「あの日」のわたしたちにとっての「いま」
3.11--東日本大震災からまもなく一年を迎えます。
小社では、震災から3カ月後に刊行した『TSUNAMI3・11 東日本大震災記録写真集』と、同じく半年後に刊行の『TSUNAMI3・11 PART2』に続く『TSUNAMI3・11 PART3』を作成中です。
ほぼ一年を経た被災地を取材するカメラマンに、被災直後の写真と同じアングルで現在の状況を写し取ってほしいと依頼しています。
この難題にトライしてくれているカメラマンの一人、川井聡さんの取材に同行して、2月下旬に釜石から八戸を巡ってきました。
出かける直前の全国紙は、瓦礫処理(撤去した瓦礫を分別して再利用したり焼却処分すること)が全体の5%にとどまっているというニュースを、復興スピードが遅いとの論調で報じていました。
しかし、現地で会った人たちは、一様に「瓦礫処理と復興はあまり関係がない。たしかに瓦礫の山を見るのは気持ちのいいものではないけれど、とりあえず邪魔にはなっていないから」との答えが返ってきました。
津波で流された後には広大な土地があり、語弊があるかもしれませんが、撤去した瓦礫を山積みにする場所にはこと欠かないのが現状なのです。
そして、いくつかの町を巡るうちに、「処理」だけでなく、瓦礫の「撤去」すらも「復興」とどんな関係があるのか? といった疑問まで浮かんできました。
フォトジャーナリストの野田雅也さんによる2枚の写真を見てください。
(※以下の写真をクリックすると大きなサイズの写真をご覧になれます。
内容に鑑み、あえて非常に大きなサイズ(横2000ピクセル程度)の写真にリンクしていますのでご注意下さい)。
これは、11年3月17日の写真(上)と同じアングルで12年1月3日に野田さんが岩手県大槌町で撮影されたものです。
確かに瓦礫は撤去されました。しかし、「不在」だけが残された--そんな哲学的な言い回しが浮かんでくる写真です。
また、3・11からの被災地を広範囲にわたって撮影してきた宇野八岳さんは、「津波が街をガレキにして、ユンボがひとまとめに片付けた一年だった」と振り返ります。宮城県南三陸町の志津川などでは、「ガレキの山が、街を襲った津波の高さを超えていく」様子に無力感を覚えたと言います。
もう一枚の写真を見てください。
これは、わたしが2月23日に撮影したものです。
ここがJR山田線の大槌駅だったことは、よそ者にはまったく伺い知ることはできず、レンタカーのカーナビをたよりにようやくたどり着きました。
あの日からたったの一年です。未曽有の天災とはいえ、「廃墟」というよりも「遺跡」と表現した方がしっくりくるような姿を目の当たりにするとは思ってもいませんでした。
ここに鉄路があり、老若男女が行き交い、ある人は決意を胸に旅立ち、またある時は失意のうちに帰郷した人を出迎えた駅が、70年間も存在したとはとても思えません。
震災後にいち早く大槌町に入った野田さんは、被災直後に撮った写真と同じ構図をつくるために、文字通り一歩づつ町を歩き、その時のことを「ファインダー越しに過去と現在が重なり、当時の私と現在の私が会話をはじめた」と表現します。
はたして「千年に一度の大災害から立ち上がろう」と決意したわたしたちと、わずか一年後に土に埋もれようとする“遺構”を眼前にするわたしたちは、どんな会話が可能でしょうか。
マスメディアだけでなく、ツイッターなどの個人メディアでも、3・11を前にして「復興が早い」とか「遅い」とかが論じられています。
しかし、三陸沿岸の町を巡りながら思ったことは、町ごとに、あるいは人ごとに「復興」の定義というか、意味が異なるのではないかということでした。
なにをもって「復興」とするのか?
神戸はもちろん、南相馬と石巻、気仙沼と宮古、田野畑と八戸で、それぞれに「復興」の形がことなるのではないでしょうか。
また、同じ釜石市でも、商店街の大町と、入江の村落だった両石では、「復興」の意味合いがちがってくるのは当然なのかも知れません。
少なくとも、「復興の度合いを測る物差し」などないことを知ることが重要なのではないかと考えるようになりました。
そして「遅い」とか「早い」とかを論じる前に、一年後の被災地がどんなだったかを、将来の「わたしたち」に伝えるべく、いま編集作業に追われています。