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境界の民族誌
多民族社会ハワイにおけるジャパニーズのエスニシティ
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2008年8月
- 書店発売日
- 2008年8月6日
- 登録日
- 2010年2月18日
- 最終更新日
- 2015年8月22日
紹介
ナイトクラブやゲイバーで酔っ払った経験についてのフィールドノートを学術的な資料として、ハワイの若い世代のジャパニーズ(日系人)やパートジャパニーズを対象として、彼らの生きた経験に接近し、現在のハワイの多民族的状況を民族誌的に描き出す。
目次
まえがき
序論
第一節 民族誌の可能性
第二節 理論的枠組み
第一章 ハワイ多民族社会の概要
第一節 移民と多民族社会の形成
第二節 ジャパニーズの歴史的変遷
第三節 民族通婚とミックス人口
第二章 若者が経験する民族的環境
第一節 コミュニティ
第二節 文化
第三章 パートジャパニーズのライフヒストリー
第一節 幼少期
第二節 中高校期
第三節 成人後
第四章 エスニシティをめぐる名乗りと名指し
第一節 名乗りと名指しの根拠
第二節 ミックスと民族的境界
第五章 社会的アイデンティティの混交
第一節 名乗りと名指しの重層性
第二節 混交する社会的アイデンティティ
結論
付録
引用文献
あとがき
索引
前書きなど
まえがき
学術的な資料として、ナイトクラブやホステスバーやゲイバーで酔っ払った経験についてのフィールドノートは、政府や公文書館による「公的記録」よりも、資料的価値の低い、軽いものだろうか。また、論理的な配置に合致しない「例外的」な資料は、排除されてしかるべきものなのだろうか。
本書の目的は、学術的研究における資料と配置のスタイルに関して、その限界と可能性を提示することである。人間の個々の経験は、現実には論理的な一貫性を保持しているわけでなく、むろん、公的に記録されるものばかりでもない。そういった論理矛盾を孕む個々の経験を切り捨てない、言い換えれば、わたしがフィールドワークで出会った個々人の矛盾に満ちた生きられた経験を、特定の学術スタイルに沿って排除するのではなく、むしろ光をあてるような方法はいかにして可能なのだろうか。本書では具体的に、ハワイの若い世代のジャパニーズ(Japanese)やパートジャパニーズ(part Japanese)を対象として、若者たちの生きられた経験に接近し、ハワイの多民族的状況を民族誌的に描き出すことを通じて、学術的な資料とその配置の限界と新たな可能性を模索してみたい。
本研究が調査地としたハワイは、アメリカ合衆国のなかでも、ある特徴により「例外」として認識され語られることが多い。二○○○年度のアメリカ合衆国の国勢調査(U.S. Census)によると、ハワイ州のいわゆる「混血」人口は、州全人口の二一・四%を占めており、合衆国全体の「混血」人口が二・四%にすぎないことに比較して大きな特徴となっている。また、ハワイ州の保健局が独自に行う調査によると、ハワイのミックス(mix, mixed)の人口は約三七%にまで達しており、この数字は州全人口の実に三分の一以上がミックスの人々によって占められている状況を示すものである。
こうしたハワイの「例外的」な特徴に関する研究は、シカゴ大学のR・パークが人種民族関係の「フロンティア」としてのハワイを「発見」した一九二○年代にまでさかのぼることができる。以降、ハワイで暮らすミックスの人々は、民族関係の理想郷を求めるアメリカ本土からの白人研究者のまなざしにより、時代に応じて、ときには同化の最良の指標として、またときには多文化主義の体現者として、アメリカ本土のイデオロギーの変遷に合わせつつ、民族関係の「パラダイス」を象徴する存在として対象化され恣意的に語られ続けてきた。
本書は、誤解を恐れずにいえば、わたしがその「パラダイス」で暮らすジャパニーズやパートジャパニーズの若者たちと一緒になって徹底的に「遊ぶ」ことを通じて垣間見た、ハワイの多民族社会についての「資料記録」である。むろん本研究も必然的に、パークの研究以降くり返されてきたように、今現在の社会や学界で主流とされる理論的枠組みやイデオロギーを利用しながら対象を捉え語ろうとする営みでしかない。ただし、本書が試みるのは、近年の構築主義の枠組みに対象を無理に押し込めること、すなわち民族の「虚構性」を暴き出す主体として理想化されるミックスのパートジャパニーズの姿を描き出すことでもなければ、民族関係の「パラダイス」としてのハワイを再生産することでもない。ハワイで現実に生活する個々人にとって、学術的には定式化された感のある「民族は社会的に創られた構築物にすぎない」という議論は、必ずしも説得力をもつものではない。むしろ本書では、サーフィン、ナイトクラブ、ゲイバー、クリスマスパーティなどの日常的な場面で、若者たちが民族を所与のものとして認識し、民族的境界を再生産し続ける様子を描き出すことを通じて、ミックスの人々を民族の「虚構性」を暴き出すいわば特異かつ絶対的な「他者」として語ることの限界を明らかにする。
また、こうした作業は同時に、本書のタイトルにある「エスニシティ」ということばとは裏腹に、民族的な境界のみを意図的に抽出して分析すること自体の限界を意識させるものでもあった。「自己」と「他者」の境界は、現実には、エスニックな水準でのみ線引きされるわけではなく、社会階層、ジェンダー、セクシュアリティ、出身地などさまざまな要素が交錯するなかで意識される。つまり、特定の文脈で対峙するエスニックな「他者」は、一方では同時に、ジェンダーや社会階層あるいはセクシュアリティなどの属性において何らかの共通性をもった「自己」でもありうるということである。本書が光を当てるのは、こうした二項対立的な図式では処理しきれない、いわばためらいがちな「割り切れない線引き」の実践である。そして、この割り切れない境界によって生み出される「不完全な他者」は、本書の民族誌で提示する資料とその配置によってこそ描き出すことが可能になるものであったといえる。
最後に、本書は皮肉なことに、わたしがハワイを研究対象として意図的に設定した時点で、「不完全な他者」を「他者」として線引きし語ってしまうという矛盾を多少とも抱えている。読者の方々には、本書の民族誌的な試みを通じて、そこで描かれる「不完全な他者」と自己の境界を改めて問いなおす機会をお持ちいただければ幸いである。
上記内容は本書刊行時のものです。