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辛基秀と朝鮮通信使の時代 上野 敏彦(著) - 明石書店
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辛基秀と朝鮮通信使の時代 (シンギストチョウセンツウシンシノジダイ) 韓流の原点を求めて

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発行:明石書店
四六判
346ページ
上製
定価 2,500円+税
ISBN
978-4-7503-2167-7   COPY
ISBN 13
9784750321677   COPY
ISBN 10h
4-7503-2167-2   COPY
ISBN 10
4750321672   COPY
出版者記号
7503   COPY
Cコード
C0095  
0:一般 0:単行本 95:日本文学、評論、随筆、その他
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2005年9月
書店発売日
登録日
2010年2月18日
最終更新日
2015年8月22日
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紹介

朝鮮通信使の史料収集家・研究者のみならず,ダム建設現場や炭鉱町などで植民地支配に抵抗した朝鮮人労働者への取材を続けた辛基秀。歴史や映画等を通じて朝鮮半島との橋渡し役を担おうとした彼の生涯を,夫人や関係者への徹底した取材を基に描く。

目次

序にかえて
第1章 映像にかける志
 1、民衆の温かい眼差し
 2、歴史教育のゆがみただす
 3、燎原の炎、広がる上映会
 4、江戸の国際人、雨森芳洲
 5、教科書へのインパクト
 6、後世へ究極の史料集
第2章 通信使の足跡たどる旅
 1、気骨の僧侶(牛窓)
 2、時代の教養(鞆の浦)
 3、いやしの御馳走一番(下蒲刈)
 4、にんじゃ隊が活躍(上関)
 5、乃木将軍もルーツは朝鮮(下関)
 6、国境の島でアリラン祭り(対馬)
 7、琵琶湖と朝鮮人街道(滋賀)
 8、船橋と鮎ずし(美濃路)
 9、唐人踊り(三重)
 10、門下生の思い(清水)
第3章 架橋の人
 1、朝鮮人をかばった美術商
 2、竹林に天皇の墓
 3、民族を取り戻した日
 4、青菜に塩の最強労組
 5、未来を見通して行動
 6、コスモポリタンの一家
第4章 人間的連帯を目指して
 1、高架下に文化の殿堂
 2、味覚は国境を越えて
 3、今村太平に学ぶ
 4、内鮮一体のまやかし
 5、大島渚との交友
 6、一条の光芒
 7、在日を生きる自信
第5章 秀吉の侵略と降倭
 1、京都仏教会が自己批判
 2、儒学伝えた捕虜の姜ハン
 3、沙也可と連行者の末えい
 4、故郷忘じがたく候
 5、祖国への道のり
 6、KCIAの秘密工作
 7、コリア系日本人として生きる
第6章 見果てぬ夢
 1、出発点は白丁問題
 2、眠り猫と審美眼
 3、広がる通信使研究
 4、韓国から留学急増
 5、蹉跌とケンチャナヨ精神
 6、遺志継いだ作品がヒット
 7、幻の名画『アリラン』
あとがき  先輩ジャーナリスト、故風間喜樹さんのこと
江戸時代の朝鮮通信使一覧
朝鮮通信使縁地連絡協議会 自治体・団体名簿
参考・引用文献

前書きなど

序にかえて
 前夜来の激しい雨も収まり、台風一過のように晴れ上がった二〇〇二(平成十四)年の十月七日昼――。
 大阪市都島区の西都島福祉会館で行われた朝鮮通信使研究家、辛基秀(シンギス)の葬儀には、辛を慕う多くの学者・研究者や市民運動家、酒飲み仲間たちが集まっていた。
 近くを流れる淀川にはかつて、朝鮮通信使の一行を乗せた豪華船が江戸へ向かうため京都の淀まで航行し、百五十隻もの船団を見送るため三十万人もの浪速っ子たちが楽隊の演奏に合わせて陽気に騒いだ時代もあったという。
 豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」(壬辰(イムジン)・丁酉倭乱(チョンユウェラン))による朝鮮侵略を反省する形で徳川家康が誠実に戦後処理を進めた結果、江戸時代の二百六十年間に朝鮮から十二回来日した友好の使節が朝鮮通信使である。
 政治家、軍人ばかりでなく、学者や医師、画家、書道家、音楽家、料理人など総勢約五百人から成る一行は、日本に再侵略の意思はないか情報収集に努めるとともに、九州から江戸へ向かう各地で庶民と交流して日本文化に大きな花を咲かせた。その様子は葛飾北斎の『東海道五十三次』をはじめ多くの絵画に描かれている。
 辛基秀はその埋もれた史実に長年光を当てて映画『江戸時代の朝鮮通信使』などを製作し、江戸時代は「鎖国」で諸外国との交流はなかったと記述してきた学校の教科書を書き換えさせる実績を残してきた。
 そんな辛は食道がんの手術を受け大阪市立医療センターで闘病生活を続けてきたが、前々日の五日朝、七十一年の生涯を閉じた。手術からちょうど一年の月日がたっていた。
 辛基秀が全国各地の寺社や旧家を訪ねては収集してきた朝鮮通信使と江戸の庶民の交流ぶりを描く絵画や絵巻物、屏風などのコレクション百四十点は、大阪城前に新しくできた大阪歴史博物館の落としの展覧会に展示されたが、辛本人がこのコーナーを直接目にすることはできなかった。
 また、入院中のこの年六月から七月にかけてサッカーのワールドカップ(W杯)の日韓共催が実現し、辛は「両国の若者がベールを取り払って交流を始めた。まるで現代の朝鮮通信使が再来したようだ」と病床でテレビを見ながら友好気運の高まりを喜んだ。
 ソウルを出発し、二ヵ月以上かけて栃木県日光市を目指す朝鮮通信使の日韓縦断リレーへの参加も念願だったが、日本側の玄関口である長崎県・対馬の厳原(いづはら)町でパレードが行われている、まさにその日に帰らぬ人となった。
 長女美沙と、次女理華に聞き書きしてもらう形で「朝鮮通信使――『誠信の道』を訪ねて」という長期連載を続け、その最終回を掲載した『歴史街道』(PHP研究所)十一月号が、奇しくもこの告別式の日に発売された。
 友人代表のあいさつに立った花園大学客員教授の姜在彦(カンジェオン)は「一部の学者の関心でしかなかった朝鮮通信使を国民的関心のレベルにまで引き上げたのはひとえに彼の業績による。奥さんの徹底的なサポートと理解がなくてはなしえなかったと思う。二人のお嬢さんと以心伝心の共同作業をされて最後の仕事を見事にしめくくられた」とたたえた。
 葬儀では悲しみに耐える妻、姜鶴子(カンハッチャ)の脇で美沙が「通夜はやり残したことが多い父の思いの丈をぶつけるような土砂降りの天気でしたが、一夜明けすっきりした気持ちで旅立ったと思います」とあいさつすると、列席者の一人一人が青空を見上げ、「そろそろ一杯やりませんか」と誰に対しても気さくに声をかける酒仙の人柄をしのんでいた。
 最後に、理華の長男で高校一年の源が、辛がお気に入りの『琵琶湖周航の歌』を歌うと皆が唱和し、葬儀場一帯がこのメロディーと歌声に包まれる中、辛の棺(ひつぎ)は親族らの手によって送り出され、皆に永遠の別れを告げていったのである。

 私自身も、辛基秀の急逝に驚き、東京から大阪へ駆けつけ、棺を担がせてもらった一人である。最初の出会いは一九八〇年の春、共同通信大阪社会部で堺支局を担当していた、新聞記者になって二年目という時代だった。
 朝鮮半島に生まれ、生後まもなく京都へ移った在日コリアン二世の辛は、飲食店を経営しながら朝鮮通信使の史料をコツコツと収集する研究者というイメージだった。誰に対しても気さくでいばらず、いつも夢を失わない性格に魅かれ、長いお付き合いをお願いしてきた。ダンディーに生きる昭和一ケタ世代として敬愛できる気持ちもあったのである。
 当時は朝鮮人強制連行や指紋押捺拒否、就職差別、在日三世の法的地位問題など、日韓、日朝がらみでは重いテーマの取材が多かったが、博学で見識のある辛にアドバイスを求めることが少なくなかった。
 このころは在日コリアンが活動する場合、韓国支持の「在日本大韓民国居留民団(「在日本大韓民国民団」に改称)」(民団)と北朝鮮支持の「在日本朝鮮人総連合会」(朝鮮総連)のどちらに賛意を示すかという政治的なイデオロギーが始終付きまとったが、辛にはこういう発想を大きく超える世界があった。
 若いころ、朝鮮総連の活動家として映画づくりの仕事もしていた彼はイデオロギーの不毛さを肌身にしみて知っていたからだ。
 「民団、総連の双方から独立した自由な寄り合いの場を、そして日本人との間に刻まれた溝を埋め、人間的な連帯を築いていきたい」と、一九八四年五月に天王寺に近いJR大阪環状線のガード下に私費を投じて「青丘文化ホール」を開設した。
 歴史や文学、映画、料理、音楽などを通じて日本と朝鮮半島の間の友好の橋渡し役を担おうとして作ったこの施設には、まだカルチャーセンターがなかった時代、多くの市民が足を運び、朝鮮の映画を鑑賞したり、ハングルを学んだりした。
 日本語を学ぶ機会のなかった在日のオモニ(母親)たちを対象にした識字学級の場に使われたこともある。頭上をゴトン、ゴトン……という電車が通過するときの心地よい響き。そうした人の輪の中にはいつも一杯機嫌で陽気な辛の笑顔があった。
 彼は朝鮮通信使の史料発掘のため全国を旅する一方で、北海道のダム建設現場や筑豊の炭鉱町などで戦前の日本の植民地支配に抵抗した朝鮮人労働者のインタビュー取材を続け、一九八六年に『解放の日まで――在日朝鮮人の足跡』という三時間二十分のドキュメンタリー映画を六年がかりで完成させた。
 「朝鮮人というと、虐げられた民という、みじめな描き方をされる場合が少なくないが、戦前の日本のファシズムと闘い、日本人の平和運動と共闘した歴史もある。社会の曲がり角にドキュメンタリーの果たした役割は活字より大きい。映像の力を借りてゆがんだ日本と朝鮮の関係を照らし出し、日本人の誤った歴史観をただしていきたい」
 辛の言葉に、京都大学名誉教授の上田正昭は「こうした日朝間の陰を認識する作業はとても貴重である。しかし、それだけでは不幸はなくならない。朝鮮通信使の往来という光も同時に見出そうとする辛さんの複眼的思考には常に学ばされた」と講演などで繰り返し強調してきた。
 辛基秀の思想と行動の源泉にあるのは、江戸時代の思想家、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の善隣友好の精神だ。一七〇〇年代初めに朝鮮通信使の一行に対馬から二回同行した芳洲は「朝鮮との外交に当たっては、互いに欺かず争わず真心をもってすべし」と説き続けた平和外交の先駆者である。
 今の日本で消費される漬物の第一位はキムチで、焼肉に限らず、チゲ(鍋物)、チヂミ(韓国風お好み焼き)などが食生活に自然に入ってきている。
 テレビドラマ『冬のソナタ』や映画『シュリ』のヒット、音楽K-popの流行など空前の「韓流ブーム」をみても、政治の壁を若者や熟年女性たちの胃袋や五感の感性がのみ込んだようで、世代的にひきずってきた辛の言うところのよどんだ価値観も吹っ飛んだ感じだ。
 隣国の友人たちはどんな生活をしているのかな、という素朴な興味と畏敬の念。そうした次世代へとつなぐ日韓友好の流れを決定的に加速させたのがサッカーのW杯だったと思う。
 近代以降の日本と朝鮮半島の関係は、一九一〇年の韓国併合に始まる日本の植民地支配の三十五年間の歴史が余りにも重く、日韓双方の学者・研究者、ジャーナリズムは「過去の負の遺産」にばかり目が向きがちだった。
 辛基秀はその検証作業をすると同時に、未来志向的な関係を構築するために朝鮮通信使の記録をあらゆる形で残すことにより、不幸な過去を克服しようとしてきたのである。
 雨森芳洲の善隣友好の精神と生き方を現代に受け継ごうとした男、辛基秀の七十一年の生涯をたどる旅を始めていきたい。(敬称略、以下本文、写真説明も)

著者プロフィール

上野 敏彦  (ウエノ トシヒコ)  (

ジャーナリスト。1955年、神奈川県に生まれ、横浜国立大学経済学部を卒業。
1979年に共同通信社へ入り、大阪社会部、高知、神戸支局、東京社会部、仙台編集部次長、東京社会部次長を経てニュースセンター整理部委員。
民俗学者・宮本常一の影響を受けて内外の各地を取材でよく歩く。日本とアジアの近現代史、農林水産、医療、環境公害問題などが取材テーマで、調査報道やさまざまな企画を手がける。書評やコラムも執筆。
趣味は、山釣り、読書、赤提灯巡り。
<著書>
『塩釜すし哲物語――日本一のマグロを握る』(筑摩書房、1999年)
『木村英造――淡水魚にかける夢』(平凡社、2003年)
<編著>
『日本コリア新時代――またがる人々の物語』(明石書店、2003年)
<共著>
『事例 地方自治――第8巻教育』(ほるぷ出版、1983年)
『決断の残像――51年目の自立のために』(共同通信社、1996年)
『中国動向』2003~05年版(共同通信社)など

上記内容は本書刊行時のものです。