5月の小さな喜び
5月1日(水) 大分市の別府湾に面した大在(おおざい)と坂ノ市(さかのいち)を訪ねる。このあたり一帯は広大な平野となっていて、米作が盛んだった場所だ。戦時中、この平野に、「東京第2陸軍造兵廠坂ノ市製造所」(通称、坂ノ市2造)があった。 (さらに…)

5月1日(水) 大分市の別府湾に面した大在(おおざい)と坂ノ市(さかのいち)を訪ねる。このあたり一帯は広大な平野となっていて、米作が盛んだった場所だ。戦時中、この平野に、「東京第2陸軍造兵廠坂ノ市製造所」(通称、坂ノ市2造)があった。 (さらに…)
2016年は、いろいろと厳しい一年であった。中でも、4月14日、16日の熊本地震(2度の震度7)のダメージは大きい。仕事上も熊本へ行く機会が多く、知り合いの著者も多いため、震災に見舞われて以後の8か月間、精神的にいつもどこかに重苦しいものをかかえながら仕事をしていたように思う。
◆飯嶋和一と渡辺京二
そういう状況の中で、飯嶋和一という作家の重厚な歴史小説に出会えたことは、ひとつの救いであった。江戸初期のまだ鎖国以前の幕府直轄領長崎を舞台にした『黄金旅風』。それとほぼ同時代の島原・天草一揆に材をとった『出星前夜』。いずれも400字で1000枚をこえる大作(小学館文庫)である。1630年代の貿易商人たちが海外との貿易を活発化させようとしている時代に幕府がそれを規制して国民を無力化させ土地にしばりつけてゆくようすが、克明に描かれている。歴史観、人物描写、風景描写、生活用具、医術、貿易船の航海描写、農作物、騎馬術にいたるまで明快に詳述され、主観的な感情移入がほとんどなく淡々と文章が展開してゆく。思わず線を引きながら読み返す場面もたびたび出てくる。その筆力にひき込まれていくのである。〈寛容〉という自由で遊びを含んだ精神が生きていた時代から徳川家という規律のもとにすべてを〈統制〉して民衆を土地と家にしばりつけていく時代へと変わってゆく、激動の時代を資料の裏づけをもとにリアルに浮かびあがらせている。 (さらに…)
◆世界遺産は、正の遺産と負の遺産を合わせもつもの◆
5月5日付の新聞各紙の1面は、ユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)が「明治日本の産業革命遺産」を世界遺産に「登録」するよう勧告したことを報じた。これに対して韓国政府は、強制徴用された施設が含まれているため世界遺産登録に反対している。この話は、ちょうど著名な人物の評伝をまとめようとしたとき、遺族から「俗な汚れた側面は削ってもらいたい」というクレームに似ている。歴史の事実は常に聖と俗を合わせもっている。その片方の俗な部分を記録からはずすということは、事実をゆがめてしまうということになる。歴史上の事実の評価に現代の政治的な感情を持ち込むことは、まったく意味のないことだと思う。 (さらに…)
この3月いっぱいで、熊本市の喫茶店・居酒屋「カリガリ」が閉店になる。1971年に水俣病闘争(水俣病を告発する会)の拠点として開店した。水俣病に限らず、さまざまな社会問題に異議を唱えて、運動、報道、論争、調査、報告しようとする人たちの集う場所として活気に満ちていた。私が店に出入りし始めたのは90年代になってからなので、70年代から80年代初めにかけての、時代の流れを変えるほどの思想と行動力を持った人たちを生み出した頃の雰囲気を知らない。店主の松浦豊敏(労働争議の専門家)、渡辺京二(水俣病闘争の理論的指導者、近代史家、評論家)、石牟礼道子(『苦海浄土』著者)の3人を編集人として『暗河(くらごう)』という雑誌が発言の場としてこの店から刊行されていた。この雑誌の特に創刊号(1973年刊)は、出版という仕事を続けていくうえでいろいろな意味で精神的な支えになっている。「カリガリ」は閉店してもその店と同時代の記憶は、生き続ける。 (さらに…)
来年(2013年)5月15日(水)〜5月26日(日)の12日間、ここ福岡市で、「水俣・福岡展」が開かれる。会場がJR九州ホール(JR博多駅ビル9F)なので多くの来場者を集めるべく、その準備会議が水俣フォーラム(東京・新宿・高田馬場、03-3208-3051)の主催で福岡市内で随時開かれている。9月14日(金)に第1回めの会議があり、参加してきた。若い人たち20〜30代も多く、40名近くが集まっていた。このことは何を意味するのだろうか。7月31日で、水俣病患者の救済申込みが締切られたが、政治的な表面的な措置と本質的な民間レベルの動きは、大きくずれている、ということを私たちの誰もが知っているということだろう。「水俣病問題」はほとんど何も解決していないということを。『なぜ水俣病は解決できないのか』(東島大、小社刊)によれば、「水俣病の被害者はどれくらいるのか」「水俣病とはどんな症状なのか」この2つの問いに明快に答えられる人が誰もいない、ということが現実である。 (さらに…)
9月4日(土)から始まった水俣フォーラム主催の水俣・明治大学展をのぞいてみた。この水俣展の第1回めは1996年9月に開催されている。この年の5月、私は『水俣病事件資料集1926~1968』の編集作業に没頭していた。そして6月に、1800頁(重さ4.5キロ)の資料集は完成した。この当時、前年(1995年)政府解決案が発表されたこともあって、水俣病というものは、もう終わった事件なのだ、と思わされていた人が多いのではないだろうか。そのような状況の中でこの資料集は刊行されたのだが、水俣展の1回めの開催とも重なって、それなりの反響を呼んだ。 (さらに…)