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同性婚
ゲイの権利をめぐるアメリカ現代史
原書: WHY MARRIAGE?: The History Shaping Today’s Debate Over Gay Equality
- 出版社在庫情報
- 品切れ・重版未定
- 初版年月日
- 2006年6月
- 書店発売日
- 2006年6月6日
- 登録日
- 2010年2月18日
- 最終更新日
- 2012年3月23日
書評掲載情報
2015-12-13 |
朝日新聞
評者: 砂川秀樹(文化人類学者) |
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紹介
ゲイに対する抑圧の歴史を振り返りつつ,同性婚をめぐって二分化されたアメリカの社会と文化の現状を,突発的な事件としてではなく,アメリカの社会・文化変動の歴史のなかで起こるべくして起こった当然の事象と捉え,今後の展望を示す。
目次
日本語版への序文
訳語と訳注について
序 なぜ結婚が問題となったのか?
第一章 ゲイ差別の遺産
第二章 ゲイの権利と市民権(シビル・ライツ)
戦後のゲイ文化と政治/一九七〇年代の新たな幕開け/エイズ・萎縮・再起(一九八〇~一九九〇年代前半)/一九九〇年代に幕を開けた新しい世界
第三章 結婚の変遷
基本的市民権としての結婚相手を選ぶ自由/よりジェンダー中立的で平等主義的な結婚/国や私企業の優遇措置を割り当てる主要な結合体としての結婚/結婚のルールを強要する権力を失いつつある宗教的権威
第四章 なぜ結婚が目標となったのか?
結婚の権利を求めた初期のゲイ運動/ゲイ解放運動とレズビアン・フェミニズム、そして結婚/エイズの衝撃/レズビアン・ベビー・ブーム/シャロン・コワルスキー事件に見るレズビアンやゲイ男性の交際関係の脆弱さ/ドメスティック・パートナーシップに向けた運動/ゲイ・コミュニティ内での論争の再燃/ハワイ州からマサチューセッツ州へ
第五章 歴史としての現在
結婚が意味したもの/「婚姻防衛法」によって防衛されるのは何か?/公民権(シビル・ライツ)と隔離主義神学/過去からの教訓/歴史としての現在
原 注
謝 辞
訳者解説
訳者あとがき
索 引
前書きなど
訳者あとがき
本書は、George Chauncey, Why Marriage: The History Shaping Today's Debate Over Gay Euqality(Basic Books, 2004)の全訳に、同書のペーパーバック版(Basic Books, 2005)への序文をもとに著者が新たに書き下ろした「日本語版への序文」を加えたものである。
本書は、二〇〇四年一一月のアメリカ大統領選に際し、同性カップルが結婚の法的承認を求めるに至った経緯を第二次世界大戦以前にまでさかのぼって説き起こし、同性婚について一般有権者の理解と支持を得るために急遽(きゅうきょ)書き下ろされた。著者のチョーンシーは自ら同性愛者であることを公にし、前著『ゲイ・ニューヨーク』(Gay New York, Basic Books, 1994)でアメリカにおける同性愛者の隠された歴史を膨大な資料に基づいて描き、高い評価を得ているシカゴ大学の歴史学教授である。ごくふつうのアメリカ人読者を対象にしたという性格から、原著は極めて平易な文章で書かれている。そこで、訳出にあたっても原著の趣を伝えるべく極力直訳を避け、原意を損なわない程度に意訳したことをお断りしておきたい。
翻訳にあたっては「日本語版への序文」と第一~三章を村上隆則が、「序」と第四~五章及び「謝辞」を上杉富之がまず別個に訳し、相互に訳文を点検したうえで最終的に上杉が訳語や文章の統一などを行った。
本書は、著者が「謝辞」で述べているように短期間で書き上げられたこともあって、決して十全な証拠を挙げながら緻密な議論を展開するという類の本ではない。むしろ、同性婚論争の発端や起源の核心部分をごく簡単に紹介する書物と言ってよいだろう。しかし、簡潔であるがゆえに本書の主張はより明確になっている。本書を読んでいただければわかるように、チョーンシーはアメリカ現代史を専門とする歴史学者として、これまで隠蔽(いんぺい)されてきた同性愛者に関する数々の歴史的事実(著者は「抹消された歴史」と表現)を明らかにしつつ、われわれ日本人読者が(あるいは多くのアメリカ人読者も)まったく知らなかった(あるいは知らされていなかった)であろう「もうひとつの歴史」を、説得力をもって提示してくれている。
「もうひとつの歴史」とは、例えば、現在の同性婚要求の直接のきっかけがエイズ問題とレズビアン・べビー・ブームであったという事実である。あるいはまた、アメリカ黒人たちの公民権運動の最重要課題のひとつに結婚の自由の獲得があったこと、したがってアメリカ黒人の公民権運動と同性婚を求める市民権運動は、結婚の自由を求める運動という点では同根であるという事実である。実のところ、本書で訳し分けた「公民権」と「市民権」は英語ではともにcivil rightsであって、これこそがアメリカ黒人の公民権運動と同性婚を求める運動が根本的には同じであるということを示唆している。アメリカ現代史や黒人公民権運動の研究者、ないしゲイ/レズビアン・スタディーズやセクシュアリティ研究者などの一部の専門家の間ではこれらはすべて「常識」であって、驚くには当たらないのかも知れない。しかしもしそうであったとしても、同性婚論争に焦点をあてた本書を通して、今まで表舞台に出てくることのなかった事実を改めて確認することは無駄ではなかろう。その意味で本書は、すべての日本人読者にとって極めて刺激的なものになっていると確信する。
ところで、私(上杉)の専門分野はゲイ/レズビアン・スタディーズやセクシュアリティ研究ではなく社会人類学であり、特に親子や家族、親族などの社会関係に関心を持ってきた(ただし、共訳をお願いした村上隆則氏は文化人類学を専攻する新進気鋭のセクシュアリティ研究者である)。その私がなぜ同性婚論争を主題とする本書の翻訳を思い立ったのか、訝(いぶか)しく思われる向きもあろう。ここで、やや詳しくその経緯を記すことにより、同性婚論争を主題とする本書の訳書を刊行することの意義を私なりに明らかにしておきたい。
私が本書に出会ったのは、勤務先の成城大学でいただいた研究休暇を利用して、二〇〇四年九月~二〇〇五年二月末までの半年間、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の人類学科および女性学研究センターの客員研究員として在外研究を行っていたときであった。体外受精や代理母の利用などの先端的生殖医療が、現代社会や文化に及ぼす影響の調査研究を行うためであった(地球規模の大規模な人の移動[移民]に関する最新の理論・トランスナショナリズムについての研究を深めることも目的のひとつであった)。私は、提供精子や卵子、代理母の利用などの先端的生殖医療が親子・家族関係にどのような影響を及ぼすのかということに特に関心を持っていた。ロサンゼルスは世界でその種の医療の実用化・商業化がもっとも進んでいる所であったし、そうした不妊治療を受ける日本人患者の多くがロサンゼルスないしその周辺で治療を受けているということであった。それが、研究休暇の滞在先としてロサンゼルスを選んだ理由であった。
さて、UCLAで先端的生殖医療が親子や家族に及ぼす影響に関する研究を進めていたところ、私はある重要な事実に気づいた。アメリカでは一九八〇年代以降、多数のレズビアン・カップルが提供精子を用いた人工授精などによって子を持ち(本書では「レズビアン・ベビー・ブーム」と表現されている)、そうして生まれた子に対する親権や訪問権をめぐって頻繁に訴訟が起こされていたということである。また、こうした訴訟に関わる弁護士ないし法学者たちが新たな親子・家族概念や制度を提示し、各地の裁判所でそれらを容認する判決を勝ち取り、アメリカ社会に徐々に新しい親子・家族概念ないし制度を定着させつつあったという事実である。
そうした例として、本書でも触れられているが、同性カップルに対する二次親養子縁組の容認が挙げられる。アメリカでは、生みの親に対して継父ないし継母のことを二次親(second-parent)ということがあり、連れ子を継父母が養子縁組することを二次親養子縁組という。レズビアン・カップルたちはこの二次親養子縁組制度を流用し、提供精子などを用いて一方のパートナー(生みの母)が生んだ子をもう一方のパートナー(二次的な母)が養子に迎えるような、これまでには想定されていなかった養子縁組をも二次親養子縁組として認めさせようとしていた。そうした試みの結果、二〇〇〇年には、同性カップルに対して二次親養子縁組を認める州が全米の約半数(二六州)に達していた。同性カップルに対して二次親養子縁組が認められたということは、実は親子・家族関係を考えるうえで極めて画期的なことである。というのは、特定の(養子縁組された)子に対して本来ただひとりであるべき法的母ないし父が二人になり、しかも同時に存在することになるからである。言葉を換えて言うと、同性カップルに対して二次親養子縁組を認めるということは、子に対して一人の父と一人の母しか同時には認めないというこれまでの一元的な親子・家族制度からの決別を意味するのである。
一九八〇年代以降、レズビアン・カップルたちはまた(あるいはときとして男性同性カップルも)、本書では直接言及されていない革新的な親子・家族関係をも模索していた。例えば、限定的親(limited parent)という概念の創出である。レズビアン・カップルが子を作る(妊娠する)場合には、当然、何らかの形で精子を入手する必要がある。便宜的に男性と性交渉を持つという手段も取られたが、それよりも一般的であったのは、男友達(しばしばゲイ男性であった)から精子を提供してもらい、自らが、あるいは医師の手によって人工授精を行って妊娠・出産するという方法であった。その際、時として、精子を提供してくれる男友達と、男性側は子の親権を放棄しかつ子を扶養する義務を負わないが、生まれた子が父を知りたいと望んだり父の役割をする男性を必要とした場合には(例えば、子が男児で夏休みにキャンプや魚釣りに出かけるなど)、その役割を果たしても良いということなどが取り決められていた。こうした事前の「取決め」に基づき、当該男性にはしばしば子に対する訪問権など、父としての一定の権利(限定的な父の権利)が認められていたのだが、こうした父を「限定的父」(limited father)などとして概念化し、制度化することも試みられていた(代理母などの場合には、「限定的母」とみなしうるであろう)。
二次親養子縁組制度や限定的父の概念を流用・導入することよって、同性カップルはしばしば、これまた本書で触れられている、拡大家族(extended family)を形成している。人類学で言うところの拡大家族というのは、通常、一組の夫婦とその未婚の子どもからなる核家族の複合した(拡大した)家族を意味する。それゆえ、拡大家族は一組の(男女の)夫婦関係と親子関係を構成原理とすることが暗黙の前提となっている。一九八〇年代以前には、同性カップルが子どもを作ることはないと思われていたので、同性カップルについて拡大家族はもちろんのこと、家族が問題となることはほとんどなかった。しかし、一九八〇年代の「レズビアン・ベビー・ブーム」、あるいは一九九〇年代半ば以降の「ゲイビー・ブーム」(gayby boom:男性同性カップルの間のベビー・ブーム)以降、同性カップルは先端的な生殖医療技術を用いて子を作って家族を形成し、さらに、限定的父ないし母などを加えて拡大家族を形成するようになっている。場合によっては、レズビアン・カップルとゲイ(男性)・カップルが協力して子を作り(ゲイ・カップルがレズビアン・カップルの精子提供者となり、レズビアン・カップルがゲイ・カップルの代理母を務める)、生まれた子を両カップルのすべての親が「共同親」(coparent)となって育てることもある。
このような新たな親子・家族関係構築の試みが、アメリカでは一九八〇年代初頭から一部のレズビアンたちの間で開始され、今では明確な運動となりつつある。そしてその運動は、同性婚の獲得を目指した運動と同様に、カリフォルニアやバーモント州などの全米各地の裁判所で裁判闘争として繰り広げられてきたのである。にもかかわらず、日本ではレズビアン・べビー・ブームがセンセーショナルに報道されるばかりで、その核心にこうした社会・文化変革運動があったことはほとんど紹介されていない。
私がもっぱらUCLAのロー・スクール図書館に日参し、この種の運動をめぐる裁判事例を読み漁り始めた頃に出会ったのが本書であった。チョーンシーの議論を一読し、私が先端的生殖医療と親子・家族の問題を手掛かりとしてたどりついた同性カップルたちの新たな親子・家族関係構築の試み、言葉を換えて言うならば、同性カップルたちが進めていた社会・文化再構築の試みの集大成が、二〇〇四年秋のアメリカ大統領選における同性婚をめぐる戦いの核心にあると得心した次第である。
二〇〇四年一一月の大統領選と同時に各州で実施された同性婚禁止の是非をめぐる住民投票では、その多くが保守勢力が強い州での投票だったこともあり、同性婚反対派が圧倒的な勝利を得た(「日本語版への序文」参照)。しかし、同性愛者たちが開始したこの種の親子・家族、そして社会・文化再構築の試みは現在、本書では当初同性婚に反対したものとして描かれているクイア論者たちをも巻き込み、クイア理論(queer theory)ないしクイア研究(queer studies)の実践の一環として進められている。
同性婚、そしてまたそれに集約される親子や家族の再構築をめぐる問題は今やただ単にアメリカの同性愛者だけの問題ではなく、世界各国の同性愛者、そしてまた非同性愛者を含めたすべての人びとに関係する社会・文化変革運動の大きなうねりとなって世界中に波及している。二〇〇四年秋のアメリカ大統領選以前でも、オランダ(二〇〇〇年)やベルギー(二〇〇三年)、アメリカ・マサチューセッツ州(二〇〇四年)ではすでに同性婚が法的に認められていたし、選挙後はスペイン(二〇〇五年)やカナダ(二〇〇五年)、南アフリカ共和国(二〇〇五年)でも新たに認められた。また、アメリカ・カリフォルニア州やバーモント州などをはじめ、イギリスやフランス、ドイツ、ポルトガル、フィンランド、ノルウェー、ニュージーランド、そしてオーストラリアやイタリアの一部の州など、欧米を中心にしてではあるが、世界各地で結婚に準ずるさまざまな制度(シビル・ユニオンやドメスティック・パートナーシップ、シビル・パートナーシップ、連帯市民協約《PACS》など)がすでに法的に認められている。こうした同性婚そのもの、あるいはそれに準ずる制度の法制化を通して、世界各地で婚姻制度ばかりでなく、親子や家族など、私たちの社会や文化、そしてまた経済や政治などの根本的制度の再構築が進んでいるのである。
しかしながら、日本では、同性婚問題が、同性愛者という社会のほんの一部の者の問題に過ぎないと矮小化(わいしょうか)される傾向にある。「日本には同性愛者はあまりいないんでしょ。じゃあ、そういう問題は研究に値しない些細(ささい)なことね」(UCLAの客員研究員として自然科学分野で研究を行っていた、ある日本人年配女性研究者のことば)。こうした反応が、並み以上の知性と教養を持ちあわせているはずの日本人から発せられたのは残念であった。本書を読めばこうした認識が必ずしも正しくなく、むしろ誤りであることがわかるであろう。歴史的背景を踏まえつつ同性婚が要求されるに至った経緯を理解することは、結婚や親子、家族関係など、私たちの社会や文化の基盤を根底から再検討することに他ならないのである。
最後に一言申し添えておきたい。昨今、少子高齢化や少年犯罪の凶悪化・低年齢化などの社会状況を反映して規範的な家族(結婚・親子)や「伝統的な家族」への回帰が声高に叫ばれている。本書の翻訳刊行が、ややもすると「かたく」なる傾向にある日本の親子や家族、婚姻関係を、少しでも「やわらかく」するための一助になれば幸いである。
二〇〇六年四月 成城大学にて七度目の桜花を眺めつつ
上杉富之
上記内容は本書刊行時のものです。