カウンターカルチャーの待合室
5月×日
去年の7月に出版した『ジュゴンの帰る海』の著者・浦島悦子さんがJーWAVEの番組に出るというのでラジオの前で待ち構えて聴く。といっても、テーマは沖縄の「復帰」50年だ。直接に本の販促PRには結びつくとは期待してない。
MCのジョン・カビラさんが沖縄の地元の人びとからその想いを訊くという企画。浦島さんは、生まれは鹿児島だが、もう30年以上沖縄本島の大浦湾に住んでいる。米軍基地建設のために埋め立て工事が進む辺野古、名護の市民だ。『ジュゴンの帰る海』
は絵本で、浦島さんはその文・お話を、同じ名護市に住む仲地静香さんが絵を描いてくれた。制度的には1972年の5月15日に沖縄は日本に戻ってきた。けれど、その見返りのように米軍基地は増加の一途を辿って来たし、日米地位協定の下で米軍はやりたい放題だ。「復帰50年なんて茶番もいいところよ」という浦島さんの声はラジオからは流れなかった。
5月×日
来月までに決算書を出さなきゃいけないので、決算数字の整理をしている。といっても、入って来るカネと出て行ったカネの一覧を作ることくらしか出来ず、あとは税理士さんにやってもらっている。会社設立から11年、出版業の世界で40年近く食わしてもらっているはずだが、会社経営というものがいまだによく分からない。本を作ったら支払いが諸々発生する、本が売れたら入金がある、そこまでは明解だ。ところが決算となると、イメージと違う結果を見せられる。「出版は少しむずかしいですね」と税理士も口にしたりする。なるべくシンプルな商いにしたいと心掛けているし、そもそも一年間に新しく生み出す本は3点か4点だ。けっこう原始的な仕事をしているつもりが、そうはならない。それだけ、ぼくの脳ミソが会社経営に向いていないということなのだろうけど。
5月×日
好きなフォント、嫌いなフォントがあるように、好きな判型と嫌いな判型というものがある。本のサイズのことです。本が出来上がって、それを手にしてから可愛いか可愛くないか、ということだと思う。ゲラ段階ではそう感じられなくても製本されると違いが出る。今度の新刊、判型をどうするか決めなきゃならない。素直に考えればA5正寸なのだが、じつはぼくはA5の本があんまり好きじゃない。もちろんこれまでA5の本を何十と作ってきたはずだ、まあどれもそれなりに可愛いのだが、10年20年して、違和感が高まるのだった。この210×148というサイズ感。まずコンパクトな読書に適した箱ではない。A4やB5の広大さがあればもっと遊べるだろうに。それもできないから中途半端なのだ。しかしそんなことをあれこれ考えていても誰も幸せにはならない。8月予定の新刊、しかたなくA5正寸と決めて始動する。
5月×日
この会社を興して最初のうちは友人たちに任せていた。そのころ勤めていた版元の仕事がヒートアップしてしまい、辞めるタイミングを逃したのだ。8年たって、さあやるぞ、と思ったときに金庫はゼロになっていた。それどころか、本が3冊くらい作れるほどの借金まであった。本3冊ではない。正しくは3点です。さあやるぞ、どうやろう。それまで作った本は河出書房新社さんから発売させてもらっていた。つまり、本の生産だけする会社だったのだ。これからは作った本を自分で売って借金も返さなきゃいかん。この業界で30年以上やってきたためにトーハン日販中心の流通ルートに怒りを覚えたことは数知れない。それでまず、トランスビューを訪ねた。版元ドットコムにも加入した。事務所のドアのネームプレートには「カウンターカルチャーの待合室」と記した。ハモニカブックスの再スタートである。
6月×日
ウクライナの戦争は終わりが見えなくなっている。泥沼化して10数年つづいたベトナム戦争もこんな感じだったのだろうか。あのときは、米国国内だけでなく国境をこえて反発の大きなうねりが巻き起こったと聞く。カウンターカルチャーが吹き上がった時代のことは数年遅れてテレビや雑誌から見聞きした。いまの東京はせいぜいソフィア・ローレンの『ひまわり』上映館に人が押し寄せている程度だ。ウクライナに行ったことはないが、2018年にクリミアに行く必要があって、旅行代理店に行ったとき「ウクライナのクリミアですね」と間違えられた。航空券を探しても、キエフ(いまのキーウ)経由では入れない。モスクワを通らないとクリミアには行けない。クリミアが4年前にロシアに「併合」されたことは聞いていた。そんな場所になぜ行ったのかは『ヤルタ★クリミア探訪記』
を参照していただきたいが、PANTA(ロック・アーティスト)がクリミアのヤルタで開催される音楽祭に招待されたとあれば行かないわけにはゆかぬ。そんなところだ。現地ではロシア人通訳のニコライ氏の世話になったのだが、公式通訳者として「ロシア人は90%の人がプーチンを支持している。ゴルバチョフはダメな指導者だった」と語る彼の意図を問い質せなかったことが、あの数日間の旅で、どうにも未消化のまま心に残る。
6月×日
長いこと本を作って来て、買ってくれた人の声が聞きたい、顔が見たいと何度思ったことか。最近はめったに読者ハガキが挟まってる本はないが、まあ仕方ないだろう。読者の声は訊きたいが、背に腹は代えられない、ってことだよね。たまに挟まってるハガキをみつけるとうれしくなって書き込んで切手まで貼って送ってしまう。まあおもしろかった本に限ったことだけど、今日の午後、先日送ったハガキの返信をわざわざ封書でいただいた。お名前を見て、その本の担当編集にして版元のボスであることに敬服。ちょっと感動する。もちろん面識はない。見習わなきゃいかん。でも、できるだろうか。その版元は現代書館さんで、『千代田区一番一号のラビリンス』
という本を世に出してくれた。森達也さんの、愛に満ちた小説です。
6月×日
神宮前の和田誠事務所で、Yさんと打ち合わせ。和田誠さんがいなくなってどのくらい経つだろう。事務所は移転が決まっているからどの部屋もからっぽだ。和田さんのいない事務所なんて寂しくて仕方ない。でも、ここに来ることがもうなくなるのだと思うとそれも悲しい。30年、よく通ったと思う。メールのやりとりで仕事を済ませられるような時代になっても変わらなかった。版下にトレぺがかかってなかったけど、助手不在の時期だったのかなあ。依頼のとき、原稿を取りに来るときはもちろんだが、なるべく用を作って和田さんに会いに出かけた。絵本が重版になるたびに届けたし、とても無理そうな企画を掲げてわざわざ訪ねた。和田さんに会いたかったからだ。忙しいのに和田さんはいつも時間を作ってくれた。からだを壊されて数年前から仕事をセーブされるようになり、和田さんはめったに事務所まで来なくなったが、定期的にボイスレコーダーを持って通ったのだ。
6月×日
土曜の午後、目黒区民センターで開かれた「あさま山荘から50年」というシンポジウムを少しだけ覗いた。10年前、15年前と、5年ごとに「連合赤軍の全体像を残す会」が開催している。5年前に較べて会場の参加者が少ない。“事件”から50周年で、新聞やテレビで頻繁に報道されていると感じていたのにシンポジウムに足を運ぶ人は多くないのか。いま“事件”と書いたが、今年1月に刊行した本のタイトルでは意識的に“事件”をはずして『連合赤軍を読む年表』
とした。連合赤軍について、あの凄惨な記憶ばかりに振り回されないように、長い時間の壁をこえて慎重に向き合いたかったからだ。「連合赤軍の全体像を残す会」の椎野礼仁さんが15年前に編集し彩流社さんから出た本をベースに、仮名で表記されていた関係者の名前をすべて実名に直し、1971年前後の新聞紙面を日毎に追い、彼らの生きた時間にできるだけリアルな背景を与えた。あの時期、この国はどんな感じだったのか、彼らがどんな若者たちの中で、孤立し、山へ向かったのか。この本を編集しながら、毎日それを考えていた。実際、1972年以降を生きてきた僕自身にとって、長いあいだ連合赤軍は最大の謎、課題のひとつだった。本が出来て、ずっと喉に引っ掛かっていたものが胃のあたりまで落ちた感じだ。
7月×日
本を作るときに自分で本文の指定とか割付をしなくなって久しい。書体やら級数やら行間やら自分で指定してたのは写研の時代までで、写植の切り張りまで編集者がやっていたころの話だ。マックを駆使するようになったデザイナー氏たちがあんまり簡単に出してくれるので、そこに安住することにした。そんなことを棚に上げて言いたいのだが、本文の級数をこんなにでかくしたのは誰なんだ。この30年、40年のあいだに単行本の文字はぐんぐん大きくなっている。古本屋に行って80年ごろの本を開いてみなさい。たとえばスポーツジムで、よく鍛えられた老齢者の姿にハッとさせられることがありませんか。いまの本は明らかに文字がでかくなってユルユルと並んでいる。新聞たちもひと頃活字を大きくしましたキャンペーンを繰り返していた。それは読者サービスか? どうして? 背景は高齢化? たしかにこの国はこの30年で急速に高齢化した。しかしながら老眼の読者がそんなユルユルの本を望んでいると決めつけるのはちょっと単純すぎる思い込みじゃないだろうか。
7月×日
中山ラビさんの一周忌。H君やT.KさんたちとJR五日市線に乗って八王子市の上川霊園まで。帰り際にやはり国分寺。ちょっとした小旅行のような一日だった。墓参りには乗り気じゃなかったのだが、H君に誘われて気持ちが変わった。70年代からのファン同志であるT.Kさんにも会いたかったし。もし行かなかったら一人でどうしていただろう。彼女の命日、一人でいられない彼や彼女が、その夜は国分寺の居酒屋ほんやら洞に集まっていた。ラビへの想いは人それぞれだが、10代の多感な時期に目の前に現れたシンガーソングライターはその人の人生に強い刻印を残す。ぼくにとって彼女は“親友”だったんだ、と彼女がいなくなってから分かった。彼女がリリースした最後のCDブックはハモニカブックスの『My Back Pages』
だが、ぼくは何作か彼女の自主製作のCDづくりを手伝った。と言っても音のことはエンジニアがいるのでお任せして、曲のセレクトとかパッケージングとか。でもラビは自分の思い通りのものしか作らなかった。1年前にラビが逝ってしまってから、自分の気持ちを言葉にできずに、ひたすらファンページの運営に熱をあげてきた。でも、もうしばらくはグズグズさせてもらおうと思っている。
7月×日
編集稼業をして来て、自分の版元を作ることは当然のなりゆきというか必然だった。「映画監督は3日やったらやめられない」というのは友人の弁だが、本作りも同じ。本の形式も様々だが、書き手が100人、イラストレーターが20人、デザイナーが5人、そんな本を製作する編集人をやっていると、これは映画監督と同じだなと感じていた。30年も本作りをしているといつも同じ調子では臨めなくなるが、ときどきドーパミンが出るような仕事に出あう。あの感覚がたまらない。人は、だから本を作ってきたのだろう。病魔に襲われた役者がそれでも舞台に立つと、別人のように活き活きとして輝いた姿を見せる。ドーパミンの味を知らない人生もあるのかもしれないが、知ってしまったら人はドーパミンのために生きる。本作りという仕事に定年の枠をはめることはむづかしい。
7月×日
絵本作家のささめやゆきさんと大船の居酒屋へ。参議院選挙の直後だったのでその話になった。「どこに投票したんですか」「比例区は**党、選挙区は**党の誰それ」「まったくおんなじじゃないですか!」「やっぱりそうかー」住んでるところが違うから同じなのは政党名だけで、ぼくの選挙区で勝った候補の党はささめやさんの選挙区では敗れたが。日本人の悲しさ、不自由さで、政治の話、投票の話はなかなか話題にしにくい。話題にできる相手は限られてしまう。ささめやさんと投票先が一緒だったのは奇遇だ、というわけじゃなく、類に呼ばれた友というやつかもしれない。「それにしても選挙は空しい!」という話の流れになるのだが、結局、勝ったか負けたかで、これからは与党のやり放題。いちいち細かいことを民意に問うことなどすっ飛ばして「インボイスだ」「国葬だ」「有事だ」「自己責任だ」と突き進むんだろうな。ささめやゆきさんの家は鎌倉。今まで『異国の砂』
など、色んな仕事をご一緒した。その日はまた新しい仕事の話ができて、上りの横須賀線、がらがらの車輛に乗り家路についた。