人間の本質なのか
話は歴史を溯る。秀吉の朝鮮侵略戦争のおり、「高さ三尋の石垣を我も我もと攻め登り、おめき叫んで攻めければ、(中略)みな手を合わせて跪き、聞きも習わぬ唐言、まのうまのうということは、助けよとこそ聞こえけれ。それをも味方聞きつけず、斬りつけ打ち捨て踏み殺し、これを戦神の血祭りと、女男も犬猫も、みな切り捨てて切り首は、三万ほどとぞ見えにけり。」という戦闘場面を描いたのは、第一陣(小西軍)に属した松浦軍の家臣の吉野某の記録である。秀吉の果てしない征服欲がおこした無謀な侵略に翻弄されたのは朝鮮半島の民衆だけでなく、狩り出された日本の兵士たちも同様だ。まさに阿鼻叫喚そのものの生ける地獄である。
翻って今の話、日本の若者がイラクで人質にとられ命を落とした。日本の支配者の冷酷なことよ。
無謀な戦争を勝手に起こしたアメリカになんで日本は追随し、イラクを援助(これはしかたがないが)しなければならないのか。侵略して国土を破壊しながら、復興援助をするという、これはひとりよがりの侵略戦争である。
現今の戦争は武器弾薬はコンピューターで操作され、あたかもテレビ画面で戦争遊戯をするかのごとくである。秀吉の戦争のごとくには、目の前に残虐な風景が現出しない。やられるほうはたまったものでない。
古代から戦争を起こすのはたいていは権力者たちの果てしのない欲望からである。「大義」なんてものは、まやかしのごまかしに過ぎない。
そんな戦争にまきこまれる民衆こそいい迷惑である。まったく古代から現代まで、懲りずに愚かな戦争を繰り返している。