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雑感

 あまり勉強する余裕もないので、このところ思っていることを雑感風に書き記して日誌原稿に替えさせていただきたいと思う。

▲ ここ数年のマスコミの論調は、情報操作に近い報道が目立つように思えて仕方がない。例えば、憲法「改正」をめぐって国民の78%が改憲に賛成だと報道(「毎日新聞」04年11月3日)する。その根拠は新聞社のアンケートだという。どのような内容のアンケートをどのような層の人からとったのかを明らかにしないまま、ただ80%近い国民が改憲に賛成だという。それもたかだか2000人の、それもある程度社会的に地位のある人々からとったのであれば、改憲賛成80%は納得がいくが、それを国民の80%が改憲に賛成と報道することに何ら躊躇しない報道姿勢はマスコミが「公正中立」な報道姿勢を自ら放棄することになるのではないのか。まして憲法「改正」論議をめぐるアンケート調査である。あたかも国民の80%が憲法9条改正に賛成しているかのように喧伝するマスコミの姿勢には唖然とさせられるし、情報操作に近いこの手の報道に易々と乗せられてしまうこの国の人たちとは一体何者なのかと暗然としてしまう。こうした国の行く末を推し量るアンケートなら内容もきめ細かい項目の調査が必要であり、調査対象も各県別にするくらい時間をかけて調査するのは当然ではないかと思う。戦後六〇年、現行憲法の枠組みでは対処できない地球環境問題や選挙権の年齢制限の改正(15歳で源泉所得税を課税されている場合は選挙権を保障すべきだし、18歳で全員に選挙権を保障すべきだし、国会議員は国家公務員と同様に65歳で定年にすべきだと思う)、社会保障、社会福祉など、少子高齢化時代にはさまざまな領域において「改正」が必要なこともあるが(もっとも憲法があったからといって基本的人権や三権分立が現実的に保障されるわけではない)、憲法は国家の権力行使を規制し、国民への義務を果たすための形式的な装置に過ぎないわけだから、法治国家なら黙っていても基本的人権が保障されるなんてことはありえない。私権や人権や地方自治が徐々に制約されて気付いたときには後の祭りなんてことにならなければいいのだが。

▲ このところ教育問題に取り組んできたので、学校現場の先生方と親しく付き合える関係になった。東京都の公立学校の教育現場は凄まじいばかりの締め付けでもはや公教育は死滅したといってもいいくらいである。都教委の「教育改革」の狙いは、日本型「民主主義」の理念のなかに多少とも根付いていた公平性と救済思想を根底的に剥ぎ取るためのものでしかない。義務教育としての63制を中高一貫教育に改変し、できる子、できない子、障害をもった子を振り分けて子どもたちの中にさらなる階層化を作り出そうとする。教育現場には都教委の監視の目が光り、校長・教頭は教師の管理に神経を研ぎ澄まし、子どもたちは息詰まるような学校空間でひたすら学力神話に翻弄されている、といったら、最近の子どもたちが起こす「事件」の背景が想像できるのではないかと思うがどうだろうか。
この国の戦後を支えてきた公教育のよさは公平性と標準化をもっともよく体現してきた領域の一つであり、この標準化された教育水準がフロンティアを推進する大きな力の原動力であったことをいまいちど確認すべきではないだろうか。

▲ 少子高齢化現象が意味するものは、人口減少社会の到来である。日本型高度資本主義の社会とは大都市一極集中ではなく、地方分権・地方自治政府の存立と日本型農業立国の成長によって支えられるのではないかと思う。この国の未来は決して暗くはない。[了]

「島津義弘の賭け−秀吉と薩摩武士の格闘−」(山本博文著、読売新聞社、一九九七年八月初版、一二月第二刷、一八〇〇円)を読む

 慶長五年(一六〇〇)九月一五日、天下分け目の関ヶ原合戦の火蓋が切って落とされた。太閤秀吉亡き後のやり手の年寄(奉行)、石田三成は大谷吉継の援助を得て西国諸大名と結束し、毛利輝元を総大将にして、豊臣家五大老の筆頭徳川家康と対峙した。この天下分け目の関ヶ原合戦の最中に殆ど動かず、西軍の配色が濃くなってから家康軍の中央突破を計った奇妙な一団があった。後に「島津の退(の)き口」と言われ、敵陣中央突破の破天荒をやってのけたこの一団を指揮した武将が島津義弘である。
   *
 この本は、ぺりかん社の救仁郷建社長から是非にと言われて真夏の熱射が容赦なく照りつけるこの七月の寝苦しい夜、毎晩寝る間際になってから読み始めて途中何度も同じページを繰り返し読み直して消化不良のまま何とか読了したという体たらくなので、紹介することしかできない。

 山本博文氏の本は、「江戸お留守居役の日記」(読売新聞社、一九九一年)を読んだことがあるが、江戸時代のお留守居役の日常が微にいり細にわたって描かれていてとても面白く読ませていただいた。「島津義弘の賭け」も第一級の史料である島津家文書(国重要文化財)を丹念に活字化して訓註が付してあり、素人のために読み下し文も平易且つ丁寧である。

 島津義弘は、「天文四年(一五三五)に薩摩・大隅・日向の三国の守護島津貴久の次男として、薩摩国阿多郡伊作の丸亀城に生まれた。母は入来院重総の女で、雪窓夫人と称される。」「勇武英略をもって傑出した」武人でありながら、秀吉の命に服して上洛した京都から、或いは艱難辛苦の朝鮮から妻に宛てた手紙の数々は、感動もの。長男義久・三男歳久・四男家久の島津四兄弟は、よく結束して三州を支配していたが、九州統一を目前に秀吉軍に完膚無きまでに打ちのめされる。が、成り上がり者の悲しさ、羽柴秀吉は伝統ある島津本宗家と家臣団に武力では勝っても徹底的に滅ぼすことはできなかった。島津義久は剃髪して龍伯と号したが、豊臣政権の命には服さず徹底してサボタージュする。秀吉は石田三成、安宅秀安と通して豊臣政権への服属支配を強め、太閤検地、刀狩り、と天下統一への政略を具体的に推し進めて行くが、この辺りから豊臣政権にたて突く島津本宗家とその家臣団と豊臣政権に服属することが島津家の安泰に繋がるとする義弘たちとの齟齬が大きくなり、結束は乱れ、島津の有力武士団である渋谷諸氏、北郷氏、伊集院氏らと袂を分かつような事態に追い込まれて行く。
 義久・義弘の兄弟関係も複雑である。朝鮮出兵で苦労する島津義弘・久保親子が何度も食糧や兵の増援を依頼しても義久は頑として拒否に近い対応をする。秀吉の命に服して朝鮮へ出兵しなければ島津家そのものが改易されかねない、そんな状況下であるにも関わらずである。「朝鮮への出陣は、どこまでも義久や御家のためを思ってのことである。それなのに鹿児島方(義久のひきいる本宗家)からの支援がまったくない。これは御家を傾ける所行である。『無念千万』という義弘の言葉は痛切である。」義弘親子は、異郷の地で食糧も乏しく果てしない闘いに明け暮れていたが、文禄二年(一五九三)九月八日、二一歳の若さで跡取の次男久保が朝鮮巨済島で病死する。義弘は慟哭するが悲しむ間もなく、三男忠恒が京都伏見城で秀吉に謁見し正式に島津家の跡継ぎとして認められ朝鮮に出陣してくるのを迎え出る。
 結局、義弘・忠恒親子は、秀吉の死後無事薩摩へ帰ることになるが、島津本宗家義久の後継者は、義弘の次男忠恒を養子に迎えることになる。この忠恒が義久にそそのかされて伊集院幸侃を殺害したことから幸侃の息子忠真が庄内(都城)に立て籠もり、父幸侃の成敗(殺害)について、自分は義弘・忠恒に身の処遇を聞きそれに従うつもりであったのに、義久が納得せず庄内への通行を禁止し境目に放火している始末です、と義弘に訴え出て仲介を願い出でるが、事の是非よりも島津家の安泰をひたすら願い、島津本宗家義久を敬う義弘の反応は冷たく、忠真を不憫に思いつつも説得は功を奏さなかった。忠真は徹底抗戦し(庄内の乱)天下人徳川家康の援軍をもってやっとのことで調停が成立し、慶長五年(一六〇〇)三月一五日、忠真は都城を退去した。都城は北郷家に戻され、伊集院忠真は薩摩半島開聞岳の麓に移されることになった(その後、忠恒によって忠真、母親、弟たちまで殺害される)。この庄内の乱をもって「豊臣政権下の一三年間に行われた島津家の体制変革は、秀吉死後わずか一年半にして旧に復したのである。」「その本質は、島津家内部に押しつけられた豊臣体制の否定であった。」
この慶長五年九月一五日には、関ヶ原の合戦が起こり、島津義弘は僅か二〇〇の手勢で参戦することになるが、西軍に味方した島津家がその後どのような命運を辿るかはこの書を読んでいただきたい。
   *
この手の一次史料をつかった作品は、読むだけでも骨が折れるが、疑問点がない訳ではない。種子島に辿り着いたポルトガル人の鉄砲が何故島津氏によって実戦に実用化されなかったのか、細かい点もあるが、一国の経営はことほどさように難しいことがよく分かる。資本主義的合理性が徐々に形成されつつあった時代の、流れが大きく変わりつつあるなかで、その方向を見定め、経営の舵取りを誤らず一国を統御することは至難の業であることをこの書はよく伝えている。

本の直販残酷物語

 5月17日から日本精神神経学会が大阪で行われるので、関西の書店営業を兼ねて本の販売に出掛ける予定である。一年間に出掛ける学会や集会は、それほど多くはない。岩田書院の岩田博さんは、春と秋は連日学会まわりで超多忙だと「新刊ニュースの裏だより」に書いていたが、私のところはせいぜい3回か4回でたいしたことはない。けれども記録にとどめておいたほど、無残と言えばあまりにも無残な集会の模様を日記に認めておいたのでお伝えしたいと思う。それは今年の1月に東京で行われた日教組の全国教育研究集会のことである。

 1月26日(木)
 午後2時から日教組の教育研究集会の準備のため、現代書館の金岩さんを隊長に、社会評論社の松田副隊長、緑風出版の高須副隊長と私、平均年齢57歳、兵隊が一人もいない老人部隊は、荷物を全体会場の有明コロシアムに運び込む。各社のダンボール箱は体力に合わせて中くらいの大きさのものだが結構重い。30 数個のダンボール箱を会場裏の販売所に運ぶ。
 4時、日教組の大会担当者・丹野さんが業者との打ち合わせに来る。
 打ち合わせ終了後帰社。帰りは電車でりんかい線に乗る。新木場で有楽町線に乗り換え、市ヶ谷で総武線に乗り換え、水道橋駅へと。ところが結団式をしなければ明日からの志気にかかわるということになり急遽、市ヶ谷で下車。一杯飲み屋で明日からの健闘を誓い合う。

 1月27日(土)
 日教組の教育研究集会は、今日が初日の全体会。朝から雪が舞う寒い日。
 朝6時起床の予定が、6時30分を過ぎていた。顔を洗い歯を磨き、シャワーを浴びてひげを剃る。食事もそこそこに雪の中を走って西荻窪駅に向かう。土曜日は快速電車は走っていない。各駅停車の中央総武線に乗って市ヶ谷駅へ、有楽町線に乗り換え、新木場駅へ。そこから、りんかい線に乗り換え、国際展示場前駅へ。市ヶ谷駅からここまで電車賃が420円とは高い。8時00分到着の予定が、10分近く遅れて到着。
 駅の前には、日教組の人達が右翼の妨害を恐れて警察機動隊と一緒に入場者の点検に目を光らせている。右翼の街宣車が勇ましい音楽をバックに「日教組粉砕!」とがなり立てながら走り去る。中核派や革マル派とおぼしき左翼の活動家達が、吹雪きの中で両脇からビラを配る。
 階段を上りながら目指す有明コロシアムを見ると、すでに日教組の人達が準備に大童になっているのが見える。大あわてで会場に入り、昨日準備した場所へと急ぐ。すでに、現代書館の金岩部隊長は、先陣を切って緑風出版の高須副隊長とともに本をならべて準備しているではないか。これこれは急がなければと、さっそく準備に入る。社会評論社の松田副隊長の姿が見えない。もしかしたら小田急線が止まって来れないのかも…。心配しながら準備していると、猛吹雪でずぶ濡れになりながら、大きなお腹を抱えてやって来た。これで全員集まったことになる。やれやれ。
 雪はますます吹雪いてきた。会場の周りにはだんだん雪が積もってきて、大雪なりそうだ。この雪の中を教師の連中はちゃんと来るだろうか。いささか不安になる。教師になる人は真面目な人が多い。真面目な教師ほど言われたことは必ずそれなりにやるが、それ以上のことは決してやろうとしない。教研集会には必ず来るが、本を買ってまで勉強しようという教師はあまりいない。ちょっと偏屈な教師の方が親しみがあり魅力もあって、本も買っていくような気がする。彼らは学校という異空間の中で、一種独特の人格を形成しているように思える。

 受付が始まり先生達が入場してきたが、本の販売所の方には誰も来ない、準備万端整えてお客を待っているが、寒いせいか誰も寄り付かない。金岩隊長の朗々たる呼び込みの声も、むなしく会場に響き渡るだけだ。身体を動かしていないと寒くて歯が噛み合わない。大会本部からホカロンが支給され、靴の底とズボンに入れるが寒さを凌ぐほどではない。開会式が始まったが、全体会場の中も寒いので座ったままで誰も動こうとしない。昼近くになってやっと人の出入りが出てくるがなかなか本を買おうとはしない。一人が買い、すると連られて二人めが買う。それを見ていた三人めが買うといった調子で、何とか昼の休憩で多少の売り上げが期待できそうだとひと安心。せっかくこの大会のために重版したのに一冊も売れなかったらどうしようと、内心冷や汗ものだった。
 それにしても寒いのと売れないのとでダブルパンチだ。本を片手に持ち上げてテキヤのように声を嗄らしても客は寄ってこない。トイレに来たり煙草を吸ったりしてもすぐ引き返してしまう。遠くの方から何か珍しい物でも見るように眺めているだけだ。これほど大衆的に支持されない本をどうして作ったのかと、自負と悔恨の念で千々に乱れ複雑な想いに囚われる。
 大雪でりんかい線が止まったという情報が入る。金岩隊長が何処で仕入れてきたのか「祝50年」と書かれた昼の弁当を支給してくれる。隊長はこうでなければ勤まらないなどと言いながら、さっそくパクツク。……冷たい。実に冷たい弁当。更に冷たいお茶を飲みながら弁当を食べ終わる。身体の中が冷え切って、いてもたってもいられない。高須副隊長が「おい、暖かい所があるぜ」と手招きするのでついて行く。
 会場内に入ると人いきれで多少暖かい。左側に鉄製の重たい扉がある。その閉じられた扉を開けると、その部屋だけ暖房が入っていて何とそこには大勢の先生が上着を脱いでシャツ一枚になって寝転がったり煙草を吸ったりしているではないか。中には半袖の肌着で寝ている先生もいる。極楽、極楽。やっと生きた心地がする。暫し休憩の後、再び吹雪きの舞い込む販売所へ。順番に交替する。こんな部屋がこの建物の中にあったのだ。何でここを業者の販売所にしてくれなかったのか。日教組の幹部もこの場所を案外知らなかったのかも知れない。

 大会は午後4時半ぴったりに終わった。盗賊のように荷物を片づけ、金岩隊長が猛吹雪の中を配車してきたワゴン車に返品を入れ終えて車の後部座席に座ったときは、何とも言えないほどほっとした。大雪の中を全国動員された右翼の悠然たる大型街宣車に前後を挟まれながら、借りものの我が部隊のワゴン車がゆっくりゆっくりと走る。暖房が効いてきて寒さと疲労が和らぎ、睡魔が襲う。
 勝鬨橋を渡り銀座通りを過ぎて江戸城の雪景色を右手に見ながら、千鳥が縁・和田倉門を経て毎日新聞社の脇を左折して駿河台下から御茶ノ水を経て本郷へ。冷え切った社内で一休みする間もなく、臼井君へ明日の連絡事項を記す。荷物を整理していると電話が入る。一刻も早く熱燗を飲みたい。はやる気持ちは抑え難くすぐさま場所を指定、直行する。水道橋・串八珍。高須副隊長と途中で落ち合う。金岩隊長に慰労をと思ったが、隊長は来れないと言う。松田副隊長はまだ来ない。すぐさま大徳利の熱燗を注文する。若い兄ちゃんが無愛想に注文を受ける。早く早く。何をぐずぐずしているのだ。やっと大徳利が来た。さあさあ飲もう。
 ……良く飲んだ。10時半だ。明日も早い。早く帰ろう。

*結局、全体会と分科会の3日間の売り上げが18万円だった。何とも無残な結末である。
*当初、今回の日誌は宮崎学『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年』とその周辺について触れてみたいと思ったが、大分前のことなのでいくら探しても本が見当たらない。どうしてこうだらしないのだろうか、とつくづく嫌になる。

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拮抗する日常と非日常の観念世界持続する緊張で漲った小説を 求めて

 「立花隆の無知蒙昧を衝く」(佐藤進著、社会評論社、2000年10月初版) に続いて箒木蓬生の「臓器農場」(新潮社、文庫)について書こうと思ったが 手元に資料が何もない。記憶だけでものを言うのは如何なものかと思うので真砂 図書館から幾冊かの本を借りてきたが肝心の「臓器農場」はなかった。

 箒木逢生 の作品は、69年の東大安田講堂の攻防戦を通して巨大マスコミの闇の構造を抉 った「十二年目の映像」以来、「白い夏の墓標」や「カシスの舞」、はじめて賞 をもらった「三たびの海峡」、山本周五郎賞の「閉鎖病棟」や憲兵だった父親が 戦犯として追及される様を描いた「逃亡」など初期の作品は殆ど読んできたが、 初期の作品は奥付を見ると殆どが初版どまりで、よくもまあこの成績で次から次 へと新刊書を出せるなあ、と新潮社の編集部に頭が下がったものである。

 箒木蓬生は東大仏文からTBSへ入るが、その後九大医学部に入り精神科医となって文学作品を発表するが、精神科医としての論文はまだ見たことがない。九大の連中に一度聞いたことがあるが、多忙な精神科医がどうしてあれほどの文学作品を書けるのか分からないといっていた。確かに凄まじいエネルギーである。箒木蓬生の作品の凄さは、最初から最後まで作者の緊張感が持続していることである。数ヶ月ならともかく数年間にわたってリアルな日常生活とフィクションの世界との拮抗する緊張感の持続は並大抵なことではない。これは精神科医として日常的に患者と向き合うことから患者の心の奥底に内包された凄まじいエネルギーに作者は触発されているのではないかと思う。長編ものはかなりの作家でも緊張感が続かない。村上春樹「ノルウェイの森」でも、船戸与一「砂のクロニクル」にしても、辻邦生「西行花伝」にしても息切れを感じてしまう。精神科医という仕事は、治療者自身が患者の内面の世界と向かい合い互いに共感できるような<共鳴する身体=心的構造>を共有できる人ほど治療がうまいと言われる。しかしこの緊張感も並大抵ではない。患者の内面の世界と一体化してしまえば、治療者としては失格である。そのギリギリのところで治療するしかないのが精神科医ではないかと思う。

 この精神科医の物語を小社から刊行する予定である。「深淵から〈精神科医物語1〉」を4月に、「深淵へ〈精神科医物語2〉」を5月に刊行する 予定である。久々にエネルギーの充満した原稿を手にして一気に読んでみた。 「深淵から」より「深淵へ」の方が凄まじい。精神科医ならではの緊張感に満ち た表現である。乞うご期待。次回は宮崎学「突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年」(上下巻)とその周辺を取り上げたみたいと思う。

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『立花隆の無知蒙昧を衝く 遺伝子問題から宇宙論まで』

 昨年10月に、社会評論社から『立花隆の無知蒙昧を衝く 遺伝子問題から宇宙論まで』(京都大学名誉教授・佐藤進著、46判・224頁・定価 1800円+税)が刊行された。この本は忽ちの内に4刷になるほどよく売れた。企画のユニークさや売行き部数からしても久々の快挙である。この本の企画は、社長の松田健二さんが「文藝春秋」を読んでいて立花隆の論調がどこかおかしいとは思いつつも、その根拠がなかなか理解できない、という苛立ちに端を発して、誰か遺伝子組替問題や生命科学、宇宙論についてきちんと立花隆の論調を批判的に検証できる人はいないものかと想いあぐねていて京都大学の佐藤進さんにお願いしたという。

 本文は5章に分かれていて、
「第1章 遺伝子組み替えとは何か 遺伝子操作の実態/
第2章 自然の摂理とは何か 現代物理学の進展と限界/
第3章 生命の起源と進化 分子生物学の到達点/
第4章 性と生・死 生命科学はどこまで解明できたか/
第5章 無知蒙昧と神への侵犯 科学技術文明のゆくえ 」
である。
かなり専門的な理系の知識が必要なところもあるが、総じて現代科学・技術の先端情報とその危険性について懇切丁寧な解説を試みながら、立花隆の「無知蒙昧」を批判的に検証し、その無節操なイデオロギー的喧伝を戒めている。
立花隆という人は、「田中角栄の研究」で華々しく登場し、希代の政治家・自民党総裁の田中角栄を政権の座から引き下ろすきっかけを作った。この辺りまでは結構真面目に考えていたのだろう。最近では、脳死・臓器移植問題に絡んで、立花隆はかつての自身の主張を変えて「ドナーカードを持とう」と熱心である。臓器移植法が施行されて初めての脳死−臓器移植手術の騒ぎは尋常でなかった。あの騒ぎを目の当たりにして殆どの人は「ドナーカード」など絶対に持つまいと思ったに違いない。大体、医者や看護者や厚生省の役人など、この間一人として医療関係者が臓器を提供したというハナシは聞いたことがない。私は宗教的な信念や因習で「ドナーカード」を持たないのではではない。先端医療技術の進歩の名の下に殆ど全くと言っていいほど信頼のおけない病院で、脳死とはいえ人体実験にも等しい処遇で利用されるのがイヤなのである。臓器を提供されて助かる人がいたとしてもである。吉本隆明は、同じ時期に立花隆とは逆に「私はドナーカードを持たない」と主張している。さすがである。

 20世紀末にクローン羊が誕生し、ヒトゲノムが解読され、21世紀はナノテクノロジーをはじめ先端技術の実用の時代、自己決定の時代だという主張が新年早々の新聞・テレビの特集で埋められた。果たしてそうなのか。佐藤進さんは言う。「地球環境が多くの生命体を生み出したことは、…地球が開放定常系であるから、熱力学第二法則に反することなく可能である。が、生命系への自己組織化原理がどのようなものであるかについては、未だ解決の糸口さえつかめない現状である」と。簡単に言えば、35億年前に生命体がなぜ地球上に誕生したのかまだ何も分かっていない、ということです。また、ヒトや他の「『「生物が生きている』ということが何ひとつ分かっていない段階では、ゲノム解析が極めつくされようとも生命体を左右することはできないだろう」と。是非とも一読をおすすめしたい1冊である。

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