隔世の感
古い話から始めよう。
時は1972年7月4日、ソウルは鍾路3街の交差点にさしかかると黒山の人だかり。人混みをかき分けて前に出ると、折しも黒い高級車の列が通り過ぎていった。ちょうど南北会談のために北から高官達がやってきたところに出くわしたのだ。南北統一に関する幻の7・4共同声明が出された。まだ南北が緊張していて、渡北した在日の若者たちが政治犯として捕まっていた。S兄弟のあとの政治犯であるL君の釈放運動をひょんなことからひきうけさせられて、何回目かのソウル入りのときだった。L君は結局「死刑」の判決、呆然としたのもつかの間、すぐそのあとで釈放されて日本に帰ってきた。まったく「見せしめ」でしかなかった茶番劇につきあわされたことになる。有名な金大中拉致事件はその翌年のことである。ソウルはまだ貧乏時代、旅館のトイレの水がよく出なかったり、一週間に一日「粉食」の日があって米を食ってはならなかったりで、その日の駅弁には米のかわりにソバが入っていた。
先日当社に本を買いにきた人と話しているうちに偶然というか、不思議な因縁に感動したことがある。それはその本「マイノリティを旅する」の著者・蔵田雅彦氏と知り合いだったというその読者が「アムネスティ第2グループ」にいまも属していて、最近そのグループに属していた人が亡くなってアムネスティ日本支部にいた蔵田氏の本を知ったのだそうだ。実は上記L君の救援運動のことで小生もそのおり第2グループに属していたことがあって、蔵田氏が死を覚悟したベッドのうえから出版を依頼されたという経緯がある。蔵田氏がもっとも尊敬していた澤正彦氏の本「ソウルからの手紙」も小社から刊行されていて、なぜかおふたりとも同じ49歳でガンで亡くなっている。(年齢差がちょうど10年)
話は変わる。
あの7・4共同声明の頃に生まれた若き日本女性がのびのびソウルで活躍している新刊の話。
彼女は日本の大手電機メーカーに勤めていたが、自分も出資してソウルに会社をつくり、そこそこ利益もあげているビジネスウーマン。その会社には日本人は彼女ひとり。「タフな韓国人ビジネスマンに負けじと、今日も長い長いネゴに耐え」て頑張っているという内容。彼女のホームページを知って半年ばかり毎日読んでいるうちに面白くなって大幅に書き直してもらい、2月に「ケイコ・韓国奮闘記」というタイトルで刊行予定。ところで、彼女とは徹底的にメールのうえでのやりとり、入稿から校正、図版のファイル送付もすべてインターネットで最後まで貫徹した。ということはいまのところは彼女の住所も電話も知らないのだ。それで済ませられた。そういう時代なのだ。
隔世の感がある、というより私が長く生き延びてしまったということか。