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チェ・ゲバラ関連本の周辺

7年前の1997年に『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』を発行した。
その年はゲバラ死後30年目に当たった。当時の世界の政治・社会状況は、誰の目にもくっきりとした印象を残して彼が生き抜いた1960年代とは、ずいぶんと変わっていた。状況の激変を理由に、過去の意味深い「遺産」をすべて投げ捨てるのはよくない、と日頃から考えている私は、この年にゲバラの本を何か出版したかった。

古い本だが、青木書店の『ゲバラ選集』(全4巻)で著作が集大成されている人だから、既訳のもので済ませるのは安易だ。未発表論文もかなりあるはずだが、キューバ政府はまだ全面公開に踏み切ってはいないようだ。そんな思いをめぐらせていた時、冒頭に挙げた本の原書に出会った。ゲバラがアルゼンチンはブエノス・アイレスの大学の医学生だったころ、親友と語らって、モーターサイクルでの放浪の旅に出た。その旅の過程で書かれていた日記に、後年ある程度の手を入れて、成ったものだ。

論文や演説を読めばわかるが、ゲバラはなかなかの文章家だ。その才能は、23歳当時のこの日記にも表われていて、いわば十分に「読ませる」、青春の紀行文学になっていると思えた。それは、当然にも、かつて私たちが読みふけった「革命家ゲバラ」の著作ではなく、それ以前の文章だ。差し当たっては、後に彼がたどることになる人生とも無関係に、単独で読むに堪える本でもあるが、なかに関心をもつ人が生まれて、彼の全体像を知るきっかけにもなりえよう。そこで、特に若い人に読んでもらえればと思って、死後30年の年に合わせて出版したのだった。

基本的に超小部数出版の仕事をしている私たちにしてみれば、この本はそこそこ売れた。東京で言えば、原宿・六本木・渋谷の書店で売れ始めたから、思ったとおりに、若者が求めてくれたようだった。反応は多様だった。とにかく、ある時代を象徴する具体的な人物への関心が生まれることが大事だと思った。

この反応に力を得て、この間にゲバラ関連の本をさらに4冊出版した。青春の無鉄砲さを若々しく、ユーモラスに描いた『モーターサイクル南米旅行日記』と違って、革命家になった後のゲバラの(についての)著作には、苦悩と絶望がある。とりわけ『コンゴ戦記1965』では、彼自身が自ら立てた作戦の失敗にうちのめされた記述にあふれている。さすがに、この種の本は、異様に明るいこの時代の様相の中では、ガタンと読者数は減る。本来の私たちの仕事の水準に戻るだけだから、それほどのショックではない、と負け惜しみ的に付け加えておきたい。

ところで、『モーターサイクル旅行日記』は映画化された。以前からその噂は聞いていたが、製作総指揮はロバート・レッドフォード、監督はブラジル人で『セントラル・ステーション』のウォルター・サレス、ゲバラ役はメキシコ人の俳優で、すでに世界的に人気も出ているガエル・ガルシア・ベルナル。試写会で観たが、ロードムービーとしてなかなかの作品に仕上がっている。東京・恵比寿ガーデンシネマ10月9日(ゲバラがボリビアで殺された命日)封切りを筆頭に、順次全国公開される。

原著の著作権者に変更があったために、私たちは新しい権利者と新契約を結ばなければならなくなった。その経緯には、いささか面倒なこともあったが、新契約に基づく「増補新版」も間もなく出来上がる。映画も機縁になって、新しい読者との出会いを大いに期待している。ゲバラについては、赤字覚悟でも出したいものがまだ数冊あるので、読者の裾野が広がっていくことは、大歓迎なのだ。

得難い、外国の著者との出会い

 通信機器が発達し、郵便局まで行かなくても集荷してくれる宅急便が当たり前の運送手段になって以来、これではいけないと思いつつも、著者・翻訳者とのやりとりが間接的なものになった。書く立場からいっても、担当の編集者とは顔を合わせているほうが、ずっと仕事がやりやすいことはわかっている。でも人手不足も手伝って外出もままならない事情もあり、誰と限らず現代に生きる私たちは全般的に忙しなく生きているせいか、人に会わずに用事を済ましてしまう傾向に歯止めはかかりそうにない。

 そんななか、翻訳を出版している外国の著者や関係者の来日が続き、思いかけず、国内の著者とも十分には出来ないでいる付き合いができて、やはり、或る満足感をおぼえている。8月に刊行した『アフター・ザ・ダンスーーハイチ、カーニヴァルへの旅』の著者エドウィージ・ダンティカが刊行直後に来日した。1969年、カリブ海のハイチに生まれた。12歳のときに両親が先に行っていた米国に移住した。以来そこに住み続けて、いまに至る。若くして書いた小説が注目され、日本でもすでに『息吹、まなざし、記憶』(DHC刊)と『クリック? クラック!』(五月書房刊)が刊行されており、『アフター・ザ・ダンス』は3冊目の日本語訳となる。幼い日々より祖母や母たちから聞いたハイチの物語世界をベースに、現代を生きるハイチの人びとを描く。関心のある方は、実際の作品に接してほしいので、作品についての説明・解釈は省く。彼女を迎えて、一夕、「ハイチ文化を楽しむ夕べ」を開いた。50人の会場にちょうど50人が集まった。来年は「1804年ハイチ独立革命」から200周年。私たちはハイチという国をほとんど知らないが、この独立革命がもつ世界史的な意義を、私が簡潔に説明した。
 その後、ラテン・ミュージックのDJとして名高いPAPA-Q氏を水先案内人に、「ハイチ多面体音楽逍遥」と題して、11曲ほどのハイチ音楽を聴く時間をもった。
出席したハイチ人に、これほどハイチ音楽の全貌を聴く機会は、ハイチでもないと言わせるほど、充実した時間だった。東京近郊に住むハイチ人はみんな来たのではないか、と大使館の人が言っていたが、会場には7人ほどのハイチ人が来ており、彼女(彼)たちは途中から音楽に合わせて踊り始め、会場の雰囲気は一気に盛り上がった。
 最後にダンティカさんが話した。カーニヴァルに付き物の仮面の話、ダンスの後に残る気持ち、書くことの意味ーーどれもこれも興味深い話だった。いずれまとめて、現代企画室のHPにアップするつもりだ。二次会への参加者も多く、彼女を囲んで、さまざまな会話が弾んだ。私たちもそうだったが、帰国した彼女から「とても楽しい集まりだった」とのメールが届いたことにほっとした。

 10月末には、メキシコ・チアパス州から6人ものカトリック関係者が来日した。
私たちはすでにサパティスタ民族解放軍著『もう、たくさんだ!』や『マルコス ここは世界の片隅なのか』などを出版しており、さらに進行中の仕事があるが、チアパスで続くサパティスタのたたかいは、反グローバリズムの運動のなかで世界的な注目を浴びてきた。カトリック関係者のなかには、サパティスタと政府の和平・対話の仲介役として重要な役割を果たしてきた人びとがいる。来日の目的は、ある仏教教団が主催した宗教者平和シンポジウムに出席するためだったが、その仕事を終えた夜の時間を私たちのために空けてくれた。そこで「メキシコ・チアパスの声を聴く」という催し物を開いた。会場は、都心のカトリック教会内部のホール。外からは何度も見かけていても、内部には入ったことのなかった私のような人間には、建物のたたずまいそれ自体が興味深い。
 6人(女性2人、男性4人)から聞くチアパスの現況は、それぞれに個性的な説明で面白かった。この内容もHPにアップするなり、小冊子にまとめる作業を早速始めている。いろいろと話し合った成果は、いま進行中の出版物企画にも生かすことができるだろう。それにしても、来日する度ごとに「憲法9条はどうなった?」と質問する彼らに対して、ますます悲観的な答え方しか出来ない日本の現実が胸にこたえる。

 インドはベンガルの作家、モハッシェタ・デビの新刊『ドラウパディー』は、3年間続けられてきた「日印作家キャラバン」の結果として生まれた企画だ。日本からは、津島佑子、松浦理英子、星野智幸、小熊英二、川村湊、中沢けい、島田雅彦の諸氏が参加してきた。この交流のなかで、日本の作家たちが最も注目した作家のひとりが、モハッシェタ・デビさんだ。「めこん」からはすでに1992年に『ジャグモーハンの死』が出版されている。ある時「めこん」の桑原さんに、モハッシェタ・デビの本を今度出すよ、と言ったら、「売れないよ」と即座に答えたのが印象的だった。それでも、とにかく、出した。昨年からノーベル文学賞候補にノミネートされているという情報もあったので、一応刊行は今年の受賞者発表までギリギリ待った。結果はご存知のとおり。でも、彼女の作品には、力が漲っている。その力で読者を広げてほしいものだ。
 日印作家キャラバンは、来る11月中旬、山形と東京で開かれるシンポジウムで一応の区切りとなる。インドから5人の作家が来日する。デビさんは高齢なので(1926年生まれ)来日しないが、5人はそれぞれベンガル語、ヒンディー語、英語の作家として、現代インド文学の担い手として活躍している人だという。その人たちとの出会いも楽しみだ。

 こうして、外国の著者・関係者との出会いが次々とあって、今年の夏は過ぎ、秋は深まってゆく。国内の著者・関係者との「出会い」も大事にしなければ、との思いも、あらためて深まる。

現代企画室の本の一覧

アメリカという国

 私は、戦後史の年月がほぼ自分の年齢に重なる世代だが、北海道の片田舎に生まれ育ったし、あまりに幼かったから、占領軍の米兵たちに出会ったり、チョコレートやチューイングガムをもらった記憶は残っていない。小学校に入ったころから、ターザン映画や西部劇の洗礼をたっぷりと受けて、面白がって、観た。アメリカという国と出会ったというより、面白い映画を観ていた、というだけのことだったろう。

 やがて、各地の米軍基地反対闘争を遠くから眺めていたが、高校時代に第一次安保闘争に出会い、「反米」感情をもった。大学に入って、「反米」意識の民族主義的偏向に気づき、帝国主義批判として、この問題を考えるようになった。ちょうど、黒人の公民権運動や先住インディアンの権利回復闘争が、暴動・占拠という極限的な形態でも展開されていた1960年代で、それまで知らず知らずのうちにも身につけていた白人中心史観を抜け出すに当たっては、この客観情勢の援助があった。

 黒人やインディアンや少数者の歴史・文学・音楽・映画などを通して、この超大国の欺瞞的な歩みを見つめておこうーーかなり長いこと、そう思い定めてきた。
でも、いつの頃からか、アメリカに住み、この国の大勢とは違う考えをもって生きている白人少数派のことが気になり始めた。アジア太平洋戦争への反省から、(憲法の定めとは裏腹に、自衛隊が強力な軍隊となって以降も)海外派兵だけはしないとしてきた社会的な世論が決壊し、国連の平和維持活動への参加が具体化したカンボジア派兵の時点であった。ここまできたら、戦争への加担は際限がなくなるだろうーー私はそう考え、20世紀は言うにおよばず、19世紀半ばから戦争に次ぐ戦争を重ねて富を蓄積してきたアメリカで、そういう国のあり方とは違う方向を求めている人びとの考えと生き方が、にわかに切実に迫ってきたのだ。

 その頃ちょうど、ベトナム反戦運動の時期に日本でも政治・社会評論が紹介された言語学者、ノーム・チョムスキーの、最近の政治評論を翻訳したいという人が現われた。ソ連の崩壊を見届けた戦後史の大転換期に、第二次世界大戦後のアメリカの対第三世界政策に厳しい批判的検討を加えた本である。喜んで出版した。
アメリカが本当に望んでいること』。1994年のことである。初版3000部だった。

 定価は1300円と安い本だが、売れなかった。2001年9月までの7年間に1700部くらいしか売れなかった。一年に一度原著出版社に行なう売上げ報告に対して、先方は「残念ですね(What a pity!)」と書いてよこしていた。

 「9・11」の直後から急に売れ始めた。一年半のうちに4刷りまできた。以前から計画していて、2002年春に出版したチョムスキー本『アメリカの「人道的」軍事主義』もすぐ2刷りになった。「テロ」に見舞われたからといって、世界の最貧地域に報復戦争と称して爆弾の雨を降らせる「論理」がどこから生まれるものか、人びとは知りたかったのだろう。内部からの強烈な「大国主義」批判者、チョムスキーの言論は、いろいろな示唆を与えてくれる、ひとは、そう感じたのだ。他の出版社も大急ぎでチョムスキーの本を出版するようになった。いまや書店店頭には、何冊ものチョムスキー本が並んでいる。

 イラクに対する攻撃を米英軍が中心になって始めた。アメリカの政権中枢には、1960年代とちがって、大統領補佐官ライスや、国務長官パウエルなどのように、黒人やジャマイカ移民出身の人間も入っている。黒人やインディアンや民族的少数者への、ヘンな「思い入れ」が可能な時代ではない。日本の首相も、真っ先に攻撃を支持すると言明した。はるかに小型だが、この国はますますアメリカに似てきた。

 自分の社会が、戦争や大国主義的ふるまいで世界中を掻き乱すことに堪えられない人間は、マイケル・ムーア言うところの「アホで、マヌケな、アメリカ白人」ではないアメリカ人と出会うことががますます重要な時代になった。チョムスキーは、まだしばらくのあいだ、読まれるだろう。

 それにしても、戦争や他人の不幸があってはじめて売れ始める本というのは、つくり手にとって、居心地のよいものではない。

娘(息子、子ども)と話す−−

四六判の左右を10数ミリだけカットした変型判で、新しい翻訳シリーズの刊行を始めた。フランスのスイユ社が数年前から刊行しているのが原書で、『娘(息子、子ども)と話すーー』と題して、専門家である親が、「国家のしくみ」「非暴力」「宗教」「イスラーム」「人道援助」「左翼」「愛」「死」「アウシュビッツ」「神」「レジスタンス」「文化」「先史時代」などについて、問答形式で語るというものである。いずれも、けっこう、世の中の難問と言うべきテーマである。それを、子どもたちが退屈しないように、簡潔に説明することが求められるのだから、翻訳しても、上の判型で100頁から120頁程度の、小さな本である。

このシリーズの「人種差別」については、1998年に青土社が『娘に語る人種差別』と題して出版している。著者がモロッコの作家、タハール・ベン・ジェルーンで、すでに紀伊国屋書店、晶文社、現代企画室、国書刊行会などから主要な小説・エッセイが紹介されてきているから、注目度もある程度は確立している作家だ。青土社にはシリーズとして刊行する意図がないようだし、内容的には、なかなか面白い試みだと思って、それ以外のものをいくつか出すことにしたのである。専門書、思想書、文学書を出版するのは、もちろん楽しいが、いつか子ども向けの本を出したいと考えていた思いに見合うものだった。
自分が子育てをした過程を思い出してもよいし、ラジオの「子ども電話相談室」での子どもたちの発問を思ってもよい。子どもというものは、思いもかけない発想で、事態の本質を衝くことばを発する。親・大人はたじたじとなり、答えに窮する場合もある。それでも答える方法を見つけるために、大人は真剣に試行錯誤する。それが浮かび上がってくる作品ほど、読んでいて、面白い。答え方によっては、異論をもち、反論もしたくなる。著者から結論を押しつけられているというより、読者も、著者と娘(息子、子ども)の対話に参加していけるような感じがある。
すでに『娘と話す国家のしくみってなに?』『娘と話す非暴力ってなに?』『娘と話す宗教ってなに?』を刊行した。最初の本の著者は、レジス・ドブレ。私たちの世代にとっては、カストロやゲバラの武装革命論をまとめた『革命の中の革命?』の著者であり、ゲバラを追ってボリビアまで行って逮捕されたこともあるなど、けっこう数奇な運命をたどった人物だけに、いまどこに行き着いているかを知りたい欲求がある。『娘と話す宗教ってなに?』の著者はロジェ=ポル・ドロワで、版元ドットコムの会員社であるトランスビューが今年5月に出されたばかりの『虚無の信仰:西欧はなぜ仏教を怖れたか』は好評でよく売れているので、並べて展開してみるという書店もある。
いろいろと楽しみなシリーズなのだが、ここで生まれる問題は、定価の安さである。上に触れたような判型と頁数の本だから、定価はせいぜい1000円である。少し頁が多いもので1200円にできるかという程度。初版部数は2500部である。製作経費はもとより著作権料などを加算したら、仮に初版を売り切ったところで何ほどの「利潤」が生まれるかをいまさらのように計算してみて、絶句した。大手が手懸ける新書判や文庫判は初版数万部からスタートすると聞いてきたが、その意味が、あらためて身にしみてわかる。しかし泣き言を言っても仕方がない。世の中の難問と思想的に格闘してみようと考える、いまどき珍しい若者とこれらの本が出会うことができるように、いろいろな試みをしてみようと考えているところである。

アフガニスタンについての本の成り立ち

 映画と出版を組み合わせて文化的な大事業を展開してきたK書店やT書店のひそみにならうなどというのはおこがましい。私たちの場合は出版も小規模、映画(上映および製作への部分的な参画)もまた手づくりに近い小規模な形での関わり合いなのだが、機会があればこのふたつの文化表現媒体を絡ませた形での仕事 を続けて、20年近く経った。映画との関わりというのは、南米ボリビアのウカマウ集団の映画の自主上映と共同製作なのだが、それに関わり合いながら発想した本の企画は、歴史・ラテンアメリカ文学など、けっこう多い。昨年は監督のホルヘ・サンヒネスを招請し、全作品上映を手がけたこともあって、映画関係者との付き合いが深まった。http://www.shohyo.co.jp/gendai/ukamau/

 監督を招いて、小映画劇場とはいえ1ヵ月間ものあいだ全作品を上映するとなると、宣伝などの実務はたいへんなものになる。昨年の秋から冬にかけては、多忙をきわめた。そして、その道のベテランとの共同作業で、新しいことをずいぶんと学んだ。宣伝の任務を手際よくやってくれたグループは、2001年から02年にかけては、イランの映画監督モフセン・マフマルバフの新作『カンダハール』の上映に関わると、以前から言っていた。彼の作品は日本では2000年にはじめて公開され(『パンと植木鉢』『ギャベ』など)好評を博していた。カンダハールと聞いても、まだピンとこなかった日々は、ついきのうのことだ。

 「9・11」の事件が起こり、「報復戦争」が呼号されて、これから世界はいったいどこへ向かうのかと不安な気持ちを抱えていた9月下旬、あの映画宣伝担当の人から、小冊子が送られてきた。「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」と題されたそれは、『カンダハール』を撮り終えたばかりのマフマルバフの文章を翻訳したものだった。2001年3月、アフガニスタンのターリバーン政権によって、偶像崇拝はよくないとの理由で行なわれたバーミヤンの仏像破壊は、日本でも大きく報道されたが、マフマルバフの文章がその事件を暗喩していることは明らかだった。
 私は、バーミヤンの仏像破壊について、自分でも小さな文章を当時書いたこともあって、(http://www.shohyo.co.jp/gendai/20-21/2001/daibutu.html)興味津々、彼の文章を読んだ。そのころはすでに、米軍がいつアフガニスタンへの爆撃を開始するかということが、メディアの話題になっていた時期である。カンダハールという地名も、米軍が「敵」と定めたアルカイーダの兵士や、もしかしたらビン・ラーディンも姿を潜めている場所として取り沙汰されるようになっていた。
 世界最強国の大統領が「やるぞ、やるぞ」と言い、多くの国々の政治指導者や軍事指導者がそれに無批判に追随している以上、世界中がよってたかって最貧国を攻撃するという、信じがたい戦争が差し迫っていることは明白だった。あまりのことに呆然としながらも、この愚かな行為を批判するためのどんな小さなことでもやる必要があると思えた。そんな気持ちの時に、そのマフマルバフの文章に出会ったのだった。アフガニスタンの隣国イランの人であるマフマルバフは、『カンダハール』以前にもアフガニスタンをテーマとする映画を製作しており、外国軍の侵略・内戦・飢餓・旱魃ーーと、長いこと隣国の人びとに襲いかかっている苦しみのさまを、内部から見る視点を備えている。もちろん、イランの知識人が外部からなしているアフガニスタン「解釈」ではあるのだろうが、それだけ言って片づけるわけにはいかない、表現の切実さをもつ文章だった。上に引いた表題に彼が込めた意図は、「ついに私は、仏像は誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は、恥辱のために崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人びとに対し世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないことと知って砕けたのだ」というものだった。この文章は、バーミヤン仏像破壊の直後に書かれており、当然にも「9・11」以前なのだが、俄かにアフガニスタンへの関心を外在的に高め、最悪の形でその国に干渉しようとしている世界のあり方をも射抜いてしまうだけの、批判の力をもつものだった。
 このような本こそが求められていると思い、緊急出版したいと考えた。翻訳者や映画『カンダハール』の配給担当・宣伝担当の人たちと相談した。マフマルバフの意向も尋ねたうえで、緊急出版が決まった。突貫作業を行ない、1カ月半後の11月20日過ぎには書店の店頭に並ぶことになった。
 発売後しばらくして、知り合いの大学生協の書店員から電話があり、すぐ売れたので追加注文したいと言ってきた。「いろいろ出ているけど、やっつけ本や戦争を煽る本ばかりで、そんなに売れてないよ。この本とチョムスキーの本(文春から出た『9・11 アメリカに報復する資格はない!』のこと)くらいじゃなにの、本当に売れていくのは」。
 売れているとはいっても、宣伝力のない私たちのこと、大出版社の本からすれば、ささやかなものでしかない。でも、米国大統領や日本の首相をはじめ政治家の言動に「否!」と言いたい人びと、マスメディアの一方的な報道に不信感をもつ人びとの手に確実に届ける努力をしたいと思う。

 それにしても、本というものは、人と人の繋がりのなかで発想され、出来ていくものだということを、あらためて実感する貴重な経験だった。