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被差別部落の風景 西田 英二(著) - 明石書店
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被差別部落の風景 現代日本の人権問題と向き合う

発行:明石書店
四六判
264ページ
上製
定価 2,500円+税
ISBN
978-4-7503-1909-4
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2004年4月
書店発売日
登録日
2011年3月18日
最終更新日
2011年3月18日
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紹介

戸数わずか18戸の“むら”被差別部落に生まれ育った著者が,結婚,就職,教育など様々な局面で厳しい差別と正面から向き合い,人間の尊厳を守り,差別を許さぬという渾身の思いで書き綴った珠玉のルポ。虚飾の繁栄の裏に隠れた日本社会の実相が見えてくる。

目次

はじめに

第1章 一字、また一字
 上ノ島の識字学級
 一行の「もやもや書き」からはじまって
 五十二歳で保母試験に合格した「おっちゃん」
 緑の草原を馬で駆けることができたなら
第2章 兵庫、ぶらぶら
 丹波の玉味噌
 サイボシの味
 南但馬の焼き菜
 伝承を編む竹細工職人
 きどふの味噌汁
第3章 結婚、けれど
 追憶の日々を越えるとき
 差別のなかで暮らした十五年
 高松事件のふるさとを訪ねて
第4章 生きる、ということ
 夜明けのケンパ
 少数部落に生きて
 職場を変えた“ふれあい作業”の取り組み
 ある闘い
 吉和事件のM助教諭はいま
 いばらの道を踏みゆきて
第5章 そして、ふるさとへ
 聞き書き 丹波の被差別部落 氷上編
 聞き書き 丹波の被差別部落 多紀編

おわりに

前書きなど

 「結局のところ、この十数年はなんだったのだろうか」 そんなことを思うことが、最近、多い。 学生時代に部落解放運動というものを知り、その新鮮な空気のなかに身をおいた。一九七〇年代のはじめであり、全国的にも運動の高揚期であった。卒業後、部落問題の書籍を中心にだしている解放出版社に入社したが、三年で退社。フリーの道を選んだ。フリーのライターとして、おもに部落問題の記事を書いてきた。文章を紡ぐとき、いつも心にあったのは、生まれ育ったふるさとの風景であり、父、母の姿だった。 いまは神戸に暮らしているが、わたしのふるさとは、兵庫県の市島町という小さな田舎町だ。その小さな田舎町の、戸数わずか十八戸の貧しいむらに生まれた。 いつのころからか、異性にほのかな興味を抱くようになったころ、父の学歴のないこと、母の学歴のないことが、無性に恥ずかしく思うようになっていった。父や母のことだけではない。むらの姿も気にかかるようになった。 「なんでこのむらには学校の先生がおらんのやろ」 「なんでこのむらには会社勤めの人がおらんのやろ」 わがむらにたいする疑問は、だんだんと大きくなっていった。 高校へは列車で通学した。乗っている時間はわずか二十分ほどだが、当時、福知山線は一時間に一本あるかないかといった列車の本数だったから、朝の六時半には家をでた。 早朝の列車は、うぶな高校生の想像を掻きたてる場だった。あの人はどんな仕事をしているんだろうか、どんな家族構成なんだろうか、どんな性格なんだろうか。乗り合わせた人の顔や風体を見ながら、勝手に人生を作りあげていくのが好きだった。 そんな車内に、いつも乗り合わせたのが舞鶴方面から来ている行商のおばさんたちだった。日本海の海産物を籠いっぱいに詰めこんで、集落から集落を、これから一日、荷が空っぽになるまで歩きまわるのだろう。重い籠を背負いながら降りていくおばさんの姿を、母と重ねて見つめていたころがある。 ある日の、いつもの通学列車のなかでのことだった。古文の課題だったのだろう。生徒の多くが、声をあげて百人一首の暗記をしていた。わたしの隣の生徒も必死に覚えようとしていたが、どうも下の句がでてこないらしい。そのときだった。前に座っていた行商のおばさんが、見事、その下の句を言って見せたのである。 わたしはショックだった。おそらく母よりも年上であろうそのおばさんが、百人一首を知っていることにショックだった。そして母は、絶対に百人一首など知らないことを、わたしは知っていた。部落問題という問題があることを知ったのは、そんなころだった。父、母のように、満足に勉強する境遇になかった人たちのいることを知った。 中学時代、高校時代、わたしはシナリオライターになることを夢見ていた。その夢と、父、母の学歴がないこととは無縁ではなかった。字の読める人であれ、字の読めない人であれ、教養というものがある人であれ、教養というものがない人であれ、映画は多くの人たちを感動させることができる。そんな仕事にたずさわりたいと、真剣に考えていた。どんなちっぽけな材料でも、何かしらの物語が組み立てられていた幼いころの力は、しかし所詮、幼いころの力でしかなかったことが、年齢を重ねるにつれ、わたしにもわかりはじめてきた。 大学をでたころには、さすがにシナリオライターの道が錯覚であったことを悟り、さて、何をして生きていこうかと、さほど深刻になることもなく、なりゆきでたどりついたのが解放出版社だった。入社試験などない出版社だったから、わたしでも採用された。 編集の仕事は嫌いではなかった。ただ、赤いボールペンで他人の文章に朱をいれているうち、ここでも錯覚をすることになってしまった。 「自分のほうが、ええ文章書けるんちゃうやろか」 こうして出版社を飛びだした。その錯覚が赤貧のはじまりだったが、充実していた。 文章を書くとき、一つだけ気をつけていることがある。できるかぎり、わかりやすい内容にしようという点である。ふるさとの父のこと、母のことが、焼きついていたからだ。 そのわたしが、一九九二年十一月、ピナトゥボ大噴火に苦しむフィリピン先住民族アエタを取材して以来、本書に納めた数本をのぞき、人権問題の記事は書かなくなった。理由はと聞かれれば、生活のためだった。東京の雑誌社や出版社の関西駐在員といったような形で、それこそ内容のない文章を書き殴っていった。心を割り切るためにペンネームをつかった。内容のない分、量産できた。ある程度、生活にも余裕ができた。けれども、書いていて空しかった。 取材の時間待ちのようなときには、書店の人権問題のコーナーで立ち読みをした。若い書き手の書籍に手をやりながら、浦島太郎である自分がつらかった。気がつけば五十の歳を数える年齢になってしまった。この間、父が他界した。 「三田の病院なら設備も整うとるさかい、あんた、早う行きいな。なんぼヘルペスや言うたかて、手遅れになったらえらいことや」 むらの行事などで、なかなか時間の取れなかった父が、ようやく、その「三田の病院」に、みずから車を運転してでかけていったのが、二〇〇一年の正月明けだった。だが、検査直後に意識不明となり、たちまちのうちに気管切開し人工呼吸器を装着した姿になってしまった。 「先生、なんで、こんなことになりますんや」 母は、助からぬことを半分認めつつ、それでも必死に医者に食いさがった。二か月半後、意識のもどらぬまま父は亡くなった。母は医療過誤であったと、いまも転院を勧めたことを悔やみ、思いだしては泣いている。 医大を卒業した白衣のエリートと、そのエリートにすがる学歴のない母との構図が、わたしの体内のなかで、なおも、くすぶりつづけている。父の死は、わたしにさまざまなことを考えさせた。前よりも父のこと、母のことを見つめるようになった。わたしはもう一度、心のなかの「ふるさと」に、帰ろうと思った。その一歩を踏みだすために、いままで書いてきた人権問題の記事のいくつかを、ここで整理しておきたかった。

著者プロフィール

西田 英二  (ニシダ エイジ)  (

1954年、兵庫県生まれ。多数のルポルタージュ作品のほか、高齢者からの聞き取り調査、住民意識調査、市民啓発冊子の作成、啓発映画の監修など、活動内容は幅広い。
現在、京都外国語大学において、「同和教育と人権」「多文化理解と人権」の講義を担当している。神戸市在住。

上記内容は本書刊行時のものです。