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福祉と地域とワタクシと……

 先日、多摩市へとはじめて行った。新宿で小田急線に乗って新百合ヶ丘で乗り換え。こんどは多摩線に乗って小田急永山という駅で降りる。こういってはナンだが、ずいぶんと田舎に来てしまったカンジだ。ホームのわきに生えていた草が、風に気持ちよさそうにゆれていた。この日は、駅からすぐ近くの市の施設で、多摩市の「バリアフリー福祉マップ」の完成報告会があった。わたしはそれに参加したのだ。

 会場には、もうすでにたくさんの人が集まっていた。小さな体育館のような会場に50名ほど。予想していたよりずっと多かった。年齢的には、若い人から年輩の方までさまざま。車いすに乗った人のほかに、視覚障害や聴覚障害をもった人たちも来ていた。わたしの目的は、この報告会にパネリストとしてよばれたウチの著者と会うことだったが、じっさい参加してみると、マップ作成の経緯を聞くのが面白かった。
 というのも、以前わたしたちもバリアフリーマップをつくろうと試みたことがあったからである。わたしたちというのは、いま住んでいる中野区のボランティアグループのことだ。けっきょくその企ては、かけ声だけで終わってしまったが、実現していたらと思うとちょっと口惜しい。われわれの夢のような企てに対し、今回の多摩市の場合は、市民グループが中心となって、市の委託事業として行なわれたと聞いている。したがって、予算も出たしスケジュールも決められていた。けれども実際には、炎天下に車いすでの実地調査からはじまって、慣れないパソコンによる版下作成まで、すべてが市民の手によってなされたのである。この意味は非常に大きい。

 では、「バリアフリー福祉マップ」とはいったい何なのか? という人のために、簡単にマップの解説をしよう。
 冊子の「はじめに」には、こう記されている。「今回のバリアフリー福祉マップでは、障がい者や高齢者が、自宅から目指すお店や施設に向かう経路上にあるバリアポイントと、目的地の入口の状況や、トイレ・エレベーターなどの様子を図や写真を使って示しました。」じっさいには、バリアのとらえ方にもさまざまあるが、大きく段差型バリア・勾配型バリア・サイン型バリアの三種に分類して表示。さらにエリアも、多摩市を通る鉄道の駅を中心とした三つの界わいに分けて、それぞれ詳細な情報を載せている。これは、ハッキリいって眺めているだけでも十分楽しめる内容だ。加えて巻末には、車いすで行ける医療機関マップ・公共機関マップ・障がい者優先トイレマップを掲載、いざという時すぐ使える仕組みになっているのもウレシイ。
 じつは「福祉マップ」はこれだけにとどまらない。まちの姿は刻一刻と変わっていく。これらの情報を着実に更新していくために、そして、情報を詰め込みすぎて逆に重くなって扱いにくくなってしまった印刷物の呪縛から逃れるため、この「福祉マップ」を近々ウェブ上でも公開する計画があるというのだ。そうなれば、自分が見たい箇所だけをプリントアウトする、という使い方もまた可能になる。これも編集委員の人たちが、苦労しながら自らの手でデジタルデータを蓄積してきたからこそ出来ることだ。正直スゴイと思う。

 ところで、福祉と地域はよく一体であるといわれる。わたし自身、学生時代にボランティア活動をしようとした時に、いま住んでいるまちでやりなさいと勧められた。確かにそれ以降、中野区に対して多少の愛着がわいたような気もする。といっても、区という目に見えないナニモノかではなく、何らかのカタチで自分と関わったここに住む人たちに対してではあるが……。しかしながら就職以降、この中野の家には寝に帰っているような有り様で、例のボランティアグループにもついぞ顔を見せなくなったしまった。中央線は、夜1時まで走っているので安心して外で飲むことができ、ますます家に帰ってくるのが遅くなる始末だ。こうなってくると、せっかくの休日に、朝っぱらから勢いよく精米器を回す向かいの米屋に対してもウラミをいだくようになり、とても地域社会にとけ込もうなどという殊勝な考えは浮かばない……。
要するに——と、わたしは帰りの電車を待つ駅のホームで考えた。要するに、今日わたしはこの報告会に参加して、マップを作成した彼等の熱意と実行力に圧倒され、また深く感動しながらも、心のどこかで彼等をウラヤマシイと感じずにはいられなかった。というのも、福祉と地域が一体であるように、彼等もまた多摩と一体であるように、わたしの目には映ったからだ。彼等の“多摩で生きる”という決意は、むしろ潔かった。それに較べ、わたしはいずれ引越してしまうだろうし、そのことは自由なようでいて、じつははなはだ心許ない感情を伴うものである。しかし、いまの自分には、地域との結びつきより仕事に精をだす時期なのかも知れない。それに仕事を通して、今日出会ったような人たちと同じ熱気を共有できる想像力を持てることは、やはりシアワセなのかも知れないなァと思いなおした。

 それにしても、いつか著者に「福祉と地域」というテーマで書いてくれと依頼する時のため、わたしは、いまのうちに向かいの米屋とヨリを戻しておいたほうがよさそうだ。でないと、どうしてもヤマシイ気がしてしまう。

南アジア学会 in 金沢

 10月6、7日と金沢で「南アジア学会」があった。私はそれに参加してみて、専門書の出版についていくつか考えさせられた。以下、そのことについて述べてみたい。

 ひとつ目は、国内で比較的読者をえにくいこの分野では、自分の研究の成果を日本語ではなく英語で発表して、世界に向けて出版したいと考えている研究者が少なくないということである。
 私にそのことを教えてくれて、日本でそうした出版形態をおこなった場合、流通問題に関して強力な相談相手となるであろうインドのManohar書店を紹介してくれたのは、拓殖大学教授の坂田貞二先生である。先生は、私の大学時代の恩師の大先輩にあたる方で、学生時代にその著作にはずいぶんお世話になったものの、お目にかかるのは今回が初めてであった。また、先生は若き日、出版社にお勤めになられていたこともあり、教員になってからも出版には並々ならぬ情熱を注いできたようで、出版事情に非常にくわしく、本の製作費や刷部数についてかなり突っ込んだ質問をして、私は冷や汗をかかされた。
 またManohar書店のほうは、ニューデリーに事務所をかまえる書店兼版元である。社会科学系の出版社のなかではインド1位なのだそうだ。今回の日本のみならず、世界各地で開かれる「南アジア」関係の学会に直接足を運び、会場で自社の出版物や他社の関連書籍を販売している。インド自体、英語が公用語のひとつであることもあって、Manohar書店では、当初よりマーケットは世界であったようだ。自社の出版物とインド国内の有力出版社の本を海外に紹介するほか、自社本の著者についてみてみると、国内の研究者のみならず日本、ヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリア等じつに様々である。さらに、海外の出版社との共同出版の実績もあって、もちろんその販売代理業もおこなう。じっさい、学会期間中もManohar書店は非常に繁盛していた。

 ふたつ目は、この学会所属の研究者は、デジタルデータの扱いに関する意識が非常に高いことである。インドがIT大国だからであろうか。(じっさい、公用語だけで18を数えるこの国の言語を、どのようにコンピュータ上で表示させるかという多言語処理に関する研究発表があった。)いや、それよりもあまり販売の見込めないこの専門書の分野で、著者なりに製作コストに敏感にならざるを得ない現実があるのでは、と私はひそかに思った。
 具体的には、著者が出版社に原稿を提出する場合、FD等におさめられたデジタルデータと紙に打ちだされたハードコピーの両方を渡す。デジタルデータのほうは、例えばWordで作成したものであっても、テキストにおとして保存したものを送る。そしてハードコピーのほうには、テキストで表示できない文字やレイアウト上の注意を赤字で書き込む、といった基本的な事柄だ。

 この出版の第一歩であるデジタルデータの作成に関して、著者側と出版社側でなかなか意思の疎通がうまくできていないのではないか、と私はずっと思ってきた。これは著者の責任というよりも、むしろ出版社の責任だろう。今回、会場で何人かの方とこの問題について話してみて、テキストなんて当然ですよ、とみな口を揃えて言うのにおどろき、さらには、そのまた何人かは、TeX(テフ)を使って英語論文を書いているという方までいて、文科系なのにスゴイ、と私を仰天させた。そして、なぜ出版社のほうではデジタルデータの作成に関してこうしてくれ、ああしてくれと何も言ってこないのか。そんなことは些細なことなのだから、どんどん言ってくれて構わないし、むしろそうした部分に労力を使ってでも、これまで採算ベースに乗らなかったような企画が実現すれば、そのほうがずっといいだろう、という注文を受けた。おっしゃるとおりである。

 学会がおわった翌朝、ホテルから犀川まで歩いてみた。15分くらいの距離である。香林坊の交差点にはなぜか渋谷と同じ109が。そこを曲がって、金沢随一の繁華街片町の商店街をぶらぶら行く。途中、九谷焼をおいた店や金箔をあしらった和紙をかざった土産物屋のまえを通りすぎる。人通りはまばらで、金沢という街自体、とても小さくてきれいな印象をうける。ほどなく犀川にほとりにでたが、これも小さくてきれいな川だった。金沢らしい、と思った。