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銅鐸民族の悲劇 臼田 篤伸(著) - 彩流社
.

銅鐸民族の悲劇 戦慄の古墳時代を読む

発行:彩流社
四六判
縦195mm 横135mm 厚さ22mm
重さ 360g
264ページ
上製
定価 2,000円+税
ISBN
978-4-7791-1591-2
Cコード
C0021
一般 単行本 日本歴史
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2010年12月
書店発売日
登録日
2010年11月18日
最終更新日
2014年12月19日
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紹介

巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの労働力とされた。

目次

プロローグ……………………………………………………………………………… 17
•「銅鐸民族」の概念なくして弥生時代の理解は不能 17
•弥生文化最大の特徴は、本邦初の金属器(青銅器)の開化 19
•「歴博」の縄文──弥生時代移行論の疑問 21
•古田武彦氏がわが国古代史の脊柱を解明 22
•奈良時代以前の日本の首都は太宰府だった──筑紫時代の証明 24
 『三国志』魏志倭人伝から導かれる博多湾岸近辺 24
 日本の表玄関が九州であったことは歴史的・地理的条件からも必然 25
 「倭国の乱」は北部九州内陸部の銅鐸民族国家征服戦争 26
 古代首都地名が林立する太宰府 28

第1章 古墳時代──この奇妙な時代発生の謎…………………………………… 31
•スィーイング・イズ・ビリービング 32
•古代国家草創期の巨大建造物の謎 33
•国家草創期を会社にたとえると 34
•銅鐸の消滅と時を合わせる巨大古墳の出現 35
 銅鐸の忽然たる消滅の謎 35
 銅鐸民族のルーツはどこか 36
 銅鐸民族が遺した特徴的持ち物 36
  銅鐸(青銅器)37  土笛(陶塤)38  巴型銅器 39  貨泉 40  銅戈 41  銅剣・銅矛 41
 銅剣が銅鐸を征服 41
 神武東征と巨大古墳 42
 銅鏡に化けた銅鐸 44
 さほど重視されない三角縁神獣鏡 45

第2章 エジプト古王国文明の謎──わが国の大古墳群の理解を深めるために… 47
一、古代史は先住民を征服する歴史 48
 古王国時代にも奴隷がいた証拠──エジプトの奴隷は石造物の台座下部に 48
 奴隷を巧みに隠した日本の古代史 49
 古代エジプトは世界史上で奴隷使役の原則を示す 49
二、ピラミッドを造った人々=奴隷労働の蓋然性が高い 50
 下から見上げて凄さがわかる 50
 ナイル西岸にある謎 51
 巨大な監獄=ナイル西岸 52
 古代エジプト史を貫く奴隷労働 53

第3章 ピラミッドと日本の巨大古墳の類似性…………………………………… 55
一、理性が古代を見失う 56
 古代の民族紛争に理性など通用しない 56
 わが国の古代にも巨大消耗システムがあった 57
二、両者はそれ自体が自己目的的 58
 埋葬は二次的現象 58
 「造ることが目的」――これが謎解きのキーワード 59
 大ピラミッド時代と古墳時代の奇妙な一致 60
三、わが国の前方後円墳の特徴 60
 茂木理論が謎解きの糸口 60
 副葬品主体の古墳学の誤りを指摘 61
 寿陵の可能性が高い 61
 埋葬施設のない古墳が数多くある 62

第4章 わが国古墳時代の特質──支配と奴隷…………………………………… 63
一、反人間性が古代支配者の基本的スタンス 64
 土地と人民はすべて勝者のもの 64
 女性を増やす仕掛けがあった 64
 愚民化政策の徹底・文字を一切見せない、使わせない 66
 混血という名の集団的暴行が古代民族紛争の必須条件 67
 女性奴隷が中国皇帝に最上位の贈り物 68
二、敗者を酷使し消耗させるためのシステム 69
 嗜虐システムでもあった 69
 石切場跡がもの言わぬ証拠 71
三、最も苛酷な巨石労働・巨大墳墓築造 72
 巨大さに言葉を失う 72
 侏儒国の謎 73
 古田武彦氏が侏儒国の所在地の範囲を特定した 73
 合田洋一氏は具体的に場所と「人種」を推定した 73
 “姫島”がキーワード 74
 男性奴隷の消耗労働を示唆する島があった 76
 「集団的な低身長」を人為的に作るのは簡単な原理による 76
 『書紀』にリアルな記載 78
四、特定の場所にプールされていた奴隷 78
 奴隷の使い道を分けていた 78
 価値が高い女性奴隷 79
 『魏志』倭人伝に不可解な記述 81
 卑弥呼が生口の管理者だった 83
 中国の史書にも登場する日本海上の女だけの島 84
 宗像大社の三女神の意味 84
五、近畿のモデルが古代九州にあった 86
 九州に謎に満ちた遺跡群、その名は神籠石 86
 記録に残せない施設だった 86
 古墳群との前後関係の謎 87
 古墳時代の九州王朝と近畿天皇家は蜜月関係 88
六、「神籠石=山城」説の根拠は希薄 89
 二種類の山城の矛盾 89
 列石の前面に並ぶ柱穴群は山城の証明にならない 91
 遠方から運ぶシステムと不可解な石の刻み(L字型の刻み) 91
 消耗システムの原点 92
 女性収容施設の可能性を裏付ける──『書紀』に「八女」地名の起源説話 94
 九州に多い不可解な女性地名 96
 神籠石と九州弥生国家(銅鐸民族国家)群の時間、空間的密接性 97

第5章 古墳をめぐる諸説――主流派の説………………………………………… 99
一、わが国古代の謎が集約された建造物 100
 古墳とは? 100
 古墳時代とは? 100
 専門家による諸説紛々 101
二、古墳の権威・白石太一郎氏の説 101
 「労働力動員のメカニズム不明」で始まる古墳学=『古墳の語る古代史』(岩波書店) 101
 客観性に乏しい特異な研究戦略 102
 東征否定の根拠を明示していない 103
 巨大古墳の移動と盟主権の移動とを混同 103
三、説得力に欠ける前方後円墳国家説 104
 巨大古墳群の顕著な偏在性 104
 国家群を示す出土物が殆ど無い 105 

第6章 アマチュアの視点が求められる古代史説………………………………… 107
一、客観的事実に基づいて自由にものが言えること 108
 専門家の言うことを鵜呑みにしないことが大切 108
 アマチュアでも思い付きばかりの立論は駄目 108
二、邪馬台国近畿説は国家的イデオロギー 109
 大半の考古学者が信奉 109
 マスコミ記事も近畿説でほぼ一色 109
三、『古墳私疑』(井戸清一著)を参考として考察 109
 シベリア抑留を体験された 109
 古墳築造の組織が見出せない 110
 経験主義が真実を見失わせる 111
 政治的意図ゆえに墳丘が重要 112

第7章 古墳の真実への道標となる説……………………………………………… 115
一、『前方後円墳』──埋葬されない墓をもとめて(同朋舎出版) 116
 古墳の謎に最も近い本 116
 数の地域的アンバランスが政治性を示唆 117
 空墓の存在を示唆する証拠 118
    第一類型 118   第二類型 118   第三類型 119 
 凄惨を極めた征服劇の舞台だった 119
 消耗システムの稼動が不可欠 120
 膨張戦争の最中に巨大墳墓築造の蒙昧 121
二、古墳周囲の堀は隍だった 122
 消耗システムへの貴重な手掛かり 122
 茂木説は合理的で説得力あり 123
 濠によって陵墓を神聖化 124
 濠の水は水田灌漑用だった 124
 最も安上がりな水資源だった 125
三、謎に満ちた実際の古墳造りのプロセス 126
 墳丘の巨大さに較べ貧弱な埋葬施設 126
 原則的に奴隷の居住地が古墳築造地 127
 彼等の生活場所は形に残らない 128
 古墳群として顕著な偏在性 128
 隍内部は巨大な監獄 129
 消耗管理システムが古墳の謎解きのカギ──使用目的にこだわると謎は解けない 130

第8章 消耗システムの考古学的証明……………………………………………… 131
一、濠に騙され続けた古墳論 132
 結論にあわせた遺跡解釈が横行 132
 水を湛えた関西巨大古墳の威容 133
 現代建築論が古墳を狂わせた 133
 周濠か周隍か、それが問題だ 134
 隍の必然性が見えてきた 134
 土蜘蛛は銅鐸の民の成れの果ての姿 135
二、隍説を支持する近年の発掘事例 136
 今城塚古墳(大阪府高槻市) 137
   天皇陵の可能性大 137  大王陵に相応しい埴輪群出土 138 
   近畿王権による実質的な国家支配体制への動き 139  巨大古墳からみると貧弱な埋葬施設 140  隍を匂わせる不自然な木製品の施設 141  濠の中の施設が隍説を暗示 142 
 マバカ古墳の現地説明会 143
   周濠から多数の土器類出土 144  周濠が居住地だった可能性を示唆 145 
三、隍が確実な巨大古墳 145
 見瀬丸山古墳 145
   陵墓指定を免れた幸運 145  巨大さを実感できる古墳 146  隍だった必然性 147 
四、古墳時代の嗜虐消耗システムを象徴する遺跡群 148
•石宝殿 148
•益田岩船 154
•巨大古墳を覆う無数の葺き石の正体 157
 
第9章 消耗システムの現実的証明………………………………………………… 161
•江戸幕府の支配方式 162
 1 徹底した戦後処理 162
 2 支配の柱に消耗システム 163
 3 消耗システム国家は必然的に鎖国を呼ぶ 166

第10章 近畿王権の古墳時代は〝鎖国〟だった……………………………………… 167
一、大和王権に先立つ九州王朝実在の証明 168
二、近畿王権(飛鳥時代まで)の鎖国の証明 169
 「五王」の時代、近畿は「平和」だった 169
 『記・紀』は九州王朝の歴史を盗作したが、出所を明かさず 171
 五王の時代、近畿は周辺への膨張戦争と征服地への残酷支配の真最中 172

第11章 大国主神の正体……………………………………………………………… 175
一、悲劇の銅鐸民族 176
 征服された先住民型奴隷 176
 史書に銅鐸の記述一切なし 177
二、大国主神とは何ぞや 177
 もとの名は大穴の狢(牟士那=たぬき)に由来する 178
 原田説 178
 臼田説 180
三、大国主神は銅鐸民族の統領だった 184
 大国主神は固有名詞ではない 184
 古代史とは民族紛争そのものである 185
 またの名を国津神 186
 初期の大国主神の像は憂いと怒りに満ちた姿 186

第12章 古代日本の収容所群島──それが巨大古墳群だった…………………… 189
一、環濠に囲まれた弥生大集落の滅亡に伴う巨大断層とその実例 190
 分かりづらい古墳論──主観的古代史論 190
 分かりやすい古墳論──客観的古代史論 191
 奈良盆地で何が起こったのか 193
 空堀こそが真実を語る場所 197
 支配民族が入れ替わった 198
 六〇年前までの軍国国家の原点がそこにあった 201
 奈良盆地で恐怖の暗黒政治が完結 203
 広大な馬見古墳群 208
二、奈良盆地外への膨張戦争 211
 河内の弥生大集落と古市古墳群の関係 211
 この地の銅鐸民族収容地は古市古墳群 220
三、池上曽根遺跡から百舌鳥古墳群へ 223
 大阪湾岸の生活適地 223
 池上曽根遺跡 226
 世界最大の大仙陵古墳 230
 古墳時代中期の超巨大古墳群 231
四、大岩山銅鐸大量出土地と大岩山古墳群 232
 琵琶湖東岸の生活適地・野洲市 233
 銅鐸民族の軍事拠点──その場所が大古墳群に変貌 233
 後期銅鐸の大製造地 234
 近畿、東海、中部地方に銅鐸分配 235
 東海道新幹線土手工事でこの山の土砂が取り去られ使われた 236
 銅鐸博物館として整備されている 236
 三遠式・近畿式銅鐸がそれまでと合わせ二四個出土 237
 入れ子(重ね合わせ)が三組出土 238
 数百年の〝古墳造りオンリー”の時代の理解が本書の目的 238
 国史跡 大岩山古墳群・桜生史跡公園となっている 239
 九州の阿蘇山から石棺が運ばれた(阿蘇ピンク石) 240
 三上山は俵藤太のむかで退治伝説で名高い 241
 鬼伝説と銅鐸民族 242
五、信州柳沢遺跡と長野市周辺の大古墳群 244
 銅鐸民族遺跡と大古墳地帯との関係が一層鮮明となる 244
 銅鐸出土地の最北更新 245
 二〇〇九年に更なる銅鐸の大量出土 246
 湯田中の大温泉地帯がセットだった 247
 長野県北部地域は大古墳地帯 249
六、銅鐸民族の悲劇の説話を裏付ける鳥取・島根の遺跡群 249
 「因幡の白兎」説話の謎 249
 大国様とは何ぞや 251
 因幡の白兎の舞台──白兎海岸と白兎神社 252
 青屋上寺地遺跡は銅鐸民族の悲劇の舞台 254

エピローグ……………………………………………………………………………… 257

版元から一言

プロローグ

●「銅鐸民族」の概念なくして弥生時代の理解は不能
 弥生時代の終わり頃、おびただしい数の銅鐸を置き去りにしたまま忽然と〝蒸発〟した、何十万もの人々がいました。私は彼らの「声なき声」を頼りに綿密に調査した結果、ついにその行き先を突き止めることができました。本書は彼らの悲劇の結末を多くの人々に知っていただくとともに、暗黒の古墳時代の正体を明らかにするために記したものです。
 さて、以前NHKの『日本人はるかなる旅』という番組を見て、弥生時代の項に銅鐸の“ど”の字も出てこなかったことに唖然とさせられたことがありました。私は『銅鐸民族の謎』(彩流社)において、弥生時代の主人公は、「銅鐸を使って情報のやり取りを共有していた人々だったんですよ」ということを明らかにしました。その主人公の人たちを「銅鐸民族」と名付けました。彼らは紀元前四世紀ごろ、中国の戦国時代に大陸を追われ、戦争難民となって海上をさまよい、東シナ海の海流に乗って西日本のおもに九州西部・北部、山陰の日本海側に辿りたどり着きました。これら地域からその時代に符合する古代中国の“オリジナルグッズ”が数多く出土しているのです。
 今から約三五年前に発生したベトナム難民のように、いわば“ボートピープル”として、はるか彼方から命がけで流れ着いたわけですから、一度に大挙して漂着した可能性は低いと思います。初めのうちは海岸近辺に仮住まいを作って、そこを拠点にして不安定な難民生活を始めたと思われます。彼らは青銅器大国・中国の戦乱を体験済みなので、青銅製の武器を携帯してきたと考えられます。同時に青銅器の鋳造技術もあわせ持ってきました。いうまでもなく、わが国の先住縄文人との出会いも間もなくやってきます。よそ者ですから最初のうちは、縄文人に物乞いをしつつ困り果てたふりをして、仲良くやるポーズをしていたに違いありません。難民の数も徐々に増え続け、縄文人がお人好しで、武器らしきものを持っていないことに気づくとともに、彼らの本性が徐々に現れてきました。言葉もまったく通じないことから、ひとたび牙をむくと彼らは先住民集落を襲撃し、略奪と暴行を始めたのです。ここで彼らの戦争体験、わかりやすく言うと「人殺し体験」が生かされ、縄文人の悲劇が始まったのです。
 ところが、因果はめぐるものです。永遠の天下を取ったつもりでいた銅鐸民族の上に、列島進入後約四〇〇~六〇〇年の間に、青天の霹靂が襲いかかります。先にこの列島の先住地から追い出された縄文人の悲劇をはるかに上回る惨劇が、彼らの頭上に降り注ぐことになります。これが本書のメインテーマ「戦慄の古墳時代」の正体なのです。謎に満ちた名前“古墳時代”なる、ベールに覆われた恐るべきわが国古代の真実を、本書は白日の下に曝すことをお約束します。

●弥生文化最大の特徴は、本邦初の金属器(青銅器)の開化
 青銅器文化を「ど忘れ」した弥生時代開始論が横行しているために、弥生時代を五〇〇年も一気に遡るなどの“弥生年代不安定症候群”に陥るのです。水田稲作開始期と弥生時代開始期とを一緒にすることが間違いの始まりです。それと、五〇〇年遡上論の根拠となった炭素同位体測定が行われた土器は縄文時代晩年期(晩期)に属するとされているものであり、弥生時代開始期のものという根拠自体が疑わしいのです。
 時代断層をよく見据えて考えることが正しい古代史解明の第一歩です。新たな侵入者が持ち込んだ未知なる武器によって、先住民がパニックに陥ることは、世界史の常識とも言えることです。膨れ上がった難民たちは青銅の武器をちらつかせつつ、自らの居住権と先住縄文人の立ち退きを迫りました。砂浜に広がる低い山間の平地が彼らの新天地でしたから、海・山の自然の恵みも豊かでした。先住民を追いやった後の土地で、侵入者たち自身も、稲作を始めとする食糧生産も始めます。しかし、重要なのは技術的難度の極めて高い青銅製の武器生産を始めたことです。とりわけ銅鐸の発明を成し遂げたことが最大の成果と言えます。銅や鉛、錫の鉱脈を探すプロがいたことは自明のことでしょう。銅鐸は日本列島初の金属音の発明であり、その鋭い高音は仲間同士を知らせあったり、敵(縄文人)を威嚇し、駆逐するのに使われたのです。縄文人は戦争をやらない民族だったので、縄文遺跡からは武器が発見されていません。人口密度が低かったため、何千年もの縄文時代のあいだ、民族紛争の火種となるような相手が近くにいなかったからです。
 新たな侵入者(銅鐸民族)たちは、縄文人たちを殺害したり、東へ北へとどんどん追い払っていったのです。そして最終的には、九州から関東北部まで支配することに成功しました。無論、日本海経由で、東北地方に侵入した中国の戦国難民もいたと思いますが、銅鐸が発見された地域と重なるのが前記の九州から北関東・信越地方までということになるため、便宜的に、この範囲を銅鐸によって結ばれていた銅鐸民族が支配した弥生時代の範囲と私はみなします。これには近年、長野県最北部の柳沢遺跡で発見された銅鐸・銅戈群が決定的根拠を与えました。
 ここで注意したいのは、北部九州の銅鐸民族国家群では、銅鐸とともに、甕棺と呼ばれる大きな甕に死者を埋葬する風習を早くから併せ持っていたことです。これは、甕棺墓制国家・吉野ヶ里遺跡からの銅鐸出土によっても裏打ちされました。しかもこの銅鐸が出雲・木幡家伝世銅鐸と同じ鋳型で作られていたことが判明したのです。要するに、銅鐸の大量出土地・出雲と同族だったのです。この銅鐸は古い形式の銅鐸なので、恐らく九州で作られて、出雲まで運ばれたとみるのが自然です。銅鐸民族国家は九州から本州まで広い範囲に及ぶため、地域ごとに習慣の違いが見られます。共通項は言葉が通じ合えることです。これは古代史では同じ民族を意味します。銅鐸民族の言語は、その出自から、ほぼ中国語系であったと推理されます。同時に古代史において、その民族が生き抜くためには共通の情報伝達手段、すなわち同族としての旗印が必要だったのです。それが銅鐸だったのです。ただし、彼らの居住範囲が広くなると、諸般の事情から良い銅鐸が手に入らないところも出てきたため一律にはいかず、小銅鐸や土製品などの代用品も認められたと考えられます。

●「歴博」の縄文――弥生時代移行論の疑問
 国立歴史民族博物館(歴博)はわが国の歴史学の研究をリードする研究機関と思われます。上述の弥生時代開始五〇〇年遡上説を発表した研究・展示施設です。これを前提とした弥生時代論がまかり通っている現状を大変残念に思います。年代不詳の縄文時代後期の土器の年代測定をして、それが紀元前九~一〇世紀頃で、だから弥生時代がそこから始まったといわれても困るのです。客観的事実との矛盾を科学的に説明しなくてはなりません。前述のように、水田稲作開始は弥生時代の物差しにはなりません。大陸からの移住者がもたらした青銅器文化の始まり時期とは全くかけ離れています。この誤りの背景には、「歴博」が「漸進的な弥生文化発展段階説」を唱える考古学者主導の弥生時代論に支配されているからです。「歴博」などが編集・発行した『縄文人VS.弥生人』(二〇〇五年)がそれを裏付けています。弥生時代論に関する対談が載っていて、「縄文系主体説」VS.「渡来系主体説」のくだりに集約されているので、それを引用させていただきます。篠田謙一氏(国立科学博物館人類研究部室長)が「考古学者からすれば、弥生時代の黎明期を築いた主役はもう、圧倒的に縄文系の人々だったということになるわけですね」というと、藤尾慎一郎氏(歴博研究部助教授)は「ええ、そうです。それと同時に弥生文化の形成についても縄文系の人々が主体となってゆっくりと渡来系の文化を受け入れていったと考える考古学者が多いのです」と述べています。これに対して、弥生時代を築いたのは、大陸からの少なからぬ渡来人だとする「突発的な短期間の弥生文化成立説」が、おもに人類学者から提起されています。
 本書は古代史上の時代変化は、今日の世界情勢一つとっても民族紛争抜きに考えられないことから、後者の「急激な時代変化説」に軍配を上げざるを得ません。民族紛争なき古代史像というものは、現実離れした無味乾燥な理想論に過ぎないと考えるからです。

●古田武彦氏がわが国古代史の脊柱を解明
 以上、大雑把に私の弥生時代論の基礎を述べました。次に、奈良時代以前の日本の古代史の屋台骨を知るうえで重要なポイントをおさらいしましょう。客観的事実を積み重ねて練り上げた古代史の基本の「キ」です。この国の古代史を正しく理解したいと思うならば「コペルニクス的転回」が今必要です。すなわち、「日本の支配者として君臨してきた天皇家の歴史は、近畿の奈良で始まり、以後ずっと近畿で続いてきた」とする考え方(近畿天皇家一元論と呼ばれる)とお別れしていただかなくてはなりません。この歴史観の大筋は、歴史学者の古田武彦氏から学ばせていただきました。
 わが国の古代史は、縄文時代、弥生時代、古墳時代という大きな時代の流れで区分されています。実は、これら三つの時代の境目には時間的・空間的にみて強烈な折れ曲がりが存在します。地震に例えれば、巨大断層のようなものです。この重要なポイントをきちんと捉えられないと、しっかりと根を張った古代史像は望めません。多くの古代史学者が、様々な古代史論を述べています。どれが正しいのかを決めるのは、容易ではありません。考古学や古代の歴史書を詳しく研究し、切磋琢磨してこられた研究者を探すしかありません。誰が聞いても説得力がある学説を探しました。そこで出会ったのが、古田武彦氏の古代史論です。わが国の弥生時代と同時代の客観的な記録は、当時の中国の歴史書のほかにはありません。中国は文字文化の先進国であり、「歴史の記録大国」ともいわれます。文字による記録は今から三四〇〇年も前の殷の時代の甲骨文に遡ります。中国史書をもとに多くの歴史家たちが日本の古代史の立論をしてきました。その方法は正しかったのですが、中国史書と日本の歴史をどう比較し解釈するかの違いによって、結論がまったく異なってしまいました。後代八世紀初頭の『古事記』、『日本書紀』が現存する日本最古の歴史書として最重要なのは当然のことです。しかし、中国史書に載っているのに、『記・紀』に出てこないことが実に多いのです。有名な「女王卑弥呼」も「倭の五王」も登場しません。日本古代史が“百家争鳴”になる理由がそこにあります。中国の史書を自説に都合よく結びつける心理が働くからです。そこで大切なことは、先入観、固定観念、思い込みを排除することです。その点で古田氏の初期の古代史三部作『邪馬台国はなかった』、『失われた九州王朝』、『盗まれた神話』(いずれも朝日新聞社刊)は、中国史書に記されていることを勝手に変更することなく、忠実に解釈し、わが国古代史の客観的事実と比較する立論がなされています。この当たり前の手法が実のところ、ほかの古代史学者には少し足りなかったようです。
 以下に古田学説の最重要の「脊柱」と私が独自に解明した銅鐸民族論を簡潔に記します。したがって、本書の道筋としては、わが国古代史の骨組みを古田学説に学び、そこから出発していますが、弥生時代と銅鐸民族論および古墳時代論において、古田学説とは異なった結論に導かれたことを予め申し述べておきます。

●奈良時代以前の日本の首都は太宰府だった――筑紫時代の証明
「筑紫時代」これが理解できるかできないか、それが日本の正しい古代史と出会えるか否かの分かれ道です。しかし残念ながら、これを理解できる人は極めて少ないでしょう。教科書で、「日本の首都は、大和(奈良)から始まった」などと漠然と教えられているからです。古田武彦氏は、日本の建国は筑紫(福岡県)の博多湾沿岸で始まり、奈良時代までは首都も筑紫にあったことを具体的に解明しました。これが“九州王朝”と呼ぶべきわが国の原初の代表国家であり、奈良時代開始まで大陸とも外交関係を結んでいました。近畿天皇家の大和朝廷は、いわゆる神武の東征に伴って始まった国家であり、はっきり言うと九州王朝の“分家”に相当します。しかし、本家九州の没落に伴ってこれを併合し、七〇一年の平城京の発足によって、初めて近畿天皇家が正式に日本の代表権を奪取したのです。
 同氏の著書を参考にさせていただいた上で、私が独自に編み出した弥生時代像を、次の四点に的を絞ってまず説明します。▽中国の史書は客観的事実に基づいて書かれていること▽時間的空間的諸条件が九州でないと理解不能であること▽「倭国の乱」は天孫族による北部九州の銅鐸民族国家群征服戦争だったこと▽そして現実に九州にしか存在しない古代首都地名が数多くあることです。

 『三国志』魏志倭人伝から導かれる博多湾岸近辺
 日本古代の首都所在地決定は、『三国志』魏志倭人伝に登場するいわゆる邪馬台国(古田氏は邪馬壱国が原文の表記であることを明らかにした)の所在地論に左右されます。今日、主な学者がほとんど近畿説であり、それに追随するマスコミによって、近畿説ばかりが有利に報道されています。しかし、古田氏が『三国志』全体に登場する一五九個の「里」数値や方角、測定方法などを綿密に分析した結果、通常知られている「漢・唐の里数値」とは異なった、異例の「短里」(一里約七六メートル)が採用されていたことが判明しました。そこから導かれた卑弥呼のいた女王国は、博多湾岸に近い福岡市とその周辺だったのです。ここが女王国時代の首都であり、九州王
朝が強大になるにつれ、最終的には内陸に入った太宰府が首都として確立し、ここが奈良時代以前の長期にわたった日本の政府所在地だったのです。

 日本の表玄関が九州であったことは歴史的・地理的条件からも必然
 天孫族は朝鮮半島南部から出陣し、古代倭国の北部九州を侵略したと考えるのが、諸条件をかんがみて自然の流れです。つまり、対馬、壱岐を経由すればすぐ目の先が博多湾岸です。その入口に志賀島が突き出ています。この島に初期天孫族国家の首都(司令部)があったと考えられます。その根拠はまず、志賀島金印です。紀元五七年に、後漢の光武帝が倭国からの朝貢に対し金印紫綬を下賜したことが『後漢書』「倭伝」に書かれています。外交上の最重要事物が、政権の中枢部に置かれたのはごく当たり前のことではないでしょうか。漢の皇帝が倭国の代表権を持つ国家として、委奴国に対してお墨付を与えたことにほかなりません。
 ちなみに、この印の正しい読み方は、教科書で習った「漢の委の奴の国王」ではなく、「漢委奴国王」が正しいことを古田氏は解明しました。「漢の委の奴の国王」のような、三段読みは古代中国皇帝は採用しなかったのです。「奴国」にこの金印を送るならば、「漢奴国王」でなければおかしいのです。「奴国」はたくさんある倭国の中の一小国に過ぎないからです。そんなところに漢の皇帝がわざわざ国家と認める最高位の金印を贈るはずがありません。後漢は「委奴国」を草創期のわが国の代表権を持つ中心国家として承認したのです。「委」の意味は、“したがう、すなお、おだやか”という従順を意味する文字です(『失われた九州王朝』〈古田武彦著〉による)。これに対して、漢に対して敵対し続けた北方騎馬民族には、「匈奴」と名づけました。「匈」は“たけだけしい、さわがしい”の意味です。凶暴という言葉はよく知られています。わが国に対して「委」を用いたのは、漢の皇帝がそれだけ信頼を置いた証しです。
 以上のように、漢字は断定の言語、政治の言語とも言われるように、文字の順序関係をきちんと決定し、曖昧さを許さない言語なのです。日本語のように、間に助詞を入れて遠まわしに表現することを嫌う言語です。志賀島の高台は、博多湾とその周辺を見渡せる絶好の場所であり、委奴国は漢の後ろ盾をもらった軍事国家として、国全体を防衛し、周辺の動きを絶えず監視しつつ勢力を蓄えていたのです。

 「倭国の乱」は北部九州内陸部の銅鐸民族国家征服戦争
 九州の銅鐸国家群は銅鐸と甕棺によって象徴される民族共同体だったのです。この国家群は、出雲を中心とする中国地方、あるいは、四国地方の銅鐸国家群とも連合体を形成していました。この九州・出雲連合国家が、紀元前一世紀ごろ、天孫族によって博多湾岸で武力侵略を受け、この地で銅鐸国家側は大打撃をこうむり、敗北しました。この戦いの休戦交渉において、天孫族側は強力な武力の脅しをちらつかせつつ、九州北部の博多湾岸の割譲を勝ち取りました。この事件が有名な「国譲り」です。それに基づいて、天孫族側は博多湾岸と、糸島半島周辺への軍隊の進駐を行ったのです。これが名高い「天孫降臨」という事件でした。
 ここで、「天孫降臨」について簡単に説明しておきます。「天孫降臨」と聞いて宮崎・鹿児島県境の高千穂峰の出来事として思い起こされる方が多いと思いますが、これは幕末から明治維新の主導権を握った薩摩・長州藩による自らの権威付けのための史学(薩長史学とも言う)の産物です。人が住めない南の果てのそんな高い山にわざわざ攻め込むでしょうか。現に古代遺跡は何もありません。本当の「天孫降臨」は史実であり、臨地性の高いことが古田氏によって解き明かされたのです。すなわち、『古事記』の正しい読み方は、「筑紫の日向の高千穂のクシフルの峰」でした。これは博多湾や糸島半島に近い高祖山連峰に実在し、そこには日向山・日向峠があります。
 この出来事で銅鐸国家側が、北部九州の表玄関を明け渡したわけですから、銅鐸民族にとって重大な損失だったのは言うまでもありません。ここで気を付けなければならないのは、この戦いで天孫族が北部九州全域を占領したのではないことです。九州の入口の重要拠点を占領したということです。したがって、甕棺などの墓制は銅鐸民族との宥和政策として巧みに共有していたとみられます。その後、天孫族はこの地域を中心として、約二〇〇年余、着実に力を蓄えて強大となり、北部九州内陸部への侵略のチャンスをうかがっていたのです。庇を借りて母屋を乗っ取る戦術をとったということです。以後、内陸を中心とした銅鐸民族国家とは共存関係にあったのですが、後漢との国交をめぐる交渉権、占領地の境界線、あるいはお互いの権利などをめぐって小競り合いが絶えなかったのです。吉野ヶ里の銅鐸国家の甕棺で発見された「首なし遺骨」がそれを物語っています。そのころ、天孫族の傍若無人な振る舞いに恐怖を抱いた各地の銅鐸民族国家群は、集落の周囲に一斉に環濠を巡らし、天孫族の襲撃に備える必要に迫られたのです。
 しかし、「生口」などの貢物をそろえ、巧みな外交戦術を展開した天孫族は、後漢との交渉権をほぼ手中にしました。その後中国の後ろ盾を勝ち取った天孫族の覇権主義はとどまることを知らず、二世紀の後半、ついに銅鐸国家側への一斉蜂起を開始しました。約半世紀の戦いの後、吉野ヶ里などを含む銅鐸国家群を完全征服したのです。これが最終的に女王卑弥呼が登場しピリオドを打つ「倭国の乱」にほかなりません。三世紀半ばまでに、北部九州の銅鐸国家群が土器などの家財道具を環濠に遺棄し、なぞの“蒸発”を遂げていることがそれを裏付けています。『日本書紀』では、この戦いを「神功皇后の筑後平定説話」として、あたかも近畿の天皇家による筑後征伐であるが如く捏造され、一〇〇年も時代を遅らせて書かれています。私が突き止めた銅鐸民族国家の人々の蒸発先は本文でのお楽しみとさせて頂きます。

 古代首都地名が林立する太宰府
 結論から言いますと、倭国の乱に勝利した九州の天孫族が最終的に首都を営んだところが太宰府です。さて、太宰府とはいったいどんな意味を持つのでしょうか。偉大なる宰相が居住する役所そのものを表しています。太宰とは、本来「百官の長」を表します。それが七世紀末に近畿天皇家が九州の王朝を滅ぼしたあと、九州の一地方役所に格下げされてしまったのです。もともとは、近畿は九州の分家だったのです。分家が本家を滅ぼしたのです。
 この太宰府政庁あとには、「都督府古址」なる石碑が堂々と建っています。九州王朝を否定する人々には誠に都合の悪い石碑だと思います。『日本書紀』にでてくる「筑紫都督府」の意味をあまり考えないで、そのまま作ってしまったのでしょうか。「ここに都がありました」と言っているのと同じです。「都督府」とは、都督がいた中央政庁のことです。この名が残っているのは、全国でただ一ヵ所、太宰府だけです。いわば、総理大臣官邸のようなものです。では「都督」とは何か。それは、五世紀に「南朝」の宋(四二〇~四七九年)に使者を送った「倭の王」が、中国の天子から与えられた称号だったのです。太宰府に君臨した九州王朝の王であり、讃、珍、斉、興、武という中国風の名称で南朝に使者を送った「倭の五王」として知られています。この王=都督のいたところが「都督府古址」の地にほかなりません。「都督府古址」の向かって右奥に「紫宸殿」という字地名があります。また、「都府楼」のつく駅名はJRと西鉄の双方に隣合うように現存します。都府楼とは、都督府の役人が出入りする官庁名のことでしょうか。さらに、「大(内)裏」「朱雀門」などの地名も残っています。このように明らかな首都地名をもつ九州王朝を無視して成り立っているのが、わが国の不思議な古代史学なのです。九州王朝とは、天孫族が「倭国の乱」によって、北部九州を中心とする銅鐸民族国家群を完全征服して成立した国家であり、近畿天皇家の祖先の国家です。好戦的な軍事国家の色彩が強く、卑弥呼女王で知られる邪馬台国(正しくは邪馬壱国)がその始まりです。以後、奈良時代までつづく九州王朝の時代は、「筑紫時代」と呼ぶのが真実の姿です。初期九州王朝の膨張政策の一環として、いわゆる「神武の東征」が決行され、大和の完全制圧を行う過程で、巨大古墳群の築造に着手します。これが近畿天皇家の全盛時代の幕開けであり、暗黒の古墳時代の始まりとほぼ一致します。

著者プロフィール

臼田 篤伸  (ウスダトクノブ)  (

東京医科歯科大学歯学部口腔外科大学院修了。歯学博士。ガンの細胞培養学専攻。
歯科医業のかたわら、風邪ならびに古代史についての調査・研究を行う。
1994年 『さらば、かぜ薬』(三一書房)を出版し「ぬれマスク法」を発表。
1999年 『こんなに効くぞぬれマスク』(農文協)、『風邪に勝つ本』(ローカス)出版。
2000年 『ぬれマスク先生の風邪に勝つ本』(ユリシス・出版部)、『ここがおかしい風邪の常識─ぬれマスクってこんなに効く─』(ローカス)を出版。
2004年 『銅鐸民族の謎 争乱の弥生時代を読む』(彩流社)出版。
2005年 『銅鐸の秘密』(新人物往来社)出版。
2007年 『ぬれマスク先生の免疫革命』(ポプラ社)出版。

上記内容は本書刊行時のものです。