「生きる力」は、たのしい授業から
●感動が人を生かす
「版元日誌」を読んでいる方々は、きっと履歴書の「趣味」の欄に「読書」と書く方だと思います。では、みなさんはいつどのようにして「趣味は読書」になったのでしょうか。
覚えていらっしゃいますか。
さかのぼってみると、まだ記憶も定かではないような幼少児にまで至る方も多いのではないでしょうか。私自身も、母に絵本や昔話を読んでもらった楽しくも懐かしい思い出が、本を好きになるきっかけをつくってくれたと思っています。そしてその後、小学生、中学生、高校生と育っていく段階でまた心を揺さぶられるような物語や文章に出会って、いつのまにか「本が好き」になっていたという方が多いのではないでしょうか。
あることを好きになるきっかけは、その人の心の奥底にずっと忘れずに残っている楽しかったことの思い出でのせいであることが多いのではないでしょうか。
それは、言葉を変えて言えば、「感動」の記憶だと思います。
本に限らず、音楽や映画、芝居、絵画などいわゆる芸術においても、なにかを大好きになるのは、ある作品に触れて感動したという経験がそのはじまりではないでしょうか。
そして、生きる原動力には、この「感動の記憶」が大きく作用しているのではないかと、わたしには思えます。
●学校でも子どもたちが感動を得られるたのしい授業を
生きる原動力は、ぜひとも子どもたちに持っていて欲しいと思います。学校でその時間の大半を過ごす子どもにおいて大切なのは、授業を中心とする学校生活のなかでどれだけ感動の得られる楽しい時間が過ごせるかだと思います。学校で一番長く過ごすのは授業時間ですから、「いかにして、たのしい授業をするか」ということが、教育を語るうえでもっとも重要な問題だと思います。
ではみなさんは、「たのしい授業」ときいてどのような授業を思い浮かべますか。先生が授業の本筋からちょっと離れて面白いエピソードを話して聞かせてくれた時でしょうか。ダジャレをいっぱい飛ばしてくれる先生の授業でしょうか。
仮説社では、その名もズバリ『たのしい授業』という月刊誌を発行しているのですが、その「創刊の言葉」で、編集代表の板倉聖宣(いたくらきよのぶ)さんがこのように述べています(創刊は1983年3月)。
「人類が長い年月の間に築きあげてきた文化、それは人類が大きな感動をもって自分たちのものとしてきたものばかりです。そういう文化を子どもたちに伝えようという授業、それは本来たのしいものになるはずです。その授業がたのしいものになりえないとしたら、そのような教育はどこかまちがっているのです」
授業で学ぶことそのもので深い感動の得られる授業こそが真の「たのしい授業」にほかなりません。しかしはたしてそんな授業は可能なのでしょうか。この「たのしい授業」が観念的な言葉やスローガンだけだったならば、現場の先生方は「たのしい授業をやらなければいけないのは分かっているのだけれど、どうしていいのかわからない」と、苦しむだけになってしまいます。
それではなぜ板倉さんは、「……そういう文化を子どもたちに伝えようという授業、それは本来たのしいものになるはずです。その授業がたのしいものになりえないとしたら、そのような教育はどこかまちがっているのです」ときっぱりと言い切れるのでしょうか。
それは、この『たのしい授業』を創刊する以前に、ちゃんと、「子どもたちが喜んでくれるようなたのしい授業をなんとかやってみたい」と望む先生ならば誰にでもできる授業の理論と具体的なプランを創り上げることができたからなのです。
それが「仮説実験授業」です。
●「仮説実験授業」が教育を根本的に変革する
仮説実験授業では、「人類が大きな感動をもって自分たちのものとしてきた」文化、たとえば科学上の重要な原理原則である「浮力」を学ぶときには、アルキメデスをはじめとする昔の人がいろいろと試行錯誤してきた跡をたどるように問題を配置します。そしてその問題の正しい答えを予想して、その後じっさいに実験をして、その予想のどれが正しかったのかを確かめる、というように授業を進めます。
子どもたちは数々の問題に予想を立てて、実験によって自分の考えた予想が正しかったのか間違いだったのかを確認して行きます。そして一連の問題と実験が終わる頃には、しっかりと「浮力の法則」が身につくのです。
途中、授業の中では子どもたちは自分の立てた予想(仮説)の正しさをそれぞれが主張しあい、ときには激しい討論をします。
一連の問題は、大人でも(理学部の学生でも理科の先生でも)間違えてしまうような大変興味深い問題が厳選されているので、子ども同士の討論は時に大変盛りあがります。そして、その討論の決着をつけてくれる実験を子どもたちは身を乗り出して注目し、その結果に歓声をあげたり、「ああーっ」というため息をついたりします。
授業のあとに子どもたちに感想を書いてもらうと、授業の評価はとても良いことがほとんどです。
●たのしい授業という思想は、仮説実験授業とともに生まれた
この「仮説実験授業」を創り上げることができてはじめて、板倉さんは「たのしい授業」という考え方を提出しえたのです。あるいは、「たのしい授業」という思想のなかから「仮説実験授業」は生まれてきたのだ、といえるのです。
仮説実験授業がはじめて提唱されたのは今から40年以上前ですが、その当時は「たのしい授業」という考え方は、教育の世界はもちろん、世の中にもなかったのです。今でも多くの人々は「授業、勉強というものはたのしいわけがない。苦しみを乗り越えて、我慢してこそ、いろいろな知識が覚えられるのだ」と考えているのではないでしょうか。
しかし、じつはそんなことはないのです。大昔の人々だって、それが楽しかったからこそ、失敗に失敗を重ねながら、教会に弾圧され脅されても、なお研究・勉強をしてきたのです。
その楽しさを現代の授業で味わうことのできるのが仮説実験授業なのです。
●楽しさは自分のためのみならず
楽しい思い出は循環します。親に本を読んでもらった思い出がある人は、自分の子どもにも本を読んであげるという人が多いのではないでしょうか。
同じように、学校で楽しい授業を受けた思い出のある人は、大人になって子どもに楽しい授業をしてあげたいと思ったり、受けさせたいと思ったりするのではないでしょうか。
小社の社名の「仮説社」は、もうおわかりかと思いますが、この「仮説実験授業」に由来しています。これからも、読む人が大きな感動をもって読み終わっていただけるような本づくりと、楽しさの循環づくりを続けていきたいと思っています。
そういう本を出版していくことが、今わたしたち版元に求められているのではないでしょうか。
*「仮説実験授業」というのは、「科学のもっとも基本的な概念と原理的な法則」を教えるための教育内容の選定・教材配列と授業法に関する理論・方法です。1963年に、板倉聖宣氏が提唱したものです。(仮説実験授業について詳しくお知りになりたい方は、ぜひ『仮説実験授業のABC』(板倉聖宣著、仮説社)をご一読ください)