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われらが革命 1989年から90年 エールハルト・ノイベルト(著) - 彩流社
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われらが革命 1989年から90年 (ワレラガカクメイセンキュウヒャクハチジュウキュウネンカラキュウジュウネン) ライプチッヒ、ベルリン、そしてドイツの統一 (ライプチッヒベルリンソシテドイツノトウイツ)

社会科学
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発行:彩流社
A5判
縦215mm 横155mm 厚さ37mm
重さ 750g
598ページ
上製
定価 6,500円+税
ISBN
978-4-7791-1522-6   COPY
ISBN 13
9784779115226   COPY
ISBN 10h
4-7791-1522-1   COPY
ISBN 10
4779115221   COPY
出版者記号
7791   COPY
Cコード
C0022  
0:一般 0:単行本 22:外国歴史
出版社在庫情報
在庫僅少
初版年月日
2010年6月
書店発売日
登録日
2010年4月8日
最終更新日
2023年12月11日
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紹介

1989–90年のドイツの統一への道を、社会的背景、独裁の存在、東ドイツの反対派の形成と党への脱皮など具体的なプロセスと多数の詩やブラックジョーク、流行歌なども引用、東ドイツの市民の心の動きを描きながら著者を含む反対派の群像を活写する。

目次

刊行にあたって……………………………………………マルクス・メッケル/ライナー・エッペルマン

第一章・もろい寄木細工──建国四十年を迎えた東ドイツ
  一 東ドイツ的な社会主義
  二 社会主義と神経システム
  三 混乱する党の文化政策
  四 トロイの木馬の役割を果たす教会
  五 力を得た反対派活動家
  六 東ドイツから逃避していく人たち
  七 西ドイツが取ってきた対東ドイツ政策と東ドイツ神話
  八 社会主義体制を守るための党の決断

第二章・多くの住民の前で戦わされるようになった党と反対派との対決
  一 一九八九年九月――異様な雰囲気
  二 綻びの始まった党の包囲網
  三 新しい反対派集団の旗揚げ
  四 党の指導を拒否する住民
  五 ライプチッヒの街頭闘争――初めてのデモ

第三章・開かれた窓──一九八九年一〇月からベルリンの壁崩壊まで
  一 革命の序曲──十月二日から八日まで
  二 運命の日──十月九日(月曜日)、ライプチッヒ
  三 一歩退いた党と党との対話を拒否した市民
  四 コントロールを失った社会
  五 膨大な対外債務と東ドイツを捨てる人の波
  六 新しい政党と市民運動──制約下での活動
  七 混乱する社会主義統一党
  八 人権支援から介入政策へ転換した西ドイツ政府
  九 後手に回る党中央委員会会

第四章・多くの人たちの渇望──ベルリンの壁崩壊から一九九〇年一月まで
  一 ベルリンの壁崩壊
  二 我々は一つの国民である――権力闘争の激化
  三 モドロウ首相が指導する政府の成立
  四 国民保安局(旧国家保安省)を占拠した市民――燃え上がった怒り
  五 円卓会議の立ち上げ
  六 新しいアイデンテティーを求めて
  七 一九八九年秋──新しい社会の誕生
  八 東欧政策から両独間政策へと舵を切った西ドイツ
  九 社会主義統一党の復権を目指した動きとそれを打破した一九九〇年一月革命

第五章・苦悩を増す社会とそれからの解放を目指した選挙──一九九〇年一月から五月まで
  一 狭い舞台の両独間政策論争
  二 ドイツ問題で国際舞台に登場した西ドイツ
  三 市民を代表するのは誰か――様々な政党や組織の発展
  四 最初で最後の自由な人民議会選挙――三月十八日
  五 初めての自由な地方議会選挙――五月六日

第六章・東ドイツの終焉とドイツの統一
  一 経済・通貨・社会同盟条約の発効――七月一日
  二 凋落していく東ドイツの社会
  三 歴史に基づいた州の再編成
  四 変革を経た東ドイツの議会制度と政治
  五 統一されたドイツ

おわりに

訳者あとがき

参考文献一覧

人名索引

前書きなど

刊行にあたって

 一九八九年に平和裡に推移した革命は、ドイツの歴史において高く評価される出来事の一つです。あの秋の数日間で、東ドイツの市民は社会主義統一党による独裁を打破することに成功しました。かつて自らを壁の中に閉じ込めてしまったドイツ民主共和国は、これまでの全ての事実を告白しなければならない状況に陥り、四十年以上に亘って続いた、一見無限の権力を享受していたかのように見える社会主義統一党は、それに反対する人たちの運動の圧力の下で、そして大衆の平和的なデモによって、トランプのカードで家を作る遊戯が示すように、一直線に瓦解していきました。
 一九八九年当初あの硬直した国において、改革の意志もなく、またその能力もない政治指導者でも何かを変えることができる、と考えた市民は皆無でした。そして幾度となく繰り返される出来事は怒りとなって、人々の心に衝撃を与えたのです。これについてはさまざまな例を数え上げることができるでしょう。ハンガリーやプラハを通過して出国していく多くの東ドイツの住民の逃避、平和の祈りを続ける行列、さまざまな主張を公にし、あるいはデモ行進に訴える人たちなどを先ず指摘することができます。党に反対する人たちの集団の旗揚げ、そして大衆の圧力によって可能となったベルリンの壁の崩壊、東ドイツの各地で行われた様々な円卓会議の開催、自由選挙の実施なども列挙しなければなりません。
 東ドイツの住民が長い間期待し続け、それについて再三議論を続けてきたことは、一度に可能なものとなっていきました。それは自由、民主主義、そしてそれに続いて時を経ずして現れたドイツの統一です。それを可能にしたのは平和裡に行われた革命と、一九九〇年にドイツの統一への道を可能とした東ドイツの、自らの手による民主化でした。ドイツの統一とそれに続く欧州の統合プロセスによって目的は達成されました。東ドイツの人たちは夢と考えていたにすぎませんでしたが、ドイツは平和裡に、自由と民主主義の下で統一され、ドイツに接する隣国から尊敬を受け、欧州連合とNATOの一員となったのです。
 本書で述べられているのは、東ドイツというドイツの一地域の歴史の幸運な出来事だけではありません。四十年以上に亘る二つのドイツの時代と東ドイツに君臨した共産主義独裁は、ドイツ人全ての歴史の一部であり、東ドイツの住民だけが共有した事柄ということでは決してありません。更に、これは全ヨーロッパ的な次元であることも想起されなければなりません。何故なら、一九八九年から九〇年において、ほとんどの東ヨーロッパは解放されたからです。ソ連の内部崩壊と東欧における民主主義の出発は、驚くべき早さで冷戦を終了させていきました。このことは西側の東側に対する勝利というよりは、欧州の共産主義諸国家に住む人たちの自由への意思の勝利でした。東ドイツの平和革命がドイツの統一を創り出すのと相まって、中・東欧諸国の革命運動は、統一された、民主的なヨーロッパが共同して成長する道を切り開いていったのです。
 エールハルト・ノイベルト博士は時代の目撃者として、また現代史家として、私たちを一九八九年から九〇年という一連の事件の一面へと誘って巧みです。本書はあの緊張した日々の、数週間いや数か月の密度のあるモザイクそのものとなっています。読者は東ドイツ住民の大量の逃避や大衆によるデモを目にして、人々が意見を発表したいとする意思、反抗する精神、個々人が示した勇気や英雄的な行動、また不安と期待の目撃者となるでしょう。著者ノイベルトは新しい民主勢力が獲得した選択肢を示し、同時に政治の現実性について明確にしています。そして名のあるなしを問わず、それに係わった多くの活動家と各自の考えが紹介されています。
 ここでは政治家の行動だけが記述されているということではありません。著者はこの革命を、ある意味で「下から」見たパースペクティブとしてとらえています。つまり、いかにして住民が「市民」となっていったか、活動を開始して立ち上がっていったか、権力者を前にして恐怖を乗り越えてデモに出ていったこと、頑迷な支配者をその地位から追放して自らの未来を手にしていった過程などが示されています。このようにしてノイベルトは、平和革命を市民の勇気と市民としての意識の結果として指し示し、自由な社会への夢を実現した彼らに対して記念碑を打ち立てています。
 この本はドイツの東西に住む人たちのために、二十年という年月を経てもう一度あの出来事に目をやり、想起し、そしてあらためてその意味を検証しようとしています。そしてあの出来事を自らは体験することのなかった若い人たちに対しては、最近の現代史において最も重要な部分を明らかにする好機を提供しています。著者は多様な、一部には複雑に絡み合った現代の印象記を、広い政治的・歴史的な相互関係へと組みかえました。最近の歴史を入念に再構成することで、著者は一九八九年から九〇年の、エポックとなった巨大な変革を人々に想起させるという、重要な貢献をなしています。
 社会主義統一党の独裁を検証するための連邦基金は、本書の作成を支援してきました。またその出版を援助しました。この本はドイツとヨーロッパの自由と民主主義の歴史のためになしたあの出来事について、重要な意味を提示しています。

 ベルリン、二〇〇八年七月
     
         マルクス・メッケル(ドイツ連邦共和国議会議員)及びライナー・エッペルマン
         社会主義統一党の独裁を検証するための連邦基金評議会議長及び執行委員会議長

版元から一言

訳者あとがき

 この本は二〇〇八年十月に発行された『われらが革命 一九九八年から九〇年――ライプチッヒ、ベルリン、そしてドイツの統一』(原文は『われらが革命、一九八九年から九〇年の歴史』Ehrhart Neubert, Unsere Revolution, Die Geschichte der Jahre 1989-90, Piper Verlag, 2008)の全訳です。著者のエールハルト・ノイベルト博士は一九四〇年チューリンゲン地方ヘルシュドルフ(旧東ドイツ)で牧師の家系に生まれ、イェーナ大学神学部で学んでいます。青少年を対象に牧師活動を始め、一九七九年からは東ドイツの平和運動に参加、そして一九八四年からは福音教会同盟本部(東ベルリン)で社会問題を担当しました。一九八九年秋には様々な団体や運動の立ち上げがあり、ノイベルトも「民主主義の出発」の結成に参加、十二月にはこの運動が政党に発展したのを受けて副党首になりました(ちなみに現在のドイツのメルケル首相はこの党のスポークスマンを務めています)。その後一九九八年から二〇〇三年まで、「社会主義統一党の独裁を検証するための連邦基金」専門委員を務める傍ら、一九九六年から二〇〇三年まで、独裁の犠牲になった人たちを支援するための相談室の副室長(室長はベールベル・ボーライ)、二〇〇四年から同室長を務めています。またクリスチャン・ヨアヒムのペンネームで一九八〇年代から西ドイツの新聞に寄稿、更に、『駆逐された革命――一九五三年六月十七日の歴史的意義』(共著)(Der verdrängte Revolution- Der Platz des 17.Juni 1953, Verlag Edition Temmen,2004)や、『東ドイツの反対派の歴史』(Geschichte der Opposition in der DDR 1949-89,Ch.Links Verlag,1998, この分野では浩瀚なスタンダード)など、東ドイツの独裁政治を告発する様々な著書を発表してきました。
 なお、ノイベルトは一九九六年にこの『東ドイツの反対派の歴史』をベルリン自由大学に提出し、博士号を取得しています。
 
 一九八九年十一月九日に生じたベルリンの壁の崩壊と、それから始まるドイツ統一への道は、一九四五年を境に始まった冷戦の終焉の引き金を引くことになったという意味で世界史的なことです。またドイツ人にとってこの時期は、一九四九年に生まれた二つのドイツの国家が、決して一つのドイツにはなりえないイデオロギーを互いに熟知しながら四十年間並立して存在し、歴史の瞬間を利用して統一へと向かっていったという意味で、極めて幸運に恵まれた、ドイツ史においても大きな節目となる一年です。
 本書を推薦する「社会主義統一党の独裁を検証するための連邦基金」(Bundesstiftung zur Aufarbeitung der SED-Diktatur, 一九九八年法律に基づいて成立)は本書の刊行にあたって(本書冒頭参照)、東ドイツの歴史はドイツの歴史の一部であると認識されなければならない、とわざわざ強調しています。これは奇異に聞こえるかもしれません。
 二つのドイツの対立と、それを経て確立された共存の時代は、それぞれの国に住む人たちに困難をもたらしていた時代でした。抑圧された同胞が現実に東ドイツの中で生活している中で、西ドイツに住むドイツ人は、東ドイツという国は西ドイツにとって脅威となっている存在、極端にいえば、彼らが西に対して銃を向けてくるかもしれない、という不安を四十年間持ち続けてきました。他方東ドイツに住むドイツ人の多くは、ドイツ人であるにもかかわらず何故自由を享受できないのか、そしてもっと突き詰めれば、我々はもう一つのドイツ人の集団から何故一段低く見られているのか、という劣等感に悩まされていました。この屈折した精神は、時々西ドイツに対する東ドイツの明らかな優位が現れたときにその複雑さを示しています。一九七四年に西ドイツで開催されたワールドカップで、東ドイツのナショナルチームが西ドイツのナショナルチームに勝ったとき、ゴールをもぎ取ったシュパールヴァッサー選手は英雄になり、東ドイツの市民は溜飲を下げ、東ドイツ国家はこれを最大限プロパガンダに利用したものです。
 西ドイツと常に比較しなければならなかったという時代の遺物は、東ドイツに住んだ人たちの心の中には統一後も続いて残っています。そこで連邦基金は、一九八九年十月から始まる革命の歴史も含めて、四十年間続いたドイツ民族の分裂の歴史において、東ドイツの歴史が正しく評価されることで、真に一つのドイツ民族として生活できることを訴える必要があるわけです。
 
 本書は東ドイツの革命を、それに参加したキリスト教関係者や市民の視点から書いています。そして、革命を先導したのは主に、キリスト教関係者、あるいはキリスト教の精神を認めない国家において、キリスト教と共に成長してきた若い人たちであったと指摘しています。東ドイツの革命において、少なくとも一九九〇年三月の初めての自由な人民議会選挙が行われるまで、「新フォーラム」は極めて重要な位置を占めていますが、この「新フォーラム」にも多くの教会関係者、あるいは教会や家庭で聖書を読んだ人たちが含まれていたことは本書の中で何度も言及があります。
 私は一九八四年一〇月から八九年一月まで東ドイツの日本国大使館に勤務していました。当時は、東ドイツにいろいろな不平不満はあっても、国家保安省はその芽が出ないうちにそうした不安定要素を暴力で抜き取ってしまうので、誰も権力に反抗できないという意味で東ドイツは「安定した国である」といわれていました。社会には諦めが支配していました。私がウンター・デン・リンデン通りの端、ブランデンブルグ門の前で経験したことは、今でも脳裏に焼き付いています。当時ルストガルテンからウンター・デン・リンデンを西ベルリン方向に向かって歩き続けると、最後に鉄条網に突き当たり、国境警備員が立つ地帯に出ます。ここから約百メートル先までの何もない空間は進入禁止区域で、その奥にブランデンブルグ門が立ち、更にその先をベルリンの壁が走っていました。私の前を歩いていた老夫婦は遠くのブランデンブルグ門をしばらく見やり、「traurig genug」(これ以上の悲しみはない)といって立ち去りました。
 東ドイツの子供たちは気管支炎や皮膚病に罹りやすいといわれていましたが、環境破壊はあの社会に住めば誰でも理解できました。冬の一夜、東ベルリンで車を外に出しておくと、褐炭を燃やした後に残る黒いススが薄く積もっているのが見えました。不満が爆発するのは、一九八九年五月の地方議会選挙における不正を弾劾するために、広く国内で行動がおこってからでした。住民は急に口を開くようになりました。そして、ハンガリーに滞在していた東ドイツの住民がオーストリア経由で西ドイツに脱出することを許した九月のハンガリー政府の決定によって始めて、大きな変化が起きている、という意識がほとんどの東ドイツの住民に強烈な印象を与えました。これまで国家は住民に恫喝を与えることしかできず、住民の一部は、逃亡する道だけが生き残りをかけた戦いであると考えていました。しかし、これまで社会主義統一党に堂々と反抗することができなかった住民は、当たり前の利益を主張することで市民へと変革していきました。そのきっかけを与えたのは、東ドイツに残ってこの国をよりよい社会にする、という意思を市民が確信したときで、本書では十月九日のライプチッヒにおける平和なデモがその日である、と書かれています。「我々こそ人民である」とシュプレヒコールした日が、革命の誕生の日でした。
 こうした背景を経て、「社会主義統一党は改革の先頭に立つ」と社会主義統一党が突然宣言したのは指導者の交代(十月十八日)があってからですが、この時点では既に革命は深く進行していました。革命を先導した反対派に支えられて堂々と自説を展開していった市民の発言がそれを示しています。この党には改革の意図はないと見破った市民は、独裁の打破と国内の改革を目標にしました。
 しかし革命は新しい段階に入ります。先ず反対派でさえ想定していなかった壁の崩壊(十一月九日)、突然現れた西の同胞と、西ドイツ政府による東ドイツへの政治的、経済的関心は反対派に混乱を与えます。反対派の主流は東ドイツ国内の改革を意識し、西ドイツに対しては「強大な兄」に対する「抵抗する弟」の自己主張が強く現れるようになりました。著書は、こうした事実は西ドイツに対する長い憧憬とコンプレックスの裏返しである、と記しています。東ドイツにも残すべきものがあることを誇りにする人たちの中には、後に東ドイツでは最初で最後の自由な選挙によって選ばれた首相も含まれています。弁護士出身で西ドイツのコール首相の支援も得たデマジェール首相は、反対派の運動を好ましくは思っていませんでした。しかし彼も含めて、東ドイツの市民から見れば、西ドイツは最初、「巨大な資本主義のモンスター」としか見られなかったのです。
 それでも市民は自由を待ち続けていました。彼らは、「我々は一つの国民である」と主張して、統一することでドイツ人としての誇りを救済できるという期待、豊かな消費社会、これらを背景に最短距離で統一に達する道を求め始めました。革命を先導した反対派が足並みを乱し始めた一方で、市民は統一を最優先し、二つの間には軋轢が表面化します。著者はこうした中、党の復権への活動に注視しています。そして一九九〇年一月に市民が決起してデモ攻勢を仕掛け、社会主義統一党の復権を打ち砕いたことで、革命への完成に進む道が開かれたことを詳述しています。
 党の崩壊と円卓会議の開催、そして最後には円卓会議に参加した反対派のメンバー自身が政府に参加することで(一九九〇年二月)、革命はまた新しい段階を迎えます。そして初めての自由な人民議会選挙を前にして、ドイツの統一の実現を最も早く切望する市民と、それに条件をつける革命の「引率者」の間の政治的、精神的乖離は決定的になりました。西ドイツの政治家による選挙支援は革命家の間の対決を鮮明にし、一九八九年十月にみられた革命家の間での連帯、市民と革命家の間にあった強い繋がりはどこにも見られなくなりました。市民が求めたことは三月十八日の選挙結果が示しています。一対一の通貨交換があるかもしれないという噂も保守系の候補者に有利に働いたかもしれません。最短距離の統一、そのために簡単で納得し得る説明が選挙を制することになりました。反対派の多くはこうして革命の舞台を去る準備を始めています。本書では革命家が舞台を離れるという下りが一片の詩を引用して(第五章冒頭)象徴的に表現されています。
 革命はどこかで法律的な処理の段階に入ります。特にベルリン問題を含むドイツ問題、国境画定問題といった外交問題の処理は、革命の完成であるドイツ統一に至る極めて重要な要素を成しています。その後国務長官となったコンドレサ・ライス教授(当時スタンフォード大学を休職し、ブッシュ政権下で国家安全省会議のスタッフとしてドイツ問題も担当)はその後ハーバード大学で教鞭をとる職業外交官ツェリコフ教授とともに大著「Germany Unified and Europe Transformed」(『ドイツの統一とヨーロッパの変貌』)を一九九五年に著わしています。この本は米国の外交が成功した例の一つであることを示しており、ドイツ語に翻訳されてドイツ国内でも好評を博しました。それを明記するためか、ドイツ語のタイトルは「Sternstunde der Diplomatie」(『外交の輝ける日々』)と、印象的な言葉を選んでいます。
 一方、本書『われらが革命 一九八九年から九〇年』の中では、華々しい外交舞台は革命を理解する上で最低限の事実としてしか描写されていません。もともとこの本は、東ドイツという閉ざされた社会で四十年間を生きてきた普通の市民の嘆きと悲しみを代弁する形で書かれています。そしてベルリンの壁の崩壊という、誰も予想しなかった歴史と、それに続く統一への市民の強い期待が中心となっています。見方を変えれば、どろどろとした心の葛藤が背景にあって、そこから爆発していったエネルギーがヨーロッパの歴史まで変えてしまったことを事実に即して素直に文章にしたものです。それは東ドイツ市民が見た革命の一つの物語であり、革命の「引率者」の群像ともいえます。そして革命を「引率者」の一人として主導してきた著者は、この本によって、いまなお存在するドイツ人の間の心の垣根を取り払おうとする努力をしているように思えます。
 一九九〇年三月に行われた初めての自由な人民議会選挙で、東ドイツの市民は早急な統一の完成の意思を表明しました。そこから統一への道は終わってみれば一本道でしたが、独裁の四十年が残した精神的・肉体的な苦しみを救済するための法的措置、国家保安省が残した膨大な文書の管理と有効利用のための法律の制定などでは、西ドイツと東ドイツの対立を克服して二つの国の歴史を一つにするために、多くの努力が払われています。同じことは独裁の側にいた犯罪者の処罰についてもいえます。更に経済体制を根本から作り変える作業の過程では、多くの犯罪の温床を生み出しました。著者は本書を締めくくる言葉として、「あちこちに破片が散乱している。ドイツは統一された」とテルチック元西ドイツ首相府局長の書著を引用して(546ページ参照)、東ドイツの改革に参加した革命家の群像が残していった理想の破片を拾い集めています。革命の完成は、統一条約を批准した後の一九九〇年十月三日の統一記念式典でした。
 これに関して、パクエ教授(マグデブルグ大学、二〇〇二─〇六年までザクセン・アンハルト州の財務大臣)は二〇〇九年に「総決算」を上梓し、統一後二十年に亘って行われてきた東部五州の経済振興政策が実を結ばず、経済を上昇気流に乗せることがこれからも困難であることについて、経験を交えて説明しています(DIE BILAZN, Eine wirtsschaftliche Analyse der deutschen Einheit, Hanser, Karl-Heinz Paqué 2009)。この著書の中でパクエ教授はシュミット元西ドイツ首相が二〇〇三年や〇五年に発表しているとして東部五州に関するシュミット首相の発言をこのこのように引用しています。
 基本的な構造が変化しないなら、ここは「マフィアのないイタリア南部」と同じである。

 パクエ教授はこの発言を敷衍して、「東部ドイツは財政的には底のない樽と同じである。それは問題を抱えている南部イタリアに似ている。ここでは経済的に未発達な状況が続き、独自の経済活動によって生きることはできず、外部からの支援が必要となっている」と説明しています。しかし結論としては、「二〇〇三年から〇八年まで続いたドイツの工業分野でのブームは終了し、財政と景気の極端な悪化が始まった。こうした状況が続くと予想されるので、東部ドイツへの投資は見込みがたい」と書かれてあります。
 パクエ教授のこの著書の中では、東部ドイツの政治状況については言及がありませんが、二〇〇九年九月の総選挙は左翼党の躍進を示しています。こうした状況をみると経済的な統一でさえまだまだ困難であることを暗示しているようで、事実二〇〇九年十月に成立した新政権は、ドイツの東西について経済的な歯止めと巻き返しが必要であるとする政策を掲げました。
 平和共存、厳格な国境監視、二つのドイツ、これらに異議申立てを行ったのは東ドイツの反対派、特にキリスト教を信仰する、あるいはそれと精神的に係わり合いのある人たちでした。そして普通の市民のレベルでも、別の形で深い異議申立てがなされ、革命のエネルギーを作っていきました。それは亡命です。冒頭で紹介したあのシュパールヴァッサー選手も一九八八年に西ドイツに逃亡しましたが、西ドイツのサッカー関係者に温かく迎えられました。東ドイツの大学でサッカー選手強化のために研究を続けていたことを生かして、西ドイツでコーチ業につくという幸運に恵まれたのです。西と東のドイツの国はいろいろなところで複雑な光と影を残していました。統一は達成されても心まで統一することができないのは、一九九〇年十月の統一以降の歴史が示していますが、そうしたことを緩和するための努力は日々行われています。
 なお、統一以後、旧東ドイツにおいては、教会と係わり合いを持つ市民の数は急速に減少しています。革命の精神の一部を支えたプロテスタンティズムのその後については、別の角度からの説明が必要かもしれません。

***

 訳出に当たって、基本的な問題は内ドイツ関係省が一九八五年に作成した東ドイツ・ハンドブック(Bundesministerium für innerdeutsche Beziehungen, DDR Handbuch ,Band 1, 2)を参考にしました。本書の中では訳注という形で登場する部分の一部は、このハンドブックから書き出したものです。もとより事実関係の確認はそれでも十分ではなく、考え方も含めて著者ともメールを通じて何回も指導を仰ぎ、二〇〇九年夏にはいくつかの点について確認のために著者をエルフルトに訪問しました。原書では執筆のために使用された膨大な参考文献と、その文献の当該個所を示す九二一項に亘る註も掲載されています。この後者の部分の再現は紙面の都合もあり割愛し、また一部は本文中に盛り込みました。また、原著では「はじめに」となっていますが、全ての章を読み終えて「終わりに」に移ると読みやすいのではないかと考えて、最後尾に廻しています。
 最後に、出版事情の極めて困難な中、翻訳・出版を快諾された彩流社に深謝します。

   二〇一〇年一月                             山木 一之

著者プロフィール

エールハルト・ノイベルト  (ノイベルト,エールハルト)  (

Ehrhart Neubert 1940年、ヘルシュドルフ(旧東ドイツ)で牧師の家系に生まれ、イェーナ大学神学部で学ぶ。牧師として活動するかたわら、1979年には東ドイツの平和運動に参加。1989年に設立された政党「民主主義の出発」で副党首。その後、「社会主義統一党の独裁を検証するための連邦基金」専門委員を務めたあと、独裁の犠牲になった人たちを支援するための相談室の室長。東ドイツの独裁政治を告発する様々な著書を発表している。

山木 一之  (ヤマキ カズユキ)  (

1974年、岡山大学中退、外務省入省。ドイツ・キール大学で研修。在東ドイツ日本国大使館、在フランクフルト総領事館などに勤務。2005年、病気のため退職。ドイツ関係のアクチュアルなテーマの翻訳に従事。訳書にテオ・ゾンマー『1945年のドイツ瓦礫の中の希望』(中央公論新社、2009)、ハンス・テートマイヤー『ユーロへの挑戦』(国際通貨研究所監訳、京都大学学術出版会、2007)がある。

上記内容は本書刊行時のものです。