メディアは低品質でいいんですよ、メディアは。(と呟いてみる)
かつてマクルーハンが予言したように、「メディアはローファイ(low fidelity)に向かう」傾向はますます加速しているようです。
MP3(および類似の圧縮技術)の登場によって、音声データの品質は多少落ちたものの、音声データの持ち運びは飛躍的にカンタンになり、HDD、フラッシュメモリ、ケータイ……、と、音楽/音声の「入れ物」の自由度は劇的に向上し、「銀色の円盤を店に買いにいく」という、ここ20年くらいの定番だった音楽入手方法はもはや傍流になりつつある印象を受けます。JPEGしかり、MPEGしかり。人間が違和感を感じない程度に「はしょる」ことによって、ちょっとだけ低品質/大幅ダウンサイズになった音声/画像/動画ファイルは、それと引き換えに大幅な利便性を手に入れ、色々な局面で革命が起きたのは皆さんご存知のことと思います。
YouTube(および類似の動画投稿サイト)の登場によって、「インターネットTV」といったキーワードで漠然と予想されていた「ネットにおける動画」のありようは、テッテイ的に「テレビ的」ではないということが明らかになりつつあります。
多くの人が予想もしなかった、「投稿によりコンテンツが供給され、批評によってガイドされる」というあり方こそが、ネットとの親和性が高かった、ということでしょうか。そして、そこにあるコンテンツの画質は、「地デジ」なぞから考えると信じられない低品質ですが、にもかかわらず圧倒的に支持/消費/生産されているという現実があります。
登場時はダーティーな印象もありましたが、あまりの影響力ゆえか、グーグルの買収などにより、適正なコントロールを手に入れつつあるように見えます(そういえばMP3も登場時はそこはかとなくダーティな香りのするキーワードでしたが、「適正な」ところに落ち着きつつあるようです)。
そして、Twitter(および類似のサービス)の登場によって、「個人Webサイト〜(日記サイト)〜ブログ〜SNS」という「テキストサイト」の流れと、「IRC〜IM〜ビデオ/VoIPと融合」という、一対一志向型コミュニケーションツールが、かなり面白い局面に来ている、と感じています。
メールにしろWebにしろ、インターネット上で主力のテキストコミュニケーションは「非同期型」という説明がよくなされます。
テレビの放送はある時間、テレビの前に座っていないと見る事ができないのが普通で、その特性を前提に、「実況中継」があり、「再放送」があり、「ペイパービューの後、地上波でタダで放送」といった形態がありえます。(まあこの前提もHDDレコーダ→録画サーバの登場でかなり変化しつつあるようですが)
実際の会話や会議、電話といったやりとりでは、「挨拶する→話す→応答→話す→応答→……会話終了」と流れるのが普通で、会話に参加している人間は、同じ時間を共有することを「強制」させられるのに対し、メールにはそれがない。だから、時間による拘束がない。素晴らしい!ということでこれらはあっという間に普及したわけですが、裏を返すとこの特性は問題だらけ、でもあります。テレビをダラ見するようにWebは見られないから、検索対策だのRSS配信だの、といった技術で「集客力」を補わないと、圧倒的多数に短期間に影響を与えるようなコンテンツは作れません(というか、地上波テレビと同等のインパクトのあるWebコンテンツ、というのはいまだ存在していないし、これからも存在しないでしょう)し、会話や電話では一発で済む話が、常に「相手待ち/「返事をしなきゃ」プレッシャー」になってしまう。このハンデを補おうとすればするほど、どこかで無理が生じて、ケータイメールが来ると、いついかなるときでも返事をせずにはいられない、mixiの日記にコメントを返さないではいられない、というプレッシャーがのしかかってくる。
で、Twitterなんですが、ここら辺のバランスが、非常に面白い。一見、数年前までよく見かけたチャットサイトのようにも見えるのですが、書くテーマはひとつ。「what are you doing?」これだけなのです(しかも一回に書けるのは全角70文字に制限されている)。だから、基本的には会話(的なこと)をするためのサービスではない「独り言書き連ねサービス」です。簡易ブログ? いやいや、トラックバックみたいな大仰な仕組みはありません。「参加」すれば「コメントをつける」ことはできるけれど、それは「もう一人の人が独り言をつぶやいているだけ」だから、「返事を強いられる」というデザインになっていない。「炎上」も基本的にはないでしょうね。つまり、人間が、非同期であることをがんばって補う必要はなく、書き手も詠み手も「返事しなきゃ!」とプレッシャーを感じなくて済むわけです。
この「独り言をゆるくつなげるシステム」を土台に、いろいろなサービスも派生で生まれてきています。今日の天気予報を定期的に「つぶやく」システム(この「仮想人格」を自分のTwitterに登録しておくと、天気予報が配信されてくるわけです)とか、ISBNを問いかけると、ある図書館の蔵書を返してくれるシステム、といったものが、続々と登場してきています。ひとつひとつはデータの切れっ端しとしかいいようのない、「情報価値の低い」データですし、人の発言コンテンツですらないものも混ざっているわけです。にもかかわらず、見事につながっている。(ちなみに私は http://twitter.com/hidakat でゆるーく呟いています。よろしければどうぞ。)
さて、版元ドットコムです。言うまでもなく、書誌情報を集めやすい/広めやすい仕組みをつくり、販売/購入機会を増進させましょう、ということを志向しており、今まさにこの機能をさらに堅牢に、高機能にすべく(中の人たちが)がんばっているわけですが、果たして現状のように、「版元ドットコムサイト」に情報が集まっている、ということがベストなのかどうか。一時的に一箇所に集めたものの、このデータにアクセスするための「手足」を充分に提供できているか。また、今後周囲をとりまくシステムがどんどん変わっていく時に、それらへの対応を「システム開発」だけに頼っていては、「遅い」んじゃないか。そんな気が少ししています。
書誌情報交換のためのフォーマットだけ決めておいて、データの置き場所はいろいろなところにある。利用側は、ある取り決め手順でアクセスすれば、複数の場所にあるデータから最新のものを、自分の必要な項目だけ(在庫情報だけ、とか、書評だけ、とか、「コンテンツそのもの」とか)抜き出して利用できる。カッチリしたデータベースを一つ作る、ということに拘泥せず、システム側は「ゆるい」結合のデータ集合の定義、オーソライズだけを行う(収集は必要に応じてオンデマンドで……)、そんな風になっていくと良いな、と。
このやり方を応用していくことによって、私がまだ読んでいない、私が読むべき本の情報を、もっと簡単にアクセスできる手段になるんじゃないか、などと夢想する今日この頃です。「書評」とか「レビュー」「リコメンデーション」といったニュアンスの情報も、書誌情報にもれなく紐付けられていて、「なんとな〜く」気になった本の情報に多角的にアクセスできれば、という私の切実なニーズにもとづいてたりするんですが。
まずはISBNを投げることによって自分の読んでいる本を相手に通知できて、その情報には誰でもアクセス可能、といった感じの「What are you reading?(Now I’m reading)」なサービスが登場して欲しいところですね。