有害でナニが悪い!
『完全自殺マニュアル』(太田出版)を「不健全」指定にして販売に規制をかける東京都の執拗な動き、その審議機関は自殺ばかりか犯罪一般をあつかった出版物までをも規制しようとする答申案を提出、あるいは記憶に新しい映画『バトルロワイヤル』を「上映中止にしてほしい」などと平然と公言する政治家、さらには、テレビ・ラジオ放送を対象に青少年への影響を口実とした規制法案の提案、数年前には「無垢な子どもたちに悪影響を与えるから」を押し立てたコミック規制……。不況だ、森総理退陣だ、といっているうちに、いつの間にか「有害」を口実とした法律・条例による規制が大きく動き始めている。これに対して「憲法で禁じた検閲であり、言論・出版の自由への抑圧だ」というとすぐに、「そんなこと戦前の話だよ」と反論があるかもしれない。あるいは、「規制は必要だ」という意見もあるかもしれない。しかしそれらは、あまりにも政治の力学に無垢だといわざるをえない。
自殺者の手元に『完全自殺マニュアル』があった事例はあるし、インターネットには自殺サイトもある。あるいは、殺人の具体的な方法を明らかにした書籍や雑誌もある。放送でいえば、この50年間、規制に継ぐ規制にさらされてきたし、テレビの暴力シーンなどを突破口に番組全体ににらみをきかせようとしているのは明らかだ。
だがしかし、そもそも有害ではない表現というものがあるのか。書籍・雑誌、テレビ・ラジオ、身体表現、歌、演劇、映画……。人の魂を揺さぶり、感情をかき乱し、決意を迫り、失意に突き落とし、一時的にではあれもう一人の自分を気づかせる表現こそが「おもしろい」作品ではないのか。自殺にしても、その善悪は措くとして、そもそも自殺を願望していた人にとってはその手段を教えてくれる書籍などは、百万巻の哲学書よりも有益であったのだ。あるいは、時の政府の失政を自分に代わって斬ってくれる番組を支持する、暴力を描くフィクションのカタストロフィーで精神の均衡を得る。
こうした精神の高揚を否定することは、人間存在そのものを否定することでしかないのである。
ただし、一つだけ注意しなければならないのは、「そんな有害で俗悪なものがあるから、私たちが作っている有益で社会的なものまでもが規制されるんだよ」という、同じ陣営からの転倒した批判、いわば後ろから弓を射る行為に対してである。繰り返すが、あらゆる表現は等価である。医学書のようなポルノ写真集が一冊の宗教書よりも心の平安をもたらしたり、観念的な文学が社会の問題を突く映画などよりも強力に自分の生き方に影響を与えたり、そんなことは私が言うまでもないことだ。しかし、この等価であるという本質が見えない連中は、まわりまわって規制派の隊列に並ぶことにもなるのである。
有害で、ナニが悪い!
私は、「すべての表現は一切の公権力から自由でなければならない」、と確信している。