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天照大神は夫余神なり
神の妻となった女性たちの古代史
- 出版社在庫情報
- 品切れ・重版未定
- 初版年月日
- 2012年2月
- 書店発売日
- 2012年2月6日
- 登録日
- 2011年12月22日
- 最終更新日
- 2024年9月2日
紹介
神に仕えた女性たち―大物主の妻・倭迹迹日百襲姫、豊鍬入姫、倭姫、
宮簀姫、神功皇后―、とくに天照大神の御杖となって各地を巡幸した
豊鍬入姫と倭姫の足跡を追跡し、古代伝承に遺るさまざまな物語の
深層を探り続けた成果から導き出された“歴史ロマン紀行”の労作。
著者が今から30年前「天照大神の原像は、日影に覆われて
朱蒙の卵を生んだ河伯の女、柳花ではないだろうか」との疑問に
対する答えでもある。
目次
目 次
はじめに
第一編 大物主神の妻-倭迹迹日百襲姫
一、箸墓は卑弥呼の墓か
二、大物主神の妻
三、大物主神と解慕漱は同一神
第二編 天照大神の御杖-豊鍬入姫・倭姫
一、天照大神の伊勢遷祭
二、豊鍬入姫の御巡幸
倭の笠縫邑
丹波の吉佐宮
磯城の厳橿本
木国の奈久佐浜宮
吉備国の名方浜宮
三、倭姫の御巡幸
倭の弥和の御室嶺上宮
大和国の宇多秋宮
大和国の宇多佐佐波多宮
伊賀国の隠の市守宮
伊賀国の穴穂宮
伊賀国の敢都美恵宮
淡海国の甲可日雲宮
淡海国の坂田宮
美濃国の伊久良河宮
尾張国の中嶋宮
伊勢国の桑名野代宮
鈴鹿国の奈具波志忍山宮
伊勢国の阿佐加乃藤方片樋宮
伊勢国の飯野高宮
伊勢国の佐佐牟江宮
伊勢国の伊蘓宮
伊勢国の滝原宮
二見の御塩浜
伊勢国の矢田宮・家田田上宮
伊勢国の奈尾之根宮
伊勢国の五十鈴の川上宮
四、夫余神と朱蒙
五、天照大神の原像は夫余神か
六、豊鍬入姫・倭姫の巡幸と柳花の漂泊
七、伊勢神宮と東夫余の大后廟
神の朝廷
心の御柱と大神の御杖
真経津鏡と布都御魂
フツノミタマと安曇磯良
八、豊受大神と兵主神
豊受大神
穴師坐兵主神社
第三編 熱田社の創祀-宮簀姫
一、宮簀姫と日本武尊
二、都牟刈の大刀
三、石上松下の宝剣出現
四、朱蒙の正体は兵主神
五、ヤマトタケルと兵主神
第四編 海の聖母-神功皇后
一、天之日矛と阿加流比売
二、住吉大神
三、神功の鎮懐石と朱蒙の卵
四、八幡神と朱蒙
五、気比大神
あとがき
前書きなど
はじめに
初国知らしし第十代崇神天皇の御代、疫病が流行し、人民の大半が死に尽きようとした。この時にあたって、それまで天皇と「同床共殿」にて奉斎されていた天照大神を、豊鍬入姫に託けて倭の笠縫邑に祀らせた。これ以降、天照大神の教えに随って各地を巡り、大神鎮座の大宮処を求める国覓ぎの旅が始まる。
つぎの垂仁天皇二十五年三月には、天照大神を豊鍬入姫より離して、垂仁天皇の皇女倭姫に託けている。これより倭姫は大和の三輪山から東方をさして巡幸し、やがて伊勢の五十鈴の川上に大神鎮座の地を定めることになる。
豊鍬入姫と倭姫の二人の皇女は、天照大神の御杖代として、大神鎮座の処を求めて各地を巡幸し、伊勢神宮創祀の道をひらかれた女性達です。彼女たちは、それぞれが天照大神を斎きまつりながら、彼女たち自身が天照大神として拝礼される対象であった。つまり彼女たちの巡幸は、そのまま天照大神の国覓ぎの旅に他ならなかった。
筆者は、この二人の皇女について調査し、伝承地を訪ねて歩くうちに、日本神話の天照大神の原像は夫余神に相違ないと確信した。
夫余とは、紀元前後頃、中国吉林省の農安・長春を中心に営まれた農耕国家で、後に興起した高句麗・百済はともに夫余に出自したと称していた。その高句麗のことですが、自国の祖神として始祖の朱蒙とその母神を併せ祭祀していた。『北史』高句麗伝によると、国王のいる王宮の左右に神廟を建て、一つを「夫余神」と呼んで河伯の女柳花を祀り、他の一つには「夫余神の子」と呼んで朱蒙を奉祀していた。
伝説では、柳花は夫余を流れる青河の河伯の女で、天帝の子と称する解慕漱と私通したために東夫余に流される。そこで東夫余王によって室中に閉じこめられ、窓から入った日光に照らされて懐妊し、左腋より五升ばかりの卵を生む。その卵から生れたのが朱蒙です。のちに柳花は東夫余の大后廟にまつられ、夫余・高句麗の人々の尊敬をうけることになる。この柳花の漂泊と東夫余の大后廟なるものが、豊鍬入姫と倭姫の二人の巡幸、および「伊勢の大御神の宮」が大和朝廷によって「神の朝廷」として崇敬される過程ときわめてよく似ているのです。
天照大神の別名である大日孁貴は、日ノ妻、または日に仕える巫女の意であった。『古語拾遺』には、天照大神が天忍穂耳尊を腋の下に養育していたとあって、この女神が腋より御子を生んだことを窺うことができる。これは柳花が日光に照らされ、やがて左腋より朱蒙の卵を生む「日の妻」であることとピッタリ一致している。
そもそも天照大神の原態は、天安河のほとりにて須佐之男命を招祷する巫女的乙女(水の乙女)というものでした。天照大神にしても夫余神柳花にしても、水の乙女という本質をもつものであった。しかるに天照大神の御杖代となった豊鍬入姫と倭姫の二人の皇女の伝承地を訪ねて気付くのは、それらが例外なく海辺、あるいは川のほとりにあることです。後世、伊勢に派遣された斎王が川にいたると、しきりに禊をしたことにも、水の乙女としての本質をうかがうことができる。
祭政分離の時代、大和の朝廷によって伊勢の大御神の宮(伊勢大廟)が「神の朝廷」として崇敬されることになる。この天照大神の伊勢遷祭と二人の皇女の巡幸伝承の謎は、柳花の漂泊と彼女をまつった東夫余の大后廟を考察することで、はじめて理解できるだろう。
さて本書は四編より構成され、古代伝承をいろどる五人の女性について取材している。
第一編は「大物主神の妻-倭迹迹日百襲姫」。倭迹迹日百襲姫は大和の古代国家成立期に登場し、大物主神の妻となった国家最高の巫女であった。しばしば託宣をくり返したこの女性の眠る箸墓は、魏志倭人伝に「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」と記される邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかとされている。また倭迹迹日百襲姫を妻とした倭成す大物主神こそ、大陸で信仰された天王郎解慕漱と同一神ではないだろうか。
第二編は「天照大神の御杖-豊鍬入姫、倭姫」。この二人の皇女は天照大神の御杖となって、大神鎮座の処を求めて各地を巡幸し、伊勢神宮創祀の道をひらかれた女性達です。彼女たちの巡幸伝承、言い換えれば天照大神の国覓ぎの旅は、高句麗始祖朱蒙の母柳花の漂泊伝説と共通するものがあるはずだ。何故なら、高句麗人によって夫余神として祀られた柳花こそ、日本神話の天照大神の原像に他ならないと考えるからです。
第三編は「熱田社の創祀-宮簀姫」。伊勢の大御神の宮を訪れたヤマトタケルは、姨の倭姫から皇祖神の霊威を賜り、熊襲・蝦夷を征討する。この後、尾張の宮簀姫のもとに草薙剣をのこして去っていくが、宮簀姫は、ありし日の契り通り、ひとり床を守ってミコトののこした神剣に奉仕した。この神剣を都牟刈の大刀ともいうが、これこそが古代史解明の手掛かりとなるものだ。
第四編は「海の聖母-神功皇后」。神功皇后は、夫の仲哀天皇の崩御の後、軍をひきいて新羅国を征討し、帰路、筑紫の海浜で応神天皇を産んだと伝説されている。この女性の皇子出誕こそは、彼女の祖である天之日矛と阿加流比売の伝説の終着点に他ならない。さらに彼女の皇子産みの伝説こそは、高句麗始祖の朱蒙出誕の神話に通ずるものであった。ここでは天照大神の荒御魂としての、神功皇后の姿を明らかにしています。
第一編から第四編を通じて天照大神の原像を追究し、それを縦糸にして、日本神話の天照大神(大日孁貴)とは、日影に覆われてついに妊娠し日の御子朱蒙を出誕した夫余神柳花を、日本神話上に投影したものであることを説明しています。またその高句麗始祖朱蒙の正体は、古代中国伝説の鋳物神蚩尤であることを明らかにしています。
版元から一言
あとがき
「天照大神は夫余神ではないだろうか」
「天照大神の原像は、日影に覆われて朱蒙の卵を生んだ河伯の女柳花ではないだろうか」
このように筆者が考えるに至ったのは、三十年も前のことである。
昭和五十九年の冬、筆者は、それまでの古代史研究の成果をまとめて、紀伊国屋書店大阪梅田店の総合印刷コーナーより、研究ノート『日本神話の源流――夫余・朝鮮・日本』を出版した。研究ノートでは、わが須佐之男命と高句麗始祖朱蒙の正体は兵主神(蚩尤)であると主張したのだが、その第二章「天照大神考」で、天照大神と朱蒙の母柳花の伝説を比較考察している。
それから二十年後の平成十七年の夏、天照大神の御杖となられて大神鎮座の処を求めた豊鍬入姫と倭姫の巡幸伝説地を訪ね、書き上げたのが『神につかえた女性たち――天照大神は夫余神なり』である。残念ながら、出版を引き受けてくれた碧天舎が倒産したために、この本はほとんど読者の評価を仰ぐ機会を得なかった。
それから六年間、豊鍬入姫・倭姫はじめ五人の女性の伝説地を訪ね歩き、史料を探し集めた。つねに日本民族の皇祖神である天照大神と、「神の朝廷」たる伊勢神宮の、よってきたるところを追究してきた。そしてようやく研究成果を発表することとなったのが本書である。
本書は必ず、読者の皆さんの歴史への情熱をかきたてるものと期待しています。そして必ず日本古代史の研究に一石を投じるものと確信しています。
上記内容は本書刊行時のものです。