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覚悟めされよ!!

 イラクでのアメリカ兵の死者が2000人に達した。今日(10月26日)のウェブ版『ワシントンポスト』は米国東部の田舎町での戦死者(複数)の家族をレポートしている。記事にはブルーリッジ・マウンテンとかサスケハナ川のような地名がちりばめられている。ブルーリッジ・マウンテンはジョン・デンバーの「カントリー・ロード」の歌詞に出てくるし、サスケハナはペリー艦隊の旗艦の名だ。なんとなく知らないところという気がしない。→記事

 この田舎町出身で戦死した若者は、カレッジへ行くために州兵に応募したのであって前線に行って戦うなどとはもうとう考えていなかった。 (さらに…)

残暑お見舞い申し上げます。

 「酷暑」「豪雨」「販売不振」の夏ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。日頃は心の奥底にオモリをつけて沈めていたことどもが、暑さに灼かれて煮立ち、沸騰してしまったようです。沸騰すればこぼれるのが自然の理。暑いときには熱いものが良いとも言います。暑気払いにはならないかもしれませんが、ご一読いただければ幸いです。

(1) 日本語
 日本語では、組織に「様」「さん」はつけない。出版社様(版元様)、書店様、取次様が飛び交う奇っ怪な業界だが、読者様とはなぜか言わない。この世界に入ってしばらくして、初めて「取次様」という言葉を聞いたときの衝撃は、今でも忘れない。とにかくたまげた。やめよーぜ、こういういいかげんな日本語を使うのは——って言いたいけど、ま、みんなおかしいってことに気付いてないようだから、今さら何を言っても屁の突っ張りにもならないだろう(もっとも、最近テレビで「UFJさん」て言ってるどこぞの大銀行の社長もいたナ)。

(2) 本の定価
 どうやら3年以内に消費税が上がることはまちがいない。その一方、スーパーなど小売店での価格表示は、すでに消費税込みの総額表示になっている(大蔵省の役人の高笑いが聞こえてきそうだ)。しかし書籍の価格表示は外税表記が、論理的かつ実用的だ。ここのところを読者のみなさんにはぜひ、理解していただきたい。
 本の価格は私たち出版社が決めて書店での販売価格を拘束している。この価格を「定価」で表記する。定価は本のカバーに刷りこんであるので、簡単には変えられない。しかし「定価2000円+税」という表記なら、消費税の変更には影響されない。また、消費税は言うまでもなく出版社が拘束できるものではないから、定価に含めるべきでない。財務省がなんと言おうと、これ以外に合理的かつ合法的な表記はない。
 むろん、こうした例外規定に守られている私たち出版社は、小売価格をできるだけ安く設定し、安易な値引きはしないという、倫理的・道徳的な義務を負っている。肝に銘じたい。
 とはいえ、一定の条件内で値引きをすることは、法的にはなんら問題ない。食えなけりゃどうしようもないじゃないか、食うためには道徳なんてくそ食らえだ ——って言うのも、ま、それなりの考え方ではある。でも、安いから買うってもんじゃないと思うけどなぁ、本の場合は。

(3) 常備と返品
 岩波書店が考え出した方法が、現在の出版界の規則になっていることがずいぶんある。そのうちの一つが「常備」だ。出版社が書店と契約を結んで書籍を書店に預ける。書店は原則として、1年後にその全数を出版社に戻す。書店は本を預かっているだけだから預かり分の代金を支払う必要はない(書店に並んでいる本は出版社の出先在庫であり出版社に所有権がある)。ただし、売れた本は必ず注文で補充する。釈迦に説法かもしれないが、このシステムは信義を守らなければ成立しない。書店は売れた本だけ金を払えばよく、出版社はとりあえず自社の本を書店店頭に並べることができる。互いにメリットがあるはずだ、ルールどおりなら。
 ところが書店によっては、意図的か不注意かは分からないが、常備書籍を注文返品で返すところがある。あろうことか、「常備って返品できないんですか?」という電話を受けたこともある。ルールどおりに返品をするなら文句はない。注文返品とは、出版社が書店から自分の書籍を定価で「買い戻す」ことだ。常備品を注文返品で返す(出版社に買い取らせる)って——万引きとどこが違うの?
 去年、常備を出荷するときちょっと細工をしておいた。1年常備で出荷した本がその年の常備返品にどのくらい混入するものか調べてみた。取次上位三社のうち二社の返品を全数チェックした。結果は、16%と19%。つまり、その年の常備出荷のうちの五分の一近くは「即返品」になっていた。

 信義だとか道徳だとか倫理だとかは、「イット」や「神の国」発言で有名な早大ラグビー部出身の元首相が口にしそうな言葉だが、他人に強いるのは問題外だが自分の問題としては真剣に考えてみる必要がありそうだ。

ゲリラか夜盗か

 2001年5月の本欄にこんなことを書いた。
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——略—— 新聞やテレビでは小泉純一郎・新総理の誕生や、教科書問題など、話題に事欠かない。小泉純一郎の言動たるや「フライ級右翼」といった感じでなんとも危なっかしい。
 それでも80パーセント以上もの日本人が小泉政権を支持しているという。
 「自衛隊容認」「靖国神社参拝」「憲法改定」を主張する首相。しかもそれをバックアップする政権党の幹事長は元・防衛庁長官の名うての改憲論者だ。いったいいつの間にこんなことになっちゃたんだろう。
 唯一はっきりしてきたのは、自衛隊が軍隊だという共通認識だ。軍隊は憲法上認められていないから、漸次廃止とするのか、それとも改憲して「普通の国」になるのか——おそらくこの1〜2年で決着がつくのではなかろうか。クラウゼヴィッツの言うように、戦争は政治の一手段にすぎないのだから、「普通の国」は普通に戦争をする。
 20世紀の実例を見ても、戦争は常に「防衛」の名目で始まっている。「侵略」を掲げて戦争する国などない。
 パソコンの前に座っている若者諸君、これでほんとにいいの? 戦争に行くのは君たちだよ。
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 改憲論者の幹事長は女性スキャンダルにまみれて落選したが、小泉の戦争参加の意志は揺るがない。

 ちょっと考えてみた。かつて伊藤博文がハルビンで安重根に殺されたとき、安はテロリストとして逮捕され死刑に処された。しかし安重根は現在の歴史書では、テロリストではなく愛国的民族主義者だ。また、日本軍が中国を侵略したときにゲリラ戦で抵抗した民衆を、日本は「赤匪」と呼び盗賊・強盗扱いした。そのときに戦闘を指導したのは毛沢東であり、その戦術的根拠を「持久戦論」に書いた。
 米英占領当局に出向していた2人の外交官がイラクで殺されたと、き小泉がまず言ったことは、「夜盗・盗賊のたぐいかもしれない」であり、その後「テロだ」と強調し、「テロに屈するわけにはいかない」と力んでいる。
 そうなんだろうか。どうみても、アメリカはイラクを侵略し、ゲリラ戦に巻き込まれて四苦八苦している。かつての日本の姿がここに重なる。
 今度の派兵決定に際して、小泉は日本国憲法前文を根拠とした。憲法学者の古関さんの表現を借りれば、まさに「奇想天外」なこじつけだ。

 ね、小泉さん、X-JAPANやオペラなんか聞いて司馬遼太郎に感心してる場合じゃないでしょ。もちっと歴史を勉強したほうがいいんじゃないの? 兵士たちは死んじゃうんだよ! 拉致家族が一家四散の憂き目にあっていることだって、あんたの責任なんだよ。どー責任とるのさ。

 パソコンの前に座っている若者諸君、これでほんとにいいの? 戦争に行くのは君たちだよ。

韓国映画回顧上映会開催

「韓国映画——栄光の1960年代」と題する回顧上映会が来る11月6から12月25日まで、東京・京橋の東京国立近代美術館フィルムセンター(中央区京橋3-7-6)で開催されます。ほとんどすべての映画が本邦初公開という、韓国映画フリーク必見の画期的なイベントです。
 凱風社は昨年末に、韓国映画百年の歴史とそれにまつわる現代史やエピソードを織り込んだ『わがシネマの旅——韓国映画を振りかえる』(扈賢贊・著、根本理恵・訳、四六判504ページ、定価3300円+税、ISBNisbn978-4-7736-2603-2)を刊行しました。
 本書を読むと、韓国映画のルーツは何か——が分かってきますが、韓国映画の参考書というより、韓国映画界に半生を捧げて活躍してきた著者だからこそ書けた極上の「読み物」になっています。
 今回の上映会では、韓国映像資料院元院長の著者・扈賢贊(ホ・ヒョンチャン)氏がフィルムセンターの招きで来日し、11月6日に記念講演を行います。
 この機会に韓国映画の歴史を読んでみたいという方は→【版元ドットコムの頁】からお買い求めください。
 なお、本書は上映会場でも販売いたします。この機会に、ぜひご高覧ください。

【2】新刊『グローバル経済と現代奴隷制』の書評がbk1の書評サイトに掲載されています。ご覧ください。

ウイルスにやられた!!

 11月27日の朝、いつものようにパソコンを起動し、メールを見た。例によっていろいろなメールが、知人、著者、見知らぬ人から入っていた。おかしなメールがあればいつもは、即棄てているが、この日はどういうわけか、一つのメールに変にこだわってしまった。

 そのメールは題名がなく添付ファイルがついている「典型的な」アヤしいメールだ。ただ、なにかわからない文章が本文にある。メール初心者の著者などがときどき「文字化け」したメールを送ってくることがある。おまけに前日、メキシコから本のまとめ買いの問い合わせがあったのだが、最初のメールはひどい文字化けをしていた。

 そんなことが頭にあったせいか、そのアヤしいメールを開いていろいろな言語でエンコードをやってしまった。しかし結局、文字化けは直らない。むろん添付ファイルは開いていない。ここでやめて削除すればまだ助かったかもしれない。ところがよせばいいのに「文字化けしてメールが読めません」と書いて「返信」してしまった。

 そのあとは「大騒ぎ」。知人から「オカしなメールが入った」という電話がジャンジャンかかり、あわててメールを開けてみると宛先不明のリターン・メールが山のように届いている。閉じて開いて2回で合計37通入っていた。アドレス帳のみなさんには、すぐにお詫びと削除依頼のメールを書いたが、結果はどうだったのだろう。

 ここでやめればまだよかった。すっかり頭に血がのぼって冷静さを失っていた私は、パソコンのウィルス防止ソフトのアップデートをはじめた。インターネットでその会社のサイトにゆき、最新バージョンをダウンロードする。アセっている私は、ほとんで説明を読まずにクリックを続けた。ダウンロードプログラムが動き始めたが、20分も30分も動き続けているうえに、ダウンロードと同時にアップロードもしているようだ。ここでまたバタバタしてしまった。

 パソコンをいったん閉じようとすると、突然、「バージョンアップをするには再起動が必要」というウィンドウが開いた。「あっ、うまくいったんだな」と安心して再起動——するはずだったのに、どういうわけか再起動しなくなってたパソコンは今、私の机の上で昏倒したまま突っ伏して寝ている。

 チキショウ、犯人を見つけたらただじゃおかないぞ。姿をかくして不特定の人に多大な迷惑をかける。じつに卑劣千万な犯罪行為だ。

五月雑感

書店からの電話注文も減ってきたので会社で現在使用中の電話4回線のうち1回線を閉鎖した。とたんに、パソコンのモデムが外線につながらなくなった。営業代表と編集代表とファクス専用回線は残したのだが、どうやら直接モデムにつながっている回線を閉鎖してしまったらしい。
 凱風社の場合、電話はNTTだがPBX(構内電話機)はNEC製だ(大塚商会から買った)。そのため、問題が起きたときにその故障が誰の責任だか、いつもはっきりしない。
 昨年、隣の事務所の水道管破裂で事務所が冠水し、しばらくして電話の調子がおかしくなったことがある。そのときも、事務所の壁の外まではNTTだが事務所内は凱風社(つまり、大塚商会+NEC)の責任だという。回線がダウンしていることはNTTでも確認できた。でも、それがどこなのかは分からないという。そんなこと言ったって、電話線はつながっているんだから責任関係はそちらで解決してくれ——とクレームしたが、どちらに電話してもラチがあかない。結局、NTTが壁の外までを確認し、大塚商会が事務所内の回線をチェックし、最終的には、事務所内の中継器が水濡れで絶縁不良になっていることがわかった。
 NTTから二人、大塚商会から一人が来て、ああだこうだとチェックした。でも、そんな大事だったのだろうか。
 今回は、経済的理由から電話を1回線単純に閉鎖したかったのだが、電話回線の閉鎖は即座にできたもののメールもインターネットも使えないというありさまだ。
 このままいくと、コンピュータや構内回線に問題が起こっても誰に責任があるのかわからず対応が遅れるというケースが頻発しそうだ。こういうトラブルって、凱風社だけの特殊なケースなのでしょうかね。

 さて、この連休中は事情があって本を読む時間がなかった。しかし新聞やテレビでは小泉純一郎・新総理の誕生や、教科書問題など、話題に事欠かない。小泉純一郎の言動たるや「フライ級右翼」といった感じでなんとも危なっかしい。
 それでも80パーセント以上もの日本人(「国民」という言葉は使いたくないので)が小泉政権を支持しているという。
 「自衛隊容認」「靖国神社参拝」「憲法改定」を主張する首相。しかもそれをバックアップする政権党の幹事長は元・防衛庁長官の名うての改憲論者だ。いったいいつの間にこんなことになっちゃたんだろう。
 唯一はっきりしてきたのは、自衛隊が軍隊だという共通認識だ。軍隊は憲法上認められていないから、漸次廃止とするのか、それとも改憲して「普通 の国」になるのか——おそらくこの1〜2年で決着がつくのではなかろうか。クラウゼヴィッツの言うように、戦争は政治の一手段にすぎないのだから、「普通 の国」は普通に戦争をする。
20世紀の実例を見ても、戦争は常に「防衛」の名目で始まっている。「侵略」を掲げて戦争する国などない。
 パソコンの前に座っている若者諸君、これでほんとにいいの? 戦争に行くのは君たちだよ。

占領下の日本に生まれて

 最近続けて5冊の文庫・新書を読んだ。『新憲法の話』(古関彰一、中公文庫)、 『侵略戦争』(纐纈厚、ちくま新書)、『日本海軍の終戦工作』(纐纈厚、中公新書)、『戦略爆撃の思想』(上下、前田哲男、社会思想社文庫)だ。前田さんの『戦略爆撃の思想』は親本で読んでいたが、自宅の本棚に見当たらず、改めて文庫を買っ た。

 いずれの本もとても面白く、さすがに「寝食」は忘れるほどではなかったが時間を ひねり出して一気に読んだ。それぞれの内容についていちいちここで触れる余裕はな いが、自分の生きてきた時代について考えるのに山のような示唆があった。

 3月は、子供のころからなんとなく戦争のことを考える季節になっている。私は 1947年に生まれた。3年前に死んだ父は、「学徒動員」で1944年に中国戦線へ軍医と して出征している。父の父すなわち父方の祖父は、東京・深川で医者をしていたが、 父が戦場にいるあいだに東京大空襲で死んだ——というか1945年3月10日以降、現在 までずっと行方不明のままだ。でも、私に戦争の実感は当然ないし、会ったことも触 れたこともない祖父に、肉親の情のようなものはほとんど感じたことがない。前田さんの『戦略爆撃の思想』からすると、重慶への日本の戦政略爆撃の延長線上に米ルメ イ将軍の対日戦略爆撃の思想がある。してみると、私の祖父は日本が考え出した「戦略爆撃の思想」によって殺されたことにもなる。

 ドイツの同世代と違って、私たちの世代は父親たちの戦争責任を追及することがで きなかった。こうした責任が問われないまま半世紀が過ぎるうちに、現代の若者たち のあいだになにやらドス黒いナショナリズムが広がっているようだ。台湾から入境拒否までされる「よしりん」のマンガのどこにそんな説得力があるのだろうか。また、 扶桑社の教科書で教育される子供たちの将来も心配だ。現在読んでいる『天皇の戦争責任』(径書房)のなかの橋爪大三郎さんの言説にも、時代錯誤的な異様なものを感 じる。

 出版界の現況と同じで、どうも明るい未来は見えてこない。このへんにくさびを打ち込むような本を出してゆきたいと考えている。

 まだ書きたいことがあるが、長くなるのでまたこの次の機会に。

 ところで、先週の矢野さんの記事について一言。

 矢野さんは、「すべての表現は一切の公権力から自由でなければならない」という が、私は「公権力への批判には完全な自由が保障されなければならない」という立場 をとる。私的な存在・関係に関する表現の自由が無条件に認められているとは考えて いないからだ。

 むろんこれは、「規制」を容認するという意味ではない。あらゆる検閲・「自主規制」・出版表現の制限には反対だ。

 暴力にしろ、殺人にしろ、ポルノにしろ、どんな表現をするかは、要は、表現者の 個人としてのモラルと責任の問題だ。したがって、いったん本になって、あるいは映画として、世の中に出てからの批判・非難・反論は当然ありうるし、また、表現者にはそれを受けとめる責任がある。

本の価格について

 読者の皆さんが意識することは少ないと思いますが、本の価格は「定価」と表示されています。「定価」とは、出版社が本の小売価格を決定し、北海道から沖縄まで全国どこでも同じ価格で本が提供されているということを意味します。運賃格差や手数料もありません。

 ふつう、メーカーが小売価格を拘束しようとすれば、独禁法違反で訴えられます。メーカーによる小売価格の拘束(再販価格)は「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」(独禁法)によって禁止されているからです。しかし出版など著作権の行使にかかわる行為は、その適用から除外されています。

 出版社が小売価格を決定し、それが一貫して守られているからこそ、長期にわたる販売を前提とした出版が可能になりますし、少部数高定価の書籍を少数の読者を相手に出版することも可能になります。つまり「表現の自由」と多様性を経済面から保証しているのが、出版物の「再販適用除外」です。

 この制度がいま、危機に瀕しています。

 アメリカ流「グローバル・スタンダード」と「自由競争」(じつは「弱肉強食」の論理)を信奉する学者などは、本の再販適用除外は廃止しても良いと言い出しています。

 私たち出版社は、出版物を企画し、製作し、販売価格を指定してその書籍を世の中に流通させる立場にあると同時に、本好き、つまり本の「ヘビー・ユーザー」の集まりです。言い換えれば、出版物の価格にもっとも敏感な人間が出版社を運営しているわけです。だからこそ、少しでも安い価格の本にしようと、各出版社は血のにじむ努力を続けてきました。

 書棚にある昔の本の値段を調べてみました。30年前の1970年に刊行された勁草書房の「抵抗文集」シリーズは、各250頁から300頁前後の上製本で500円から600円でした。このシリーズは上製本で、業界流に言えば人文専門書です。当時、初任給は4万5000円くらいでしたから、1冊の値段は初任給の1.2%に当たります。同じ企業の2000年度の初任給をインターネットで調べてみると20万円弱、その1.2パーセントは2400円です。いま、流通している同じような書籍の価格もこんなものでしょう。出版社は書籍の小売価格を拘束してきましたが、過去四半世紀以上にわたって、本の値段は相対的には高くなっていません。

 一方、本の価格を自由化して市場にまかせたらどうなるでしょうか。アメリカにその例があります。

 大幅値引きで大量販売をする巨大ナショナルチェーン(ネット書店も含め)がある一方、値引きをほんとんどしない多くの独立系の一般書店があります。ベストセラーやタレント本は数十パーセント引きで売られる反面、大部分の専門書は値引きせずに売られています。しかし出版社は値引き販売に対応できるよう、カバープライスを高めに設定してきたため、本の平均価格は年々上昇してきました。

 マスセールスに乗らない本の刊行も年を追って困難になってゆきます。ほんとうに、こういう状態が望ましいのでしょうか。書籍の再販禁止適用除外をはずすメリットはないと思いませんか?

 日本の公正取引委員会はこの3月に、書籍・新聞の再販価格を継続するかどうか決定を下す予定です。

●公正取引委員会→http://www.jftc.admix.go.jp/