉良の「徹底して人間を追え。被写体から学べ」という教えは、飯島幸永の「生き方」となり、まず昭和四十年ごろから、当時の日商会頭・永野重雄ら財界首脳の群像を『プレジテント』に連載し、経済大国めざして躍進する時代の貴重な財界人物像となり、『アサヒカメラ』(昭和四十年十月号)に発表した聾児たちの「音を求める子ら」で新人賞となり、個性派として注目をあびるに至る。
わが国で最もきびしい豪雪地帯の現場に立ち、その土地に生き抜く人間力と自然の猛威を描き上げるというドキュメントは昭和四十一年から三年間の新潟通いで一段落したが、飯島幸永はさら一歩進めて対象を北限の津軽の女性に徹底的に絞り込み、「風土の中の女」を描き出していく。大の映画好きの彼は、その映像化で必然的に映画的手法を駆使して、杉山吉良から学んだ独特の現像液を使ってきわめて軟らかな質感描写のゆきとどいた映像美の世界を現出させていったのである。
飯島幸永の凝視する人間愛の世界は、画家の上村松篁をも感嘆させ、十二年間にも及んだ撮影に、「これが私の生活のすべてであり、この写真のほかに人生はありません」とまで言わせている。
こうした「伝統美の賛美」にまで至る原点にある「寒流」の世界──
飯島幸永の精神のたたかいを不動のドキュメントの眼が見据えているが、その出発点に「寒流」がさかまいているのだ。
(ジャーナリスト・おかいてるお)
「風土を生きる人々」に、思いをかさねて──「寒流」の完成にあたり 飯島幸永
昭和四十年代から五十年代にかけて、私は雪深い山間の集落に暮らす人々と、津軽半島に生きる「おんな」をテーマに撮影していた。年齢でいえば二十代前半から三十代半ばの約十年間で、当時写真家・杉山吉良の薫陶を受け、間もなく独立をした頃でもあった。
時代は高度成長期で、日本は国民総生産で世界第二位となり、昭和四十八年のオイルショックまで十七年続く消費ブームに沸く大衆文化を現出し、昭和元禄と言われる世相であった。しかし都会人は生活の豊かさに酔っていたが、反面、越後の山奥では、繁栄とは無縁に暮らす人々の集落が点在していた。彼らは、厳しい環境にもかかわらず、質素で慎ましく大地に生きる気高い農民たちであった。私は、風土と人間をテーマに、その雪に閉ざされた豪雪地帯に入り、凄まじい雪と闘う人たちを追っていた。一方、津軽半島にもカメラを向け、男女の姿や女を通して見えてくる雪国の情緒をフィルムに収めていた。冬の津軽は、風土そのものが強風と雪の文化であり、隅々まで雪との共生によって暮らしが成り立っていた。私は、日本の原風景というべき、風土の貌をなんとしてでも作品にまとめたかった。
この豪雪地帯の入広瀬村芹谷内集落は想像を絶する世界であった。冬の間は完全に陸の孤島で、人の行き来は皆無に近かった。この頃あちこちに十軒ほどの家が集落となって存在していた。ここで私の見たものは、雪によって躁購される苛酷な暮らしと、農民魂ともいうべき強靭な彼らの精神力であった。
それと、もう一つの雪国である吹雪の津軽平野を私は彷徨っていた。ここでは少女から女へ、そして主婦から老婆までと各世代にわたる女を対象に追っていた。人々はみな親切で、一人としてカメラを嫌がる人はいなかった。私が感激したのは、いたるところで受けた見せ掛けでない、地のままの〝もてなし〟であった。それは太宰治の『津軽』に登場する、正直な津軽人の生き生きとした人間模様であった。津軽の女に魅せられた私は、寝る間も惜しんで撮影行脚に没頭していた。そして、おとことおんなが、ふと見せる素朴な情景や人々の心の機微などを丹念に拾っていった。
この二つの雪国から私が受けたものは、どんなに風土が厳しくとも決して失うことのない温かい思いやりと、優しい人間愛であった。厳しい自然に立ち向かう人々は、喜びも悲しみも全ての喜怒哀楽を家族とともに共有し、ともに生きてきた。そこには家族との見えない絆を幾世代にもわたって紡いできた日本人の風土の歴史と郷土愛があった。
しかし今日の私たちは、希薄になった人間関係の中で、例えて言うなら、滔々と流れてきた一筋の大河が大きく蛇行しはじめ、何処に行くか分らない不安な流れに身を任せている時代と言ってもいい。このような時に、かつての時代からの川筋を見つめ、私たちの立つ位置が何処にあるのかを考えることに、自分なりの意義を見つけている。この写真集をご覧になって当時を懐かしんでいただけるだけでもいいし、〝日本人とは何か〟を考える端緒にでもなればありがたい。
あの頃が〝風土色の色濃くあった最後の時代かもしれない〟と思うと、登場する人々に特別な感慨が湧いてくる。私が過去の時代を俯瞰するには、ある程度の特間の経緯が必要であった。その意味でようやく出版できる時が来た感がある。モノクロの映像美が、片隅に生きる人々の息遣いを伝え、一枚でも心打つ作品があれば望外の喜びである。いま私は、この写真集に収めさせていただいた人々や、出会った一人一人の方々に心から感謝を申し上げたい。(以下、略)
版元から一言
藤原正彦氏 推薦!
本書を推す。
昭和40年、東北の寒村に、吹きすさぶ吹雪と貧困に身を屈めて耐え、
雄々しく生きていた人々がいた。彼らが今ここに甦る。
老女に深く刻まれた皺に、雪をかぶりながら働く農民の笑顔に、暗く長い冬の中で
ひたすら春を待つ少女のまなざしに、強靱さと気高さがある。
「日本人とは何か」に応える写真集である。
(数学者・作家 藤原正彦)
「風土を生きる人々」に、思いをかさねて──「寒流」の完成にあたり 飯島幸永
昭和四十年代から五十年代にかけて、私は雪深い山間の集落に暮らす人々と、津軽半島に生きる「おんな」をテーマに撮影していた。年齢でいえば二十代前半から三十代半ばの約十年間で、当時写真家・杉山吉良の薫陶を受け、間もなく独立をした頃でもあった。
時代は高度成長期で、日本は国民総生産で世界第二位となり、昭和四十八年のオイルショックまで十七年続く消費ブームに沸く大衆文化を現出し、昭和元禄と言われる世相であった。しかし都会人は生活の豊かさに酔っていたが、反面、越後の山奥では、繁栄とは無縁に暮らす人々の集落が点在していた。彼らは、厳しい環境にもかかわらず、質素で慎ましく大地に生きる気高い農民たちであった。私は、風土と人間をテーマに、その雪に閉ざされた豪雪地帯に入り、凄まじい雪と闘う人たちを追っていた。一方、津軽半島にもカメラを向け、男女の姿や女を通して見えてくる雪国の情緒をフィルムに収めていた。冬の津軽は、風土そのものが強風と雪の文化であり、隅々まで雪との共生によって暮らしが成り立っていた。私は、日本の原風景というべき、風土の貌をなんとしてでも作品にまとめたかった。
この豪雪地帯の入広瀬村芹谷内集落は想像を絶する世界であった。冬の間は完全に陸の孤島で、人の行き来は皆無に近かった。この頃あちこちに十軒ほどの家が集落となって存在していた。ここで私の見たものは、雪によって躁購される苛酷な暮らしと、農民魂ともいうべき強靭な彼らの精神力であった。
それと、もう一つの雪国である吹雪の津軽平野を私は彷徨っていた。ここでは少女から女へ、そして主婦から老婆までと各世代にわたる女を対象に追っていた。人々はみな親切で、一人としてカメラを嫌がる人はいなかった。私が感激したのは、いたるところで受けた見せ掛けでない、地のままの〝もてなし〟であった。それは太宰治の『津軽』に登場する、正直な津軽人の生き生きとした人間模様であった。津軽の女に魅せられた私は、寝る間も惜しんで撮影行脚に没頭していた。そして、おとことおんなが、ふと見せる素朴な情景や人々の心の機微などを丹念に拾っていった。
この二つの雪国から私が受けたものは、どんなに風土が厳しくとも決して失うことのない温かい思いやりと、優しい人間愛であった。厳しい自然に立ち向かう人々は、喜びも悲しみも全ての喜怒哀楽を家族とともに共有し、ともに生きてきた。そこには家族との見えない絆を幾世代にもわたって紡いできた日本人の風土の歴史と郷土愛があった。
しかし今日の私たちは、希薄になった人間関係の中で、例えて言うなら、滔々と流れてきた一筋の大河が大きく蛇行しはじめ、何処に行くか分らない不安な流れに身を任せている時代と言ってもいい。このような時に、かつての時代からの川筋を見つめ、私たちの立つ位置が何処にあるのかを考えることに、自分なりの意義を見つけている。この写真集をご覧になって当時を懐かしんでいただけるだけでもいいし、〝日本人とは何か〟を考える端緒にでもなればありがたい。
あの頃が〝風土色の色濃くあった最後の時代かもしれない〟と思うと、登場する人々に特別な感慨が湧いてくる。私が過去の時代を俯瞰するには、ある程度の特間の経緯が必要であった。その意味でようやく出版できる時が来た感がある。モノクロの映像美が、片隅に生きる人々の息遣いを伝え、一枚でも心打つ作品があれば望外の喜びである。いま私は、この写真集に収めさせていただいた人々や、出会った一人一人の方々に心から感謝を申し上げたい。(以下、略)
(社)日本図書館協会 選定図書
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上記内容は本書刊行時のものです。