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エジプト近現代史
ムハンマド・アリ朝成立から現在までの200年
- 出版社在庫情報
- 品切れ・重版未定
- 初版年月日
- 2006年1月
- 書店発売日
- 2006年1月7日
- 登録日
- 2010年2月18日
- 最終更新日
- 2012年3月28日
紹介
湾岸戦争,中東和平問題,国際テロ対策と様々な局面で中東諸国間また中東・欧米間を仲介する「中東の大国」エジプト。国家近代化と民族自決を図った「帝国への挑戦」から現代までの歴史を,ムハンマド・アリとその後継者たちの歩みを軸にたどる。
目次
はじめに
1 混迷と停滞 ◇ 一六世紀から一八世紀までのエジプト
2 近代への覚醒 ◇ ムハンマド・アリ朝の成立
3 帝国への道 ◇ 強兵策と領土拡大
4 挫折 ◇ 超大国・英国の壁
5 行財政改革 ◇ 近代的中央集権国家の誕生
6 近代化と殖産興業 ◇ 経済的自立の模索
7 ムハンマド・アリの時代 ◇ その光と翳(かげ)
8 反動と転機 ◇ アッバースとサイード
9 脱亜入欧 ◇ イスマイルの挑戦
10 転落 ◇ 植民地化への道
11 最初の革命 ◇ そしてその挫折
12 第二の革命 ◇ 独立回復への長い道
13 落日に向かう王朝 ◇ ファルークの時代
14 エジプト革命 ◇ 王朝の終焉
15 スエズ動乱 ◇ 帝国への挑戦
16 エピローグ ◇ スエズ以降
あとがき
関連年表/主要参考文献・資料/掲載写真・図版出所
索引
前書きなど
はじめに
今日、エジプトが中東・アラブ世界で中核的、主導的な役割を果たしている「中東の大国」であることに異議をとなえる向きは少ないであろう。ナセル(ガマール・アブドゥンナースィル、一九一八~七〇年)時代の「アラブの盟主」という言葉こそ色褪せたが、依然としてエジプトはさきの湾岸危機・戦争、中東和平問題、そして国際テロ対策と様々な局面で、中東・アラブ諸国間を、あるいは中東・アラブ諸国と欧米諸国との間を仲介する重要な役割を担い続けている。だが、エジプトは人口でこそアラブ諸国全体の四分の一を占めるものの(七〇五〇万人、二〇〇四年一月時点)、軍事的、経済的には必ずしも「大国」ではない。軍事力では湾岸戦争以前のイラクには及ばず、経済力では富裕なペルシャ湾岸産油国にはるかに及ばないばかりか、一人当たりのGDP(国内総生産)ではレバノンやヨルダンといった非産油国にも後塵を拝している。
それでは、エジプトはなぜ「中東の大国」であり続けられるのだろうか。その要因としては、中東・アラブ諸国で最も長い歴史を持つ近代的教育制度が生み出した豊富な人材や思想・文化・情報などの発信力、同じく長い歴史を持つ中央集権的行政機構と優秀な高級官僚の存在、そして豊かな農業資源に裏付けられた産業の幅の厚さなどがあげられる。これらは、フランスが冷戦後、唯一の超大国である米国に対抗しうる政治・外交力を持ち得ている要因とも共通している。こうしたエジプトのいわば「懐の深さ」をもたらした諸要因は、実はそのほとんどが一九世紀に行われた一連の改革に大本があり、そしてその改革は一八〇一年にナポレオンのエジプト占領に対抗すべくオスマン帝国が派遣した遠征軍の一下級士官としてエジプトの地を踏み、ナセルが倒すまで続く王朝を築いたひとりのアルバニア人に端を発する。その人物こそがムハンマド・アリ(一七七〇頃~一八四九年)である。
ムハンマド・アリは、ほとんど徒手空拳の状態から権謀術数の限りを尽くしてエジプトの支配者の地位にのぼり、明治維新に相当する諸改革を一代で成し遂げ、混沌とした無政府状態にあった中世のエジプトを近代的な常備軍と行政機構を持つ中央集権国家につくりかえた。また、長繊維綿花の栽培導入など今日に至るまでエジプトがその恩恵を被っている諸産業を育成した。ヨーロッパ列強の介入によってムハンマド・アリの国家主導の近代化政策が挫折を余儀なくされたあとは、息子のムハンマド・サイード(一八二二~六三年)や孫のイスマイル(一八三〇~九五年)などが今度は開放経済体制のもとで近代化政策を引き継ぐ。しかし、この後継者たちの試みも財政破綻によって挫折し、結局、一八八二年からエジプトは英国の実質的な植民地と化すことになる。
ムハンマド・アリとその後継者たちの近代化政策は、「興隆するヨーロッパ文明の脅威に対抗して、非欧米世界が軍事・産業・社会の近代化を図り、自立的な国家の建設を目指した最も初期の取り組み」(カイロ・アメリカン大学、マイケル・レイマー教授)であり、あとに続く日本の明治維新や清の洋務運動などを先取りする画期的な試みでもあった。エジプト人にとってはいわば「外国人の支配者」であるムハンマド・アリ一族による「上からの改革」が挫折したあともその近代化政策によって点火された民族のエネルギーは消えることはなかった。むしろ、それは英国の植民地支配に対する抵抗運動として激しく燃え上がり、一九二二年の英国保護領からの独立、一九五二年のエジプト革命、さらには一九五六年のスエズ動乱を経て真の民族自立を達成することになる。
こうしたいわば「下からの改革」を模索するなかで、エジプトでは、1ヨーロッパ興隆のエネルギー源を「ナショナリズム」にあるとみて脱宗教的な国民国家の建設を目指すものと、2イスラムの再生に活路を見出そうとするものというふたつの大きな思想潮流が生まれた。前者は、エジプトという既存国家の枠組みのなかで民族自立を図ろうとする「一国民族主義」から、のちにアラブ世界の統一を目指す「アラブ民族主義」に主役が移り、ナセルの主導のもと一九五〇年代から一九六〇年代前半にかけて最大の高揚期を迎えることになる。後者は、ムハンマド・アブドゥフ(一八四九~一九〇五年)とムハンマド・ラシード・リダー(一八六五~一九三五年)という近代イスラム世界が生んだ最も偉大な思想家たちがエジプトを拠点に提唱し、一九二八年に「現代イスラム史上、最大の復興運動」と言われるムスリム同胞団を生み、そして現在、世界を揺り動かしているイスラム主義に受け継がれている。近年のイスラム主義の高まりは、ナショナリズムを標榜した世俗主義的な政権の諸政策の行き詰まりとともに生まれてきたものである。
「歴史は繰り返す」とはよく言われるが、ムハンマド・アリ朝期のエジプトで起こった様々な事件は、現在の世界の動きとも多くの共通点を持っている。冷戦の終結とともに欧米のキリスト教・ユダヤ教世界ではそれまでの共産主義に代わってイスラム教、とりわけイスラム主義を脅威と見なす傾向が強まっている。他方、イスラム世界ではグローバリゼイションの名のもとに逆に米国を中心とする欧米文明に飲み込まれるのではないかとの警戒感が強く、これがイスラム回帰の大きな原動力ともなっている。同様に、一八八〇年代にエジプトでナショナリズムを掲げたオラービー革命が、エジプト統治下のスーダンでイスラム復興を掲げたマフディー運動が盛り上がった際、ヨーロッパ世界ではイスラムの脅威が声高に議論され、エジプトなどイスラム世界ではヨーロッパ列強が「非欧米世界を文明化する」という「白人の重荷」(ラドヤード・キプリング)の美名のもとに植民地化を進めるなか、キリスト教による脅威が叫ばれた。まさに、「文明の衝突」である。また、英国がオラービー革命に対し軍事介入する際に使ったロジックは「テロとの戦い」であり、このとき英国が他の列強の支持を得られず、単独での武力行使に踏み切った経緯は、二〇〇三年三月に米英両国が国連決議を待たずにイラク攻撃を行った状況とも類似している。そして、スーダンでおよそ一六年間、独自のイスラム国家を築いたマフディー運動は、一九九〇年代半ばにアフガニスタンで生まれたタリバン政権と共通するものを持っている。
さらに、現在、中東諸国ではオイルショック以降の医療水準の向上などに伴う人口急増により若年層の失業問題が深刻化し、これが急進的なイスラム主義勢力の伸張を招く大きな要因となっているが、ムスリム同胞団を生んだ一九二〇年代後半から一九三〇年代のエジプトもまさしく同じ問題に直面していた。同様に、軍事・経済面での対米依存と国民の反米感情との板挟みという穏健派アラブ諸国が共通して抱えている悩みについても、エジプトは相手が英国に代わっただけで同じく一九三〇年代には直面していた。すなわち、現在の中東諸国が抱えている諸問題は何も新しいものではなく、少なくともエジプトの場合には七〇年以上も前に経験済みのものなのである。言い換えれば、現在の中東を中心とする世界の動きを解く鍵(控えめに言ってもその多く)は、一九世紀から二〇世紀前半にかけてのエジプトにあるといっても言い過ぎではない。
その歩みは時々の覇権大国からの重圧に抗して国家近代化と民族自立を図ったいわば「帝国への挑戦」の歴史であり、近代国家建設の模索に始まり、富国強兵・殖産興業、対外拡張戦争とその挫折、戦後復興とバブル崩壊、長期不況と社会の閉塞感など、明治から現在に至る日本の歴史とも多くの共通点を持っている。しかも、それはナポレオンに始まり、ネルソン、レセップス、ナポレオン三世、ディズレーリ、グラッドストン、アフガーニー、マフディー、ゴードン、チャーチル、キッチナー、ロレンス(アラビアのロレンス)、アレンビー、ロンメル、ナセル、アイゼンハワー、イーデン、サダトなどが交錯するまさに「世界史の檜舞台」でもある。本稿では、ムハンマド・アリとその後継者たちの歩みを軸にエジプトの近現代史を辿ることで、「中東の大国」、エジプトがいかにして築かれてきたのか、そして現在の中東・アラブ世界の潮流の原点がどこにあるのかを可能な限り浮き彫りにしていきたい。
上記内容は本書刊行時のものです。