『プリンセス・マサコ』と『「プリンセス・マサコ」の真実』の間で
長年版元稼業をしていると、しばしば「これを出版してみたいな」と思うコンテンツに出会う。「出したい本」である。
「出したい本」がモノになる率は低い。そもそも他人の作ったコンテンツだ。こちらで出すために作ったものではない。また、いいものほど、すでに出版元が決まっている。決まっていなくても、もろもろの隘路があって、すぐには成就しないことが多い。
一方、「これを本にしてみたいな」と思う出来事や事物にもしばしば出会う。「作りたい本」である。
「作りたい本」がモノになる率も低い。もともと自分がそう発意した時点で、まだ一字も原稿が出来ていない。「作りたい」から「作った」に至るまで、道は果てしなく遠い。さまざまな障碍が待ち構えている。
この2月に講談社が不可解な理由付けで刊行を断念したと聞いたとき、一瞬、『プリンセス・マサコ』は「出したい本」になった。たまたま、そのとき版元ドットコムS社のNさんといっしょだった。その場はNさんのところで出してみたらどうかという話になっていった。第三書館は大きな企画をいくつも抱えていた。「出したい本」の成就率の低さは百も承知しているのだ。「出したい本」が「出したい本」未満で終わることこそフツーなのだ。
翌日、NさんにTELしてみると、S社では企画のラインに合わないからムリだという。その瞬間、再び『プリンセス・マサコ』は「出したい本」になった。すぐ著者にメールを送った。返事はすぐ来た。
色よい返事。何度かのメールの往復。煮詰まる条件。これは、難なく成就。そう見えた。じつは、それからがタイヘンだった。
日本語版への翻訳権取得は通常とは大いに異なる道筋をたどった。最初のエージェントは途中で切れた。講談社と近すぎたのだ。次のエージェントも切れた。第三書館と近すぎたからか?いずれも話がたけなわになって、ぷっつり。
ここで断っておきたいが、『プリンセス・マサコ』は週刊新潮がいうような「皇室侮蔑本」ではない。なだいなださんが自分で原書を読んで、「皇室に対する侮辱と思われるところは、見つかっていない」と「ちくま」5月号に書いている。外務省がオーストラリア政府に抗議した内容は3点で、①天皇はハンセン病療養所を訪問している。②着物は時代遅れではない。③日本の政治システムは欧米の猿真似ではない、というもの。①は著者が訂正し、日本語版では消えている。②③は政府間でマトモに取り上げる問題ではない。詳しくは『「プリンセス・マサコ」の真実』をご覧頂きたい。
他方、講談社版の幻の日本語版は重大な問題を抱えていることがわかった。200箇所近く、数十ページもの削除がある。小和田家にTVがなかったという話も、皇居に天皇用の機関銃射撃場があったという事実も、皇太子の「妻になる女性は自分の意見を言える人であってほしい」という発言も、著者の「皇太子が彼女を愛するなら、皇籍離脱も合法」というこの本の核心部分の見解も、すべてカット。その上、雅子妃と交流のあった元巨人軍選手に「友だちとしてこれだけ長いつきあいができるのは、とてもめずらしいことです」と、原本にない発言を捏造して表明させている。著者がインタビューした皇室ジャーナリストの発言内容を、彼の意向に従って著者に無断で変更してしまっている。いずれも日本の代表的出版社のやることではない。しかも、翻訳者にもそのことを断っていない。
そもそも「天皇が書店に行きたいといっても宮内庁は許さない」という本文を削除する版元があるだろうか?そこまで思い至って、即、「これを本にしたいな」とおもった。「作りたい本」である『「プリンセス・マサコ」の真実』――”検閲”された雅子妃情報の謎――の誕生である。この本は講談社版の削除捏造部分をテッテイ究明するものにした。
予期せぬ難関を越えて、「出したい本」の『プリンセス・マサコ』と、「作りたい本」の『「プリンセス・マサコ」の真実』はようやく同時刊行された。両者のスタートダッシュは好調。第三書館ではこれまで5万部以上売れた本は、一、二の例外を除いて、「ポリスシリーズ」も「予備校もの」も「マリファナシリーズ」もすべて「作りたい本」ばかりである。今回はどうなるか。そこまでジンクスを気にする境地に至るかどうか。これからである。