編集という仕事との出遭い
はじめまして。北海道札幌市からまいりましたコトニ社の後藤亨真と申します(いまは千葉県船橋市に住んでいます)。
生まれも育ちも札幌市、出生は中央区のとある病院でしたが、生まれて最初に生活した土地が西区の琴似(ことに)だったらしく、その地名をとって小社の屋号を「コトニ社」としました。命名したあとに、アイヌ語では「窪地になっている土地」という意味であることを知り、「凹地」といったところがまた小社らしいかな、とこの名を気にいり名乗りつづけています。
あっちへ行ったりこっちへ行ったり、トータル9年ほど東京の出版社で編集の仕事をし、70冊程度作ったところで変な自信が芽生えてしまったのか、ひょんなことから独立、2019年8月某日「ひとり出版社」なるものを無謀にも立ち上げました。
都会へのさしたる憧れのない、野望といったものもとくにない、北海道から出るつもりもない、出られるとさえ思っていない、そんな本を愛でているだけで満足なこれといった取り柄もない田舎者でした。
よくもまあそんな人間が何を勘違いしたのかあるとき編集者を志し、あとさき考えずに縁もゆかりもない内地(道民は北海道以外の土地をこう呼びます)まで出向き、はては出版社までおこしてしまうとは……。
身の丈に合わないこれまで自身の道程を振り返ると、「なんと大それたことを」といまもわれながら驚かされます。
そんな私が、なぜ編集をなりわいとし、なぜいまもなんとか食いつないでいるのでしょうか……。
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じつは、「編集者」という仕事に憧れ、それを志していたわけではありませんでした。
ただ1冊、「この本を世に出したい。そのためには『編集』なる仕事をたとえ真似事であってもやらねばならない」、そう思ったのがきっかけでした。
いまから時を遡ること20年ほど前。
私は、新卒でたまたま拾ってくれた北海道の某映画興行会社を2年ほどであっさり退職し、札幌のコールセンターでぷらぷらフリーター生活をつづけながら、今福龍太先生のゼミにモグリで参加し遊ばせてもらっていました。
その今福先生がコーディネートしていた夏期集中講義「映像文化論」という名の講義に、颯爽と、そして気取りなきダンディズムの空気をほんのり発散させながら現れたのが、多木浩二先生でした。
この出遭いは私にとって大変大きなものでした。これが編集を仕事にする大きなきっかけとのちになっていくのです。
余談ですが、多木先生が札幌を訪れると知ったとき、私は「多木浩二の本を読まねば」とはじめて彼の本、『戦争論』を手に取ります。この本のことは、いまもどこの書店で買い、その書店のどの書棚に、どのように並べられていたのかを鮮明に記憶しています。
すでに琴似には住んでいませんでしたが、ふらっと訪れた琴似のバスターミナルに隣接している紀伊國屋書店で買い求めました(この書店は今はもうないはずです)。奥まったところにあった新書棚に、その当時新刊だったからでしょうか、数冊平置きされていたことが思い出されます。
編集者になるきっかけとしてあった多木先生との出会い、その彼の書物を最初に手に取った地が琴似であり、その後20年を経て、自身で立ち上げた版元の屋号をコトニ社とする、そのかすかな、けれどしっかりとしたものにも感じられる繋がりに何か不思議な縁を感じます。
さて、多木先生による三日間の充実した集中講義に耳をかたむけた私に、即座に「これを講義録として書物にしなければならない」という、「啓示」と言ってしまうと少々大袈裟な、けれどいわゆる「閃き」と言ってしまっては月並みすぎる、なんとも複雑な感情が沸き起こります。それが編集へと足を踏み入れる端緒となりました。
そのときの私は、とうぜん本の作り方など何もわかりません。けれど、わからないなりにも自身の信じるところをとにかく一歩一歩前進させようと、バイトがない日は誰に頼まれるでもなくその講義内容を黙々と終日文字起こししつづける日々を過ごしました。
この講義録を書物としてかたちにすべく、ゼミのモグリにすぎなかったコールセンター勤めのフリーターは、これからなんやかんやと悪戦苦闘することになるわけです。
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結論を申し上げますと、この企画はその後10年を経て、みすず書房から『映像の歴史哲学』という書物として成就します。すでに多木先生は亡くなられ、「間に合わなかった」という残念な気持ちは少なからずありましたが、とにもかくにも本になった……。
ここで私の短い編集人生は終わっても良いものでした。むしろ終わらせられるなら終わらせた方が良かったのかもしれません。
これを1冊の本として成就させたい、その一心でこの世界に足を踏み入れたのですから、それを成し遂げたことによって終わってしまったとしてもすでにそれで十分だったのです。
憧れや志しだけではとうていできない仕事であることも、この10年で十分すぎるくらいに学んでいました。
しかし、そのときの私はすでに30歳をゆうにこえていました。もうあと戻りできない、そんな年齢に達していたのです。
私と編集という仕事との出遭いは、こういった経緯があってのものでした。
大手・中堅どころの出版社にお勤めの編集者の方のなかには、新卒で入れたから編集者になったとか、もしくは編集者という仕事が格好良くて編集者になった、といった方が少なからずいらっしゃるとは思いますが、不幸にも私はそういったものとは無縁なところにいました。
すでにいい年齢を迎えていた私には、むしろ食べていくための方法としてありました。
編集と出遭い、ある意味仕方なしに、離れられなくなっていたのです。
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今後数十年にわたって読み継がれてゆく可能性のある本をものした、私にとっては偉大な著者の方々、彼らの導きがあっていまの私がいる、そのことにあらためて気がつかされます。
多木浩二、今福龍太、山口昌男、松岡正剛……。このうち一人でも、私の人生のなかで欠けていたとしたら、おそらくいまの自分はおらず、間違いなく編集の仕事はしていなかったことでしょう(この4人以外にもさまざまな方に大変お世話になってきたことは言うまでもありません)。彼らとの邂逅は運が良かったとしか言えません。
尻切れトンボとはなりますが、自身の取るに足らない来歴を披瀝するのはこれくらいにしておき、最後にせっかくですので小社から今後刊行されるであろう本の宣伝をさせていただきます。
こんな感じの本がでますよ、といった情報をほんの数行ずつではありますが、紹介いたします。
【1冊目】
20世紀のあらゆる悲惨を予感させたイタリアの芸術運動「未来派」。その未来派の〈宣言〉〈運動〉〈詩法〉〈建築〉〈ネットワーク〉〈ダイナミズム〉〈音楽〉〈ファシズム〉〈起源〉について、哲学者がものした1冊。未来派図版120点と「未来派宣言」の数々を収録。
【2冊目】
大手弁護士事務所を思うところあって辞めた弁護士が、世界中を旅しながら各地の裁判を傍聴しつづった見聞録。
【3冊目】
全身詩人が詩人としての日々をみずから記録した映像を、書物というフォーマットに落とし込んだ野心的1冊。
【4冊目】
もうすぐ絶滅するというピンク映画についての本。
以上の本を年内に刊行したく現在鋭意編集中です。
応援のほど何卒よろしくお願いいたします。