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山の旅人と、版元の旅

版元日誌の依頼メールが届いて、すぐに断ろうと思った。
閑人堂として、数か月前に1冊の本を刊行したばかり。
まだ片足でふらふらと立っているにすぎない。
堂々と版元を名乗るのは、歩いていると言えるようになってからにしよう——。

その考えをあっさり翻して、この文章を書いている。
創業2冊目の本の著者についてなら、話したいことが山ほどあるからだ。

20年以上前から「山の旅人」と自称する登山家・栗秋正寿は、日本よりアラスカで有名かもしれない。
1998年に、アラスカ山脈にある北米最高峰デナリ(マッキンリー山)の冬季単独登頂に成功した。
世界で4人目、史上最年少(25歳)での快挙だった。

北極圏に近い、標高6000mを超える高峰は、人間には過酷すぎる気象で恐れられている。
最大瞬間風速は100m/sを超え、気温はマイナス50℃を下回ることもある。
現地の登山案内でも、冬は危険すぎて「ばかげたこと」だと警告されているほど。

これまで冬季デナリ登頂者はわずか17人。登山中および下山中に6人が死亡している。
世界初の冬季単独に成功した植村直己は下山中に消息を絶ち、5年後には日本人3人が登山中に亡くなった。
栗秋正寿は、冬のデナリに単独で登頂して生還した史上初の、そして唯一の日本人なのだ。
2020年現在でも、冬季単独は彼を含めて5人しか達成できていない。

登山家としての栗秋は、二つの点で〝変わり者〟かもしれない。
一つは、登山スタイル。もう一つは、その後の登山歴。

複数の拠点を何度も往復して荷上げを繰り返し、長期滞在の持久戦で好機をうかがう「カプセル・スタイル」。
登っている時間より、小さな雪洞に身を潜めて〝待つ〟時間のほうがはるかに長い。
それも、孤立無援の単独行だ。
最長で入山して83日間、たった一人でアラスカの自然と向き合い、自分自身と向き合ってきた。

この独特のスタイルで偉業を達成したあと、栗秋が次に目指した場所。
そこは、やはりアラスカだった。
デナリとともに現地でアラスカ三山として崇拝されている山、フォレイカーとハンター。
驚くほど高くはないし、デナリほど有名でもないが、冬に一人で登れた者はいなかった。
世界何大陸の最高峰、名高い8000m峰といったわかりやすい、普通のゴールには向かわず、彼は愛してやまないアラスカの冬山にこだわって20年以上も単独行で挑戦を続けてきた。

こんな〝ばかげたこと〟をやってのける登山家は、世界でただ一人、栗秋正寿だけだ。

厳冬期に登る彼の「山旅」は、輝かしい成功より失敗のほうが多い。
2007年、世界初のフォレイカー冬季単独登頂を4度目の挑戦で完遂したが、最難関のハンターには9度も跳ね返された。2016年は、人生で初めて失意の救助を経験している。

本書の末尾に、彼の25年間の全アラスカ登山記録を書いてもらった。
そこには、数少ない「登頂」の文字と、たくさんの「敗退」が並ぶ。
しかし、負けた数は、すなわち挑戦してきた数。
人生をかけて真剣に挑んできた者だけが、堂々と黒星を誇ることができる。
白も黒もそのすべてが、アラスカで彼がつかんできた輝かしい星に違いない。

……と、こんなふうに彼の業績だけを紹介すると、強面で屈強なクライマーによる、手に汗握るハードボイルドでストイックな冒険譚を想像されるかもしれない。

すいません、正反対です。

小柄で、物腰柔らか、優しい笑顔とダジャレを絶やさない、一見どこにでもいそうな男。
生死を分ける雪洞のなかで川柳を詠み、ハーモニカで曲を作り、排便テクニックを熱く語る。
下山後はそのまま帰国せず、リヤカーを引いてアラスカ1400kmを縦断する徒歩旅に出る。

本書での彼の語りは、どこかとぼけたおかしみがあり、飄然として、軽やかだ。
新型ウイルス問題で自由な旅が難しくなった今こそ、この爽快で感動的な旅物語を楽しんでほしい。

創業2冊目を刊行して、ようやく2本の足で立つことができた。
生まれたばかりの版元が歩き始める手助けをしてくれた、敬愛する2人の著者に心から感謝している。

ちなみに、閑人堂はヒマジン堂ではなくカンジン堂です。
(辞書的にはどちらの読みも正しいし、面白いので訂正しないこともありますが)
これまで雑誌を数十冊と書籍を数十冊、ときに慌ただしく作ってきた反省から、きちんとした「自然と科学の本」をていねいに時間をかけて刊行していくつもりです。
ゆっくりと、ヒマジンらしい旅路で。

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