11月18日土曜日、ジャズ喫茶「海」で
2006-11-22 水曜日
甘くせつないリズム、センチメンタルジャーニーが流れる——。久し振りに聞くジャズライブ。博多のブルーノートで聞いて以来もう10年ぶり、いやそれ以上。ボーカル抜きのライブは、わが町西荻の「アケタ」の店にときどき聞きに行く。今日は、かろやかなピアノ、粋なベ—ス、心解かす甘いボーカル。
昨日(11月18日土曜日)朝霞ジャズ喫茶「海」、夜8時、出版記念のライブコンサートがひらかれた。ピアノの友重和彦さん、ベースの諏訪達夫さん、3人であわせるのは今日がはじめて。この店で歌うのもはじめてという、女性ボーカルの長谷川薫さん。もう何年もうたっているように馴染んだ空気。ここで江利チエミもうたったという。明るい笑顔がそこにあるような気がする。時の積み重ねが、壁に天井に、空気の中にあり、厚い時代の層をつくる。最後のジャズを聞いて戦争に出ていったアメリカ兵もいたかもしれない。
かつてここ朝霞は「日本の上海」とよばれていた。そのころ1952年8月、この店が誕生した。店主・小宮一晃さん(1929年生まれ)は、もともと日本橋生まれだが、父親の影響で数多くのアメリカ映画を観て育った。宝塚にあこがれていた姉の影響でたくさんのジャズを聞いて育った。敗戦直後、9月8日にアメリカ太平洋軍の第8軍が朝霞に進駐してきた。1953年にはキャンプ内にFEN(FAR EAST NETWORK)東京放送局が開設され、ジャズがラジオからあふれ出た。FENは何万枚ものレコードを所蔵し、ペギー葉山が新曲を聞きに訪れたという。朝霞には多くのジャズ喫茶ができた。日本のジャズマン渡辺貞夫やフランキー堺も演奏していた。小宮さんはジャズ喫茶を開くなら、この朝霞の街でと決めていた。戦時中は広島・江田島の海軍兵学校にいたので、店の名前は「海」にした。
東武東上線の「朝霞」駅南口から、旧川越街道方向に約十五分歩いた左側にいまも「海」はある(048—465‐8722)。
1週間に1度ほど、ライブがある。この店の歴史がジャズマンをよぶ。六本木で、5千円の入場料を取る人を、この店では2千円で聞くことができるという。壁には戦前からのレコードジャケットが飾られ、客たちに語りかける。開店当時のこの一帯、朝霞南栄商店街はきらびやかな町だった。バーやキャバレーが70軒、スーベニ—ルショップ、写真館など様々な店とアメリカ人日本人で賑わった。かつての米軍キャンプ跡地はいま広大な敷地が残されて、これからどのように使うか、市民参加で話し合いがつづいている。
時代は移り変わるが、ここで働き、子どもを育て、日々の暮しを積み重ねてきた人々の暮しと歴史——。『君たちに伝えたい 朝霞、そこは基地の街だった。』には、丁寧に書かれている。著者は地元朝霞の中学校の中條克俊先生。8月に初刷り刊行以来、2カ月で増刷という画期的な本になった。地元の人々の関心と必要にこたえた。地元の書店さんからは、いまも注文をいただく。「輝いていたときも、切ないときも」このなかに盛り込まれている。そして、またあらたな歴史をつぎの世代のわかものたちが作り出していく。この本はそんな役割を、きちんと受けとめて果しているにちがいない。
「半年後に、またライブひらかない?」 芸大で先端芸術表現科に在籍し、「基地跡地を考える会」に参加しているという若者に提案した。ジャズとお酒に酩酊気分で夜の朝霞を駅まで歩いた。

