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普通のひとの勇気

ただいまシャンテシネを皮切りに「白バラの祈り——ゾフィー・ショル、最期の日々」というドイツ映画がロードショー巡回中。配給会社から小社発行の『ゾフィー21歳』という本を復刊したらどうかと打診されたのが昨秋のことだった。この本が出版されたのは1982年のこと、事情があってすぐ品切れ、絶版になっていた。どうしたものか、考えているうちに訳者が急死。遺族に会いに行って出すことに決定してから大忙しの本作りだった。新たに版権交渉をしてわかかったことは、ドイツでは当然ながらそのままで版を重ねていた。 (さらに…)

人間の本質なのか

話は歴史を溯る。秀吉の朝鮮侵略戦争のおり、「高さ三尋の石垣を我も我もと攻め登り、おめき叫んで攻めければ、(中略)みな手を合わせて跪き、聞きも習わぬ唐言、まのうまのうということは、助けよとこそ聞こえけれ。それをも味方聞きつけず、斬りつけ打ち捨て踏み殺し、これを戦神の血祭りと、女男も犬猫も、みな切り捨てて切り首は、三万ほどとぞ見えにけり。」という戦闘場面を描いたのは、第一陣(小西軍)に属した松浦軍の家臣の吉野某の記録である。秀吉の果てしない征服欲がおこした無謀な侵略に翻弄されたのは朝鮮半島の民衆だけでなく、狩り出された日本の兵士たちも同様だ。まさに阿鼻叫喚そのものの生ける地獄である。
翻って今の話、日本の若者がイラクで人質にとられ命を落とした。日本の支配者の冷酷なことよ。
無謀な戦争を勝手に起こしたアメリカになんで日本は追随し、イラクを援助(これはしかたがないが)しなければならないのか。侵略して国土を破壊しながら、復興援助をするという、これはひとりよがりの侵略戦争である。
現今の戦争は武器弾薬はコンピューターで操作され、あたかもテレビ画面で戦争遊戯をするかのごとくである。秀吉の戦争のごとくには、目の前に残虐な風景が現出しない。やられるほうはたまったものでない。
古代から戦争を起こすのはたいていは権力者たちの果てしのない欲望からである。「大義」なんてものは、まやかしのごまかしに過ぎない。
そんな戦争にまきこまれる民衆こそいい迷惑である。まったく古代から現代まで、懲りずに愚かな戦争を繰り返している。

日台文化交流フォーラムのこと

日台文化交流フォーラムが11月9日に東京で開かれた。6月開催予定が例のSARSで延期になっていたものである。
このフォーラムでは台湾の作家たちとの交流がその課題であったが、漢族作家だけでなく、台湾原住民作家のふたりが招待されていることは特筆に価する。「台湾原住民が作家として日本で初めて主賓に坐って発言したという意義は重いと思う」(柳本通彦氏評)。
草風館では『台湾原住民文学選』全5巻をただいま刊行中、3巻まで出した。上のふたりは、第2巻のシャマン・ラポガン、第3巻のワリス・ノカンである。おかしなことだが、おふたりが会うのは今回日本で初めだということ、シャマンは蘭嶼島(タオ族)、ワリスは台中県の山中(タイヤル族)、いわば海の民と山の民のふたりの出会いである。このふたりに共通しているのは文学活動だけでなく、いわば文化工作者として活躍していることだ。ワリスは山の中で教育を通じて反同化、伝統文化の復興に、シャマンは日常的には漁業に従事、ちなみに第2巻に収録されている彼の長編「黒い胸びれ」は魅力的な海洋文学である。また蘭嶼は台湾の六ヶ所村、つまり核廃棄物集積所なのだ。シャマンがその対策に奔走もせざるをえないのもむべなるかな。またこれは世界中の先住民族に共通の運命だが、かれらは生まれ故郷では食べられず、都市に出、そこで挫折して、というより伝統を捨てさせられ、差別の中で生き延びていけないずに、故郷に帰るという、通過儀礼のようなお決まりのコースをたどって目覚めていったのだ。来日中はこのおふたりはまったく兄弟のようにぴったり行動を共にし、またよく飲んだ。そんなに飲んだら肝臓がいかれるぞ、というのも、日本のアイヌ民族にされる忠告と同じではないか。
いま台湾では原住民族(これは自称)の復興運動が盛んである。芸能界、スポーツ界では昔から彼らの活躍はよく知られていたが、自己の内面を見つめていく文学の世界でもこれから華を咲かせていくにちがいない。下記の文章はこの文学選第4巻の編訳を担当している台湾在住の柳本氏のエッセイである。転載を許可されたので、ご紹介する。もとは写真が貼り付けてあった。

ASIAPRESS TOP PAGE<フォト・エッセイ>2003年11月10日
ムササビ学校 (台湾)
文・写真 柳本通彦
台湾のパイワンという小さな民族である。
サキヌ、42歳。小さい頃は、日本語で「リクツ」とよばれていた。あれこれ理屈をきいて反抗したせいだという。高校卒業と同時に山を下りたリクツは、カネがないので無償の警察学校に進み、台北でケーカンになった。そして、ある晩、ひょんなことから、鉛筆を握った。
幼い頃、父に連れられて、山を巡り、ムササビ、サル、イノシシを追った記憶が切なく甦った。それが思いがけず本になった。そして文学賞を受賞し、ベストセラーになった。さらに、かれは、CDも出し、童話も書いた、いつのまにか、作家と呼ばれるようになった。
父は、猟師だ。山を舞台に繰り返される生命の営みを知るうちに、獲物を人間と同じ存在ととらえるようになった。息子に、ムササビには学校がある、イノシシはおれたち猟師のファイルを持っていると教えた。息子の本が出てから、彼は、「台湾最後の猟師」と呼ばれるようになり、二人は台湾でもっとも有名な原住民の父子となった。
人口40万の台湾原住民族のなかから、ものを書き始める人たちが、ここ十年間に、どっと輩出した。その多くが母や父のことを書いた。40代前後、子どもが小・中学校に上がる世代である。時代の狭間で、民族の言葉すらほとんど話せないわが子の成長を見て、原住民の匂いをまだ濃厚に発している両親のことを書き記すことで、失われゆく民族の魂を残そうとした。
どうしても書き留めずにおれなかった、彼らの作品群が来年早々にまとめて邦訳され出版される(『台湾原住民文学選第4巻草風館刊)。そこから、日本人、中国人と、百年にわたって異民族に支配され続けた、小さな民族の哀切なる逞しさが迫ってくる。

台湾原住民の文学

 台湾島に生きる原住民族の詩と真実! 日本植民地時代には高砂族として一括され、多くの若者が義勇軍として南方戦線に送られ、多数の生命が失われた。原住民のひとり元日本軍兵士中村輝夫ことスニヨンがモロタイ島で発見されたのは1974年のことだ。いまは彼らは、「原住民族」を自称して、公認されている。
 台湾原住民族11族の世界には、未知の「山と海」が広がっている。パイワン族のモーナノン、ブヌン族のトパス、タイヤル族のワリス、タオ族のシャマンラポガン、パイワン族の女性作家アウー……このたび草風館で企画した「台湾原住民文学選」(全5巻)に収録したのはすべて、漢族以外の原住民作家たちである。この十数人の作家たちは人口40万に満たない11族のなかからあらわれた新たな表現者たちである。さらに伝統ある口承文芸の世界が拡がる。この無謀な企画は早すぎたかもしれないが、いずれマイノリティの世界がやってくるだろう。
 宣伝めくが、野田正彰さんが適切な文章を書いてくださったので紹介する。
◎「台湾原住民文学選」の第1巻、『名前を返せ』を標題とした詩人モーナノンと作家トパス・タナピマ集が草風館より出版された。現代台湾の、しかも人口2%の原住民から出た詩人や作家の作品集を日本語で読むことができる。これは奇跡である。
 編訳者の下村作次郎教授(天理大学)と出版社・草風館の熱い想いなしには、私たちはこの本を開くことはできなかつた。日本植民地時代から現代に至る台湾文学への研究者群が形成されていなけれぱ、作家のほぼ全作品を集めた選集は出版されていなかったであろう。また、1980年代からの台湾民主化がなければ、これらの作家は育っておらず、作品の出版は難しく、出版されても読まれることはほとんどなかったでろう。
 50年にわたる日本の支配、次に大陸からやってきた国民党系の中国人。台湾山地は勝手に変わる支配民族の政策によって、虫食まれてきた。戦争時、日本政府によって男は高砂義勇隊として熱帯の戦場に送られ、女性は従軍慰安婦─原住民女性が多い─として連れ去られた。同じように戦後も、貧しい山地の女性は娼婦として都市へ流れていった。
 パイワン族のモーナノンは、中国軍人に除隊の退職金で買われていった少女をうたう。「帰っておいでよ、サウミ」と、山の兄は呼びかげる。
 「帰っておいでよ、サウミ/僕ら一緒に豊作の喜びの歌をうたおう/帰っておいでよ、サウミ/僕が緑に輝く芋の葉を摘んであげる/キラキラ光る露が贈り物/僕が甘い粟洒を作ってあげる/伝統の兄弟杯でお前と飲み明かそう/サウミよ、サウミ/兄は弓と火種を持って/不滅の愛と希望を胸に/山また山と/一度また一度とお前の名前を口ずさむ/帰っておいでよ、帰っておいで/粟と芋がいっぱいある僕らの家に帰っておいで」
 峻険な山々、焼畑の紫煙、蛮刀をさす山男、ビンロウ、月などが次々と浮かんでくる。ここにも近代の衝撃、日本や大陸からの侵略に耐えて生きるアジアの少数民族の文化がある。◎信濃毎日新聞夕刊コラム「今日の視覚」2003年2月7日付

宿題を果たした写真集

 われわれは、なにも知らずにいたり、また考えもしないでいることが、「偏見」の土壌を育んでいることがよくある。ハンセン病やアイヌ民族、部落の問題しかり。「にんげん」問題なのに、対象を畏怖したり、恐怖する存在のようにみてしまうのは、たんに事実を知らないからともいえるのではないだろうか。無知と偏見は表裏である。そのままでいれば、そのさきには「差別」意識が待ち受けている。

 私の「ハンセン病」との出会いは、20数年前、神戸の定時制高校の教師から「知っているか、日本列島の《らい》病は朝鮮人が背負っていることを」と詰問されたことに始まった。それまで頭のさきっぽでしか考えてこなかった知識なので、それはショックであった。それこそ「偏見」のかたまりだった。

 後年、草風館を立ち上げ、当初、季刊『人間雑誌』という無広告雑誌(広告はとれそうもないのでやむなく)を刊行、林竹二・上野英信・吉田司などの硬派の書き手によるマイナーな雑誌を9号まで出して息が切れた。その最後の7〜9号の3回の口絵を元炭坑夫だった趙根在という在日朝鮮人による「日本国らい収容所」というタイトルのモノクロ写真で飾った。趙さんとの話のなかで次第に明らかになってきた、というより私のなかで蒙が啓かれたというほうが正しい、それはハンセン病に対する偏見が徐々に取り除かれていった道程である。「近代日本の絶滅政策」のただなかに押し込まれたハンセン病の患者たち、それは「収容所」という名にふさわしい社会と孤立させられた監獄だった。故郷を追われ、本名を捨てさせられた患者たち。医療行政の残酷さ、社会の無理解と偏見など……。
 趙根在は、療養所の同胞(朝鮮人)に導かれながら、患者の生活のなかに飛び込み、寝食を共にしながら、彼等の素顔を撮影した。現実を透徹する写真だった。それはナミの努力でできるはずもなく、いわば天から授かった人柄と趙根在の感性があればこそといえよう。

 あれから20年が過ぎた。趙さんは5年前に亡くなった。
 やっと写真集を出すことができた。
 ようやく宿題を果たすことができた。
 この写真集の出版ができたのは、96年「らい予防法」の廃止があり、ハンセン病元患者たちが人権侵害を訴えた国賠訴訟に、昨年、勝利したことも背景にあったことは否めない。
 こんな写真はもう撮れない。昔のこととはいえ、撮れないほうがいいのだ。そんな状況はないほうがいいのだから。

隔世の感

 古い話から始めよう。

 時は1972年7月4日、ソウルは鍾路3街の交差点にさしかかると黒山の人だかり。人混みをかき分けて前に出ると、折しも黒い高級車の列が通り過ぎていった。ちょうど南北会談のために北から高官達がやってきたところに出くわしたのだ。南北統一に関する幻の7・4共同声明が出された。まだ南北が緊張していて、渡北した在日の若者たちが政治犯として捕まっていた。S兄弟のあとの政治犯であるL君の釈放運動をひょんなことからひきうけさせられて、何回目かのソウル入りのときだった。L君は結局「死刑」の判決、呆然としたのもつかの間、すぐそのあとで釈放されて日本に帰ってきた。まったく「見せしめ」でしかなかった茶番劇につきあわされたことになる。有名な金大中拉致事件はその翌年のことである。ソウルはまだ貧乏時代、旅館のトイレの水がよく出なかったり、一週間に一日「粉食」の日があって米を食ってはならなかったりで、その日の駅弁には米のかわりにソバが入っていた。

 先日当社に本を買いにきた人と話しているうちに偶然というか、不思議な因縁に感動したことがある。それはその本「マイノリティを旅する」の著者・蔵田雅彦氏と知り合いだったというその読者が「アムネスティ第2グループ」にいまも属していて、最近そのグループに属していた人が亡くなってアムネスティ日本支部にいた蔵田氏の本を知ったのだそうだ。実は上記L君の救援運動のことで小生もそのおり第2グループに属していたことがあって、蔵田氏が死を覚悟したベッドのうえから出版を依頼されたという経緯がある。蔵田氏がもっとも尊敬していた澤正彦氏の本「ソウルからの手紙」も小社から刊行されていて、なぜかおふたりとも同じ49歳でガンで亡くなっている。(年齢差がちょうど10年)

 話は変わる。
 あの7・4共同声明の頃に生まれた若き日本女性がのびのびソウルで活躍している新刊の話。
彼女は日本の大手電機メーカーに勤めていたが、自分も出資してソウルに会社をつくり、そこそこ利益もあげているビジネスウーマン。その会社には日本人は彼女ひとり。「タフな韓国人ビジネスマンに負けじと、今日も長い長いネゴに耐え」て頑張っているという内容。彼女のホームページを知って半年ばかり毎日読んでいるうちに面白くなって大幅に書き直してもらい、2月に「ケイコ・韓国奮闘記」というタイトルで刊行予定。ところで、彼女とは徹底的にメールのうえでのやりとり、入稿から校正、図版のファイル送付もすべてインターネットで最後まで貫徹した。ということはいまのところは彼女の住所も電話も知らないのだ。それで済ませられた。そういう時代なのだ。

 隔世の感がある、というより私が長く生き延びてしまったということか。