ブゲン、ブンザイということ
現在この文章はATOK12で書いておりますので、「分限、分際」と一回で変換されます。気持ちの良いことです。少し以前の辞書ですと、なかなかいきなりは、変換してくれなかったものです。つまり、ワープロソフトの辞書機能が良くなったことを喜ぶものです。となれば、ここでこの文章の目的は終了してしまいます。
ここに認めておきたかったことは、必要があって読んだ石上玄一郎氏の小説『精神病学教室』の一節から考えたことです。さして長くもありませんので引用します。
「——女の胎に生まれたものの頤には鰓(「さい」という音では出ずコード入力)裂がある。尾てい(漢字が出ません)骨を持っているものの思想には限界がある。人間は自分で自分の頭髪を掴んで宙につるしあげることができぬように人間の産み出した科学も畢竟、人間自身を超えて進むことはできない。」
絶妙のフレーズではありませんか。
身分制度を復活させろといった議論を展開しようと言うのではありません。このところ喧しい世の中の状況を見て居ると、分限とか分際といった言葉を思い起こさざるを得ないと言いたいのです。せめてそのくらいは、と。身分が制度になると不都合も生ずるだろうけれど、英国紳士の如く自ら律することの出来ぬ人間にとっては必然かも知れないと思う訣(「けつ」と打たなければ出ません)です。
人は生まれながらに自由なる人間となる訣ではない。段階を経て絶対精神へと進化して行くのだ。とは『精神現象学』(ヘーゲル)で、新訳を小社未知谷で刊行いたしました(これは宣伝)が、自分がどれだけの能力をどこまで発揮できる状態にあって、それが世の中でどういう意味を持つのかという認識を訣(「かく」と打つと出ない)いて出発する訣(「わけ」では出ない)には行かなかろうと思う次第です。
いらいらしてきました。申し上げたいことの輪郭はあるかと思います。お察し下さい。