「とにかく、本を売らなくちゃ」
おまえがうけてんじゃねえ、おれがうけてんだ!!「つかこうへい正伝」を読んだ。
著者は、長谷川康夫。
つかさんから「いいやつなんだけどなあ、背負えねんだよなあ、芝居を」というようなことを言われていた役者だ、そして、今は脚本家であり舞台制作者。
はまりましたよ、1979年立命館大学に入った春、サンケイホールで観た「いつも心に太陽を」。
和歌山国体水泳競技にエントリーしたスター風間杜夫、彼を愛しながらも、言葉には出せず、そっとよりそうしかないコーチに平田満。轟くスタートの銃声、他校の選手たちはいっせいにスタートすると、愛する風間のコースにかけつけんと、我先にかけつけんと殺到し、最後は一列になって風間の尻を見ながら泳ぐあのシーン、風間は風間で、後に続くみんなの思いにこたえんと、華麗なクロールの合間に、尻をぴょこんと跳ね上げる動作を入れる。
その所作でタイムが何秒遅れると思ってんだ!!平田は叫ぶ。
愛だよなあ、愛。
連れていってくれたのは、今は業界紙の社長をやっている松川君。
東京での浪人中、予備校にもいかず芝居三昧の日々を送っていたという話だった。
秋には、京都教育文化センターで「初級革命講座飛龍伝」、「広島に原爆を落とす日」を観る。70年安保闘争に敗れ廃人になった夫の父、平田満を養うために、石を拾い、学生たちに機動隊に投げるための石を売る女井上加奈子、彼女に思いを寄せ官憲からかくまう機動隊員長谷川康夫。祖国への愛を貫徹するために祖国に原爆を落とす宿命を負った白系ロシアの血を引く男風間杜夫、もうなにがなんだかわからない思いが頭の中をぐるぐる回る。
あの時、つかを観なければ、まっとうな公務員かなんかでお茶を濁しながら人生を全うできたのではないかと思う。
阪神淡路大震災の年1995年1月17日の前の日まで、週に一本は芝居を観る生活が続いた。
作りたかったよなあ、この本。
「つかさんが死んで心に決めたことがある、つかさんの情報をすべてシャットアウトすることだ」と書きながら、でも、かってつかさんのところで一緒にやっていた仲間に、「書いて」と言われて書いたと、本書の冒頭にある。
書くなら長谷川康夫だよな、そう思った。
なにしろつかさんの本は、つかさんの口述で長谷川康夫が書いていたのだから、有名なくちだて芝居の文字起こしをやっていたのも長谷川康夫。
僕には、長谷川康夫との接点はなにもない、ましてや、つかさんなんて遠くからですら見たこともない、ただ、観客だっただけなのだ。
それでも、悔しいな新潮社。100歩譲って、つかさんの本は角川書店でしょ。
いつかこうへいな世の中にしたい、これがつかこうへいの名の由来だというのが定説になっている。死んで、メディアにでまくっていた話だ。
「受ける」
この話は「受ける」
つかさんはそう思ったんではないかと、長谷川康夫は書く。
つかさんは、九州の片田舎から出てきて、一年の浪人生活ののち慶應義塾大学に入った。詩を書いていたそうである。その時のペンネームが、すでに、つかこうへい。
「友人の下宿の大家の名前がつかこうへいでよ」「角曲がったとこの表札につかこうへいと書いてあったのをもらったんだ」「二十歳の墓標の奥浩平からだ」「昔世話になった幼稚園の園長さんの名前がね」「電話帳繰ってたらいい名前があってさあ」しまいには「ちばてつやにあやかって」と言っていた時期もあったそうだ。
新作芝居を作らなくなってからのつかさんは、在日韓国人であることを前面に出し始めた。
「娘に語る祖国」
そうなんだよなあ、「受ける」から、いつかこうへいな世の中説を、つかさんが採用したんだというのはしっくりくる。
つかさんの本はたいてい読んだ、雑誌の記事も概ね眺めた。
そのほとんどは、「つくり」だったようなのだ、考えてみれば当たり前なのだ、最近取材に行った老舗は「100年前からこの地でお商売をやっています」とおっしゃっていた、ところが、たまたま別の取材で資料を読み込んでいると、100年前そこは池、羽合温泉の望湖楼のようにやっていた可能性がないわけではないが、そんなもんなのである。
「おもしろい」単なる思い付きから始まった話から、テンションがあがって、あがりすぎて、物語を破たんさせたという話も、本書には随所にでてくる、そして、なかったことのように見捨てる。役者も、劇団も、そして劇場も、なのに、時代の勢いが、次のステップにつかさんを連れて行くのだ。
あるよなあ、あります。はい、つかさんほどでないにしろ、僕も、腹の中からわいてきた何かによってつき動かされ、大変なことになるのは日常なのだ。そして、それが次のステップへの足掛かりになってしまう。
とまれ、やっぱり「受ける」がしっくりくる。
学生時代、出会う人に「実は在日なんだ」と試すように話し、金の名前で活動する役者に「むりしなくていいのに」とつかさんはつぶやいたという。
なんにしろ、爆発的に面白く、破滅的なスピードがあった時代だ。
そして、つかさんの単行本のタイトルではないが「傷つくことだけじょうずになって」いくことができる、そんな切なくて愛おしい時代でもあった。
取ってつけたように書くが、本は、置けば売れた。
「高円寺文庫センター物語」の原稿が送られてきた。
㏍ベストセラーズのホームページに連載されている、元祖カリスマ書店員高円寺文庫センター店長能川さんの原稿だ。
のっけから忌野清志郎の本が出た時、この小さな本屋さんでサイン会をやろうと思い立ち、ライブまでやらせて、商店街を人であふれかえらせたエピソードをかましてくる。椎名誠さんの昭和軽薄体を思い出させる文体だ、登場するアルバイトも多士多才、これもいまや伝説、テレビ番組イカテンに出るミュージシャンがいて、後にテレビ局の幹部になるものがいて、ほんでもって、もういろいろいるのである。なにより明るくてノリノリなのである。仕掛けて売る、売れたら仕掛ける、メジャーなんかメジャーねえとダジャレを飛ばしながら、有名無名にかかわらず目をかけ、時代とおっかけっこしていた本屋さんの姿が描かれている。
高円寺文庫センターは、今はもうない。
もうないというのが、そのまま今という時代なのかもしれない。
先日、同志社大学の学生が、「新卒採用してませんかねえ」と問い合わせてきた。
「友達から、ネガティブなこと言われるんちゃうん」と聞くと、
「出版は止めとき」とみんなから言われるという答えが返ってきた。
どうしたもんかなあ、いい時代の話を書いてきて、現実に戻るとこれである。
本屋さんの無くなり方にも、加速度がついてきた。
「あそこは、次の新刊100冊は売れるぞ、いやあ、200か300か」と期待に胸を膨らませながら行くと、「無い、ここにあったはずの本屋さんが無い」
それも、驚かなくなってきた。
つかさんが作ってきた時代、高円寺文庫センターが追っかけてきた時代、日本酒は30年間落ち続けて底を打った、詳しくは「獺祭 天翔ける日の本の酒」を読んでほしいのだが、手を抜かず、まっとうに作った酒「獺祭」が売れたことが、後進の心に火をつけ、未来を作り始めたのだ、ならばまだ出版の凋落は20年、あと10年ある。
大手や老舗出版社が、卸す掛け率を僕らと同条件ぐらいに大幅に下げて、販売拠点である書店を豊かにし、街中に店数を増やさないといけないと、もう、みんなもたない、でも、それは言っても詮無い話、自分で身を切るなんてふつうはできません、たとえ行く先に断崖絶壁があるとわかっていても、それは見ないようにしてやっていこうとするのが人の常、原発が再稼働されていく様を見ればわかります。ならば、まっとうに作って、まっとうに売る、誰頼ることなく自分が自分の力でやりきるしかない。
そして、それ自体が、公務員かなんかで適当にお茶を濁す人生を選ばなかった、自分自身へのあと始末なんだよな。売りますよ、本。
あと、10日で57歳になってしまうぞ、大変だ。(2016年2月1日記)