営業代行奮戦中!

2004-5-26 水曜日

風声舎 石井章夫 :http://www.fuuseisha.co.jp/

“営業代行”って聞いたことあります?出版社の方は聞き慣れた言葉かと思いますが、一応説明すると出版社の方の代わりに営業をする仕事です。
 去年9月にサラリーマン生活に終止符を打ち、知り合いと二人で会社を起こし、いわゆる“営業代行業”を始めました。『版元日誌』は、以前2回ほど登場させていただき、その名のとおり版元営業の立場で書きました。今回は、ほとんど個人的なPRになりますが、‘へえ〜’って感じで読んでください。

 私はといえば、出版営業を計3社21年間やってきました。言い方をかえれば、出版営業しか知りません。相方も出版営業で飯を食ってきているので、2人で計4社30年以上の版元営業経験をもとに活動を始めました。共に版元時代、今の立場である“営業代行”にお願いしていたので出版社と代行、両社の考えや気持ちがよくわかります。そんな観点で営業代行業を始めましたので、版元さんに営業代行業者の仕事を広く捉えていただき、もっとうまく使ってほしいと思います。始めて半年ですが、エピソードを書きとめながら活動内容を紹介しますので、営業代行って仕事を単なる販促代行以外でも活用してください。

 ある出版社からこんな相談を受けました。ある書籍に関して、火曜日に増刷ができるそうですが、その週の日曜日に新聞広告を大きなスペースで掲載するそうです。普通に注文
出荷すると土曜日までに全国の書店に陳列が不可能なんだけど方法はないだろうか?との相談でした。当然、注文扱いでほぼクリアにしました。
 こんな出版社もあります。事務系以外の営業全般を受けています。それこそ取次への新刊見本から新規書店の出品手配もやっています。また、書店訪問セールス以外に学校訪問セールスも行なっています。
 また、別の出版社の場合、ただ営業マンパワーだけでなく、出版営業ノウハウの提供をしています。かっこいい言葉でいうとコンサルティングみたいなことでしょうか。
 一方、かなり業界寄りの話になりますが、全国の書店に広い範囲で新刊書籍を届けようとすると‘新刊委託手数料’というのが発生しますが、これをクリアにするプロジェクトが出版社と合同で現在進行しています。また、企画にも携わり、より売れる企画への一助もしております。
 紹介したのは、ごく一部ですが日々販促代行をおこないながら、それ以外の営業にかかる全般をおこなっておりますので、“注文を何冊とったか”だけの使い方はもったいないですよ。

 最後に、いま取引している出版社のイチオシ書籍を紹介しますので、ご興味のある方は、ぜひ出版社か書店に問い合わせてみてください。
エフエム東京「モータウン、わが愛と夢」、飯塚書店「金子兜太の100句を読む」、海拓舎「クラウディア奇蹟の愛」、社会評論社「これだけは知っておきたい韓国現代史」、新日本教育図書 「英語教師必携ハンドブック 英語ゲームの教科書」、TAC「日商3級 第107回をあてるTAC直前予想」、トラベルジャーナル「東京シティガイド検定(初級)公式テキストブック」、長崎出版「暁の円卓 目覚めの歳月」文星出版「キノコ20種複合菌糸体(濃縮エキス)が再発・転移ガンを治す」


▲ページの上端へ

今、なぜデータベースの整備が必要なのか

2004-5-19 水曜日

日本出版インフラセンター 本間広政 :http://www.jpo.or.jp/

 日本出版インフラセンター(JPO)の出版在庫情報整備研究委員会(情整研)第2部会は、この5月24日に出版社の在庫情報を電子的に業界間でやりとりするときの「在庫ステータス・コード表」の改定案と、書誌情報フォーマットの改定案を答申書としてまとめ、上部機関である情整研に提出することとなった。
 答申書とそれを作成するに至った経緯は別な機会に述べるとして、「今、なぜデータベースの整備が必要なのか」についてだけは以下に記述し、皆様方のご意見を賜りたい。その前に、日本出版インフラセンターを簡単に紹介する。

1、日本出版インフラセンター(JPO)について
 JPOの正式名称は「有限責任中間法人日本出版インフラセンター」である。平成14年4月12日に日本出版データセンター(JPDC)として設立された。主たる事務所の所在地は、東京都新宿区袋町6日本出版クラブ会館内にある。設立を支援し、基金を拠出した設立社員は、日本書店商業組合連合会・日本出版取次協会・日本雑誌協会・日本書籍出版協会・日本図書館協会の5団体である。
 半年後の平成14年10月25日の理事会において、出版業界の流通改善と読者サービスをより積極的、且つ広範囲に推進する必要から、事業の拡大とそれに伴う機構改革及び名称変更を行い、平成14年11月28日に冒頭の名称となった。
 
 主な目的は、出版情報及び出版情報システムの基盤整備を図り、出版および関連産業の発展に寄与することにある。
 そのために、出版情報等の標準フォーマットの作成と普及促進、出版情報の収集と配信、出版情報提供者の情報システム基盤整備の支援、電子データ交換システム基盤整備の支援、その他、当センターの目的を達成するために必要な事項の事業をおこなう。
 その狙いは次のとおりである。
(1)読者サービスの向上
 読者が書店にほしい本を注文すると、3週間後に書店から「品切れです」と返答されることがある。読みたい時がほしい時であるのに、3週間も経過してから「品切れです」と言われたのでは、本からの読者離れが進行しても仕方がない。こうしたことのないように、重版未定(絶版)情報、在庫情報をより正確に反映させ、読者サービスの向上を図る。

(2)増売の支援
 刊行予定情報を読者に配信したり、発売日前の受注を参考にした配本で返品と機会損失を減少させ、増売を図る。

(3)効率化の支援
 出版物の刊行予定情報・重版未定(絶版)情報・定価改定情報をJPOが集中受信し、それを必要とする企業・団体にJPOが配信する仕組みを構築することにより、業界全体の効率化を図る。

(4)インフラ整備に関する調整力の強化
 世の中で部分最適が必ずしも全体最適にならないことはよくある。既存システムとの利害調整を図りつつ業界の情報システム基盤整備の全体最適化を実現しようとすると、利害関係者のいずれにも偏せず中立的立場を確保することが最低の必要条件となる。その意味でJPOの成り立ちと構造は、その要件を備えている。

(5)収集データの網羅性・信頼性・迅速性の向上
 出版物の刊行予定情報・重版未定(絶版)情報・定価改定情報の収集率は、現在、どの企業・団体の書誌DBも単独では不完全であり、協力し合うことによってのみ高品質な書誌DBの実現が保障される。
 例えば、JPOの設立が業界内に協調の環境を整え、取次の「仕入システム」にJPOの受信情報を流し、仕入窓口において発売日前にJPOに出版情報が届いている社か、いない社かの判断をし、届いてない社に対して設立社員団体会長・理事長連名のお願い状を手渡す仕事の仕方を可能にする。この仕組みは、出版情報の収集で苦労している企業・団体の「データ収集の網羅性や、内容の信頼性、収集時点の迅速性」を確実に向上させるはずである。

 事業を進める体制は、総会、理事会、運営委員会があり、運営委員会に調査・研究部門としてテーマ別に研究委員会を、処理部門として事業別にセンターを必要に応じて置いている。
 平成16年5月1日現在、委員会としてビジネスモデル研究委員会、ICタグ研究委員会、出版在庫情報整備研究委員会、センターとして日本図書コード管理センター、データセンターの3委員会・2センターがある。

2、出版在庫情報整備研究委員会(情整研)について
 客注をはじめとした書店店頭での顧客対応において、顧客を満足させるために必要なシステムを研究・検討するのが出版在庫情報整備研究委員会(情整研)である。
 例えば、顧客は、ほしい本が発行されているのか。発行されているとすれば、現在流通しているのか。流通しているとすれば、書店・取次・出版社に在庫はあるのか。どこにも在庫がないとすれば、いつ重版されるのか。重版の予定がないとすれば、それは絶版本なのか、を知りたがっている。
 研究・検討の基本コンセプトは、店員が店頭で自信を持って顧客に返答のできるシステムを構築し、顧客の満足を実現する、そして顧客満足度の向上を図ることによって機会損失を減らす、また書店店頭の活性化を図り増売につなげることである。

 情整研は、三つの部会を設置し、次のことを推進している。
 第1部会は、「既存の取協(日本出版取次協会)の新出版ネットワークや書協(日本書籍出版協会)の書誌DBシステムに対する出版情報を提供する出版社を増加させる」ための施策検討と、既存システムに出版社が出版情報を提供することによって、出版業界の情報システム基盤が整備され、読者の在庫問合わせ等に対しても正確にして素早く答えることが可能になり、結果、本の増売につながることを強調し、情報未提供社に対して情報提供の呼びかけをしている。
 この4月に、当部会は、出版社が書誌・在庫情報を提供しない、できない原因を探るために、アンケート調査を実施した。これらは6月に集計・分析され、7月には報告書としてまとめられる予定である。

 第2部会は、「取協の新出版ネットワークや書協の書誌DB等の既存システムに対する出版情報を提供する出版社を増加させる」ために、既存システムの電子データ交換(EDI)用書誌フォーマットや在庫ステータスコード表の改善案を研究・検討している。
 これらのフォーマットやコード体系は、その原型が1991年に作成され、これまで大きな改定もなく版を重ねてきた。しかしこの間、世の中は激変した。 EDIの普及やインターネットの登場にみられるように、IT化の進展には驚かされる。更新されることのない業界標準の作成は、むしろ作成されないほうが良かった、ということにもなりかねない。それは、「水は流れていれば腐らないが、止まると腐る」現象に似ている。「システムの更新」は「水の流れ」に相当する。第2部会は遅きに失した書誌フォーマットと在庫ステータスコードを見直し、それを答申するというのである。

 少し話は横道にそれるが、在庫ステータスコードを例にとって「業界標準の作成と更新」のことについて考えてみる。
 もともと在庫ステータスコードは、「書店の店頭で出版社の在庫の有無が分かるだけでも助かる」、という取次や書店・読者の要望を満たすために、 TONETSやNOCSといった取次の書店に対するサービス・ネットワーク・システムを前提にした出版社の在庫状況を表現したものであり、目安のような感覚的基準値であった。
 しかし、その後まもなく始まった取次と出版社間の受発注システムは、在庫情報をそれだけの利用で終わらせなかった。コンピュータシステムの受発注基準値として使用したのである。ところが多くの出版社の在庫情報は、受発注システムに耐えられるだけの品質・精度を有してなかったために、運用現場は混乱した。
 在庫情報を提供する出版社は、「在庫ステータスコードは『在庫の有無』を表示しただけで、『出荷の可否』を表明したものではない」というのである。「在庫の有無」は客観的な事実であるが、「出荷の可否」は主観的な判断であり、極めて営業戦略的なものであって、機械的に決定できる性質のものではない、と言うのである。
 システムやコード表は作成時点のままで変化しないが、仕事の仕方は常に変化する。故にそのギャップを常に更新する必要がある。それを怠ると「水が腐る」ようにシステムやコード表も「ないほうが良かった」といわれかねない。

 第3部会は、出荷(受注)回答システムや客注情報追跡システム、バーチャル共有DBシステム等々、既存システムにない将来ビジョンとしてのアプリケーションやEDI情報に関する調査・研究をしている。

3、今、なぜデータベースの整備が必要なのか
 当センターのICタグ研究委員会は、経済産業省の助成金で実証実験を行うなど、「本にICタグを装着することの効用と限界」について、積極的に調査・研究をしている。そこの第3部会であるシステム・ネットワーク部会は、システム・ネットワークのアーキテクチャーについて次のように考察している。
 本のICタグはコストとの関係から、それほど大きな容量を持つことはできない。従って、タグに商品名や著者名の書誌情報を含ませたり、本の流れを示すトラッキング情報を記録するデータキャリー型のICタグはふさわしくなく、書誌情報やトラッキング情報等のデータベースがネットワーク上のどこかに置かれ、必要に応じて誰もが、何時でも、何所からでも参照・取出しができる仕組みになってないと不都合である、と。
 但し、データベースを分散型にするのか、集中型にするのかとか、共有にするのか、私有にするのか、あるいは、それらの利用を有料にするのか、無料にするのか、といったことは、今後の検討課題としている。

 前述のことは、今後の出版業界を取巻く環境やIT化の動向が、データベースや「必要に応じて誰もが、何時でも、何所からでも参照・取出しができる仕組み」を必要としていることを示した一例である。だが、ことは将来のことだけから必要が迫られているわけではない。書店の配達外商の納品書や請求書発行の機械化においても、書誌DBは必要とされる。
 取次の納品書が機械で打ち出されるようになったのは、昭和35年頃からだ、と聞いた。それから40数年の月日が過ぎている。しかし、かなりの書店は未だ手書きで納品書を作成している。この状況を作っている原因の全てが、書誌DBや「必要に応じて誰もが、何時でも、何所からでも参照・取出しができる仕組み」がないからだ、と言っているわけではないが、もっと早い時期に書誌DBや「必要に応じて誰もが、何時でも、何所からでも参照・取出しができる仕組み」があったならば、書店のコンピュータ化は、格段に進んでいたことだろう。その結果、出版業界の情報システム基盤整備は、かなり進展をみたのではないか、と言っているのである。
 情整研・第2部会から書誌情報と在庫情報に関する答申書が出てくる今日的状況は、今度こそ書誌DBや「必要に応じて誰もが、何時でも、何所からでも参照・取出しができる仕組み」作りを先送りしてはならない、と私をして自戒させ、そして、私に「今、なぜデータベースの整備が必要なのか」、とりわけ「今、なぜ書誌DBの整備が必要なのか」を訴えさせている。


▲ページの上端へ

「暴露本出版社」が「言論の自由」と「報道被害」について考える

2004-5-12 水曜日

鹿砦社 中川志大 :http://www.rokusaisha.com/

「そうそう、僕はわりと原則的なスキャンダリスト。松岡はアナーキーなスキャンダリスト。なんでも暴いちゃえばいいと思っているフシがある。そういうことをしていると、いずれ権力に足元掬われると思うね。だって逮捕しやすいじゃない。松岡だったら、僕だとジャーナリズムの原則と大義名分で正面切って闘っちゃうから逆に逮捕しにくいだろうけど(笑)。たとえば署名活動しましょう、といった場合、僕なら支持者たちが集まるけど、松岡だと誰も署名しないんじゃないか。わはははは」
 これは、小社刊『平成の芸能裁判大全』内のインタビューにて、かの『噂の眞相』編集長・岡留安則氏から小社鹿砦社代表・松岡利康についていただいたありがたいコメントである。
 引用中で、岡留氏は松岡を「アナーキーなスキャンダリスト」と評し、「何でも暴いちゃえばいいと思っている」と言う。「アナーキーなスキャンダリスト」であるとはどういうことか。私としては、スキャンダリストは常にアナーキーであるべきだと考えている。

 そもそも、どうしてスキャンダル暴露をやるのか。答えは簡単。読者がその情報を欲しているからである。そして、どうしても世に明らかにしなければならないからである。「言論の自由」、「出版の自由」という言葉は出せても、こんな単純なことを言えないのがもどかしい。なぜ言えないのか。「報道被害」という問題があるからである。もっと言えば、「報道被害」という言葉に惑わされているからである。
 いくらわれわれが「アナーキーなスキャンダリスト」の出版社であるからといって、「報道被害」の問題や現状を無視するつもりはない。報道によって生活が滅茶苦茶に壊されるということは、実際に起こることだからだ。ただし、「なぜ壊されるのか」ということが重要だ。それは、一般のいわゆる「庶民」には、「反論権」や「対抗言論」の手段がないからだ。
 この理由を抜きにして、「報道被害」という耳あたりの良い言葉だけが一人歩きする。損害賠償金がますます高額化する。被報道者は、「報道され、被害を受けた」ことだけを理由にメディアに対して訴訟を起こすが、たとえ「反論権」や「対抗言論」の手段を持つ者であっても、その権利を行使する者は非常にまれだ。ただ、被害を受けたことだけを強調するばかりである。小社も名誉毀損裁判を起こされているが、そのつど、回復の手段として、小社書籍に反論を掲載すると伝えている。しかし、いくら言っても、一度たりともそれに対して返答をもらったことがない。
 繰り返す。「報道被害」が生じるのは、「反論権」がないからだ。政治家、芸能人、大企業、知識人、言論人には、「反論権」や「対抗言論」の手段がいくらでもある。社員5人の弱小地方出版社にすぎないわれわれ鹿砦社と比べても仕方がないが、その影響力は不況にあえぐ出版界以上のものがある。
 さらに、名誉毀損訴訟を裁く裁判官の認識にも問題があるようだ。多くの裁判官の認識では、「名誉(毀損)=社会的地位」という図式が成り立っており、すなわち、「毀損されるべき社会的評価の高い人間(有名人、権力者)ほど、名誉毀損による被害が大きい」ということになっているらしい。とんでもない話だ。高裁でくつがえされたものの、なぜ田中真紀子の長女が『週刊文春』に対して反撃できたか? それは、田中真紀子の長女だからだ。「力」があるからだ。あの事件は、「公人」だとか、「私人」だとか、「プライバシーの侵害」だとか、そういう問題ではない。
「言論の自由」「報道被害」について、ただ重要性を叫ぶだけではなく、その内容について今一度考えてみるべきではないか。

 以下、余談。
 日本を代表する大出版社の名門週刊誌『週刊文春』の出版差し止め事件は、相次ぐ悲劇的なニュースに紛れ、すでに忘れ去られつつある。この事件があれほど大きな話題になったのは、大手出版社の発行部数77万部の『週刊文春』だからだ。手前味噌で申し訳ないが、小社鹿砦社は過去に5度の出版差し止めを受け、現在も1件が神戸地裁尼崎支部にて係争中である。「出版差し止め仮処分」という制度の危険性について、小社はことあるごとにその検証を訴えてきたが、ことごとく見過ごされ、常態化した感さえある。
 さらに名誉毀損をめぐる裁判が2件進行中だ。パチスロ業界最大手であり社会的問題企業「アルゼ」、及び「わいせつコミック裁判」で話題になったエロ漫画出版社「松文館」との訴訟である。うち後者については私自身が被告として挙げられている。どちらも『週刊文春』などと比べるまでもなく、たいして話題にならない。しかし、双方とも出版界にとっても非常に重要な裁判だとわれわれは考えている。対アルゼ裁判は請求額3億円という超高額訴訟であり、後者は原告である松文館が、いまやリッパな「表現の自由を守るために戦う出版人」(同社代表・貴志元則が自称している)であるからだ。巨大企業が「報道被害」を叫びながら巨額の賠償額を請求し、「表現の自由を守るために戦う出版人」が言論によってではなく訴訟によって言論を封殺する——ゆゆしき事態である。


▲ページの上端へ

書籍が総額表示にできない3つの理由

2004-4-28 水曜日

太郎次郎社エディタス 須田正晴 :http://www.tarojiro.co.jp/

 先日、書店で見た光景。
 レジで初老の男性客が、多量の本を買って精算を待っている。手持ちぶさたに、書店員に話しかける。
「本は総額表示じゃないんだね。」
 書店員は、「ええ、まあ」と口をにごしている。
 気持ちはわかる。下手な受け答えをして、お得意さんの機嫌を損ねたくはないし、「なんで、版元の表示の都合に私が言いわけしなくちゃならないんだ」という気分もあるだろう。でも、ちゃんと答えてほしいとおもう。本には、総額表示にできない理由があるのだから。

 もとより、「総額表示義務化」はこれからの消費税増税に向けて痛税感を緩和するためにおこなわれた。「価格表示に混乱がある」「レジでわかりにくい」などという、絶無とまではいかないまでも、普遍性も切実性もない理由がつけられているが、そこに正当性はない。
 私が小出版社の営業として見聞した範囲から言うと、この正当性のない理由づけに諾々と従えば、書籍流通、とりわけ既刊流通は近い将来に大きなダメージを受けることになるだろう。書籍の流通は以下の3点の理由によって、まったくもって総額表示には向かないからだ。

●理由1 点数が多い。

 現在、書籍の入手可能点数は70万点ほどと言われている。なかなかの点数だ。
 店舗あたりの点数も多い。たとえばコンビニエンスストアの一般的なアイテム数は40坪弱で3,000品目くらいといわれるが、3,000点しか置いてない書店というのはほとんどない。書店によって開きはあるものの、だいたい坪あたり400点くらい置いている。駅前10坪強の書店でも4,000点はある。コンビニの6倍の密度だ。
 中規模(1,000坪ていど)なスーパーストアで25,000アイテムだそうだ。書店で1,000坪といったら、それは大きい。日本最初のメガブックストアといわれた八重洲ブックセンター本店が現在1,200坪、在庫点数は40万点以上となる。
 一方で市場規模はと言えば、書籍のみなら1兆円、雑誌とあわせても2.5兆円に過ぎない。コンビニ業界は主要13チェーンで7兆円、スーパー業界なら 14兆円だ。16倍の密度に14分の1の売り上げ。書籍業界の負担はスーパー業界の200倍以上になる勘定だ。

 とはいえ、点数の多い業界はほかにもあるかもしれない。手元にある50ccオートバイの部品リストを見てみると部品点数は1台で約1000点、それぞれに希望小売価格が付いている。機械部品は点数が多そうだ。しかし、書籍の流通にはほかにも特徴がある。

●理由2 メーカーが価格を決めている。

 コンビニやスーパーでは、商品に値札が付いていることが少なくなった。かなりの店で、ハンディターミナルとPOSレジのシステムが導入されている。バーコードをキーにして、店で決定した小売価格をデータベースに登録し、価格を棚の表示に反映させ、レジでの表示にも連動させている。
 生鮮食品が閉店間際に半額になったり、ある棚のものがタイムセールで20%引きになったりするのを見ればわかるとおり、小売価格は小売店が決定する。逆にメーカーが小売価格を統制することは独占禁止法で規制されている。
 出版業界は、この独占禁止法の規定から適用除外を受けていて、メーカーが小売りの末端価格を指定することができる。再販売価格維持制度、略して「再販制度」と呼ばれるものだ。出版社はほとんどすべてがこの再販制度を利用し、個々の書籍のカバーに「定価」を印刷することでアイテム毎の販売価格を指定している。
 日本の出版界がもつ、「再販制」と小売店が仕入れた書籍の返品をおこなうことができる「委託制」との組み合わせは、小売店のリスクとコストを下げることで、多品目の書籍を店頭に流通させることを目的につくられたものだ。種々の弊害は指摘されてきたが、おおむねその目的に成功してきた。
 このシステムでやってきたため、書店は小売価格を自分で決める裁量をもたないし、もてるだけのマージンも受け取っていない。そのため、書店は価格表記を変える機能をもっていない。ハンディターミナルとPOSレジのシステムを持った書店も増えてきたので、原理的には書店が価格表記を変えることもできる。その場合、前述の取り扱い点数が邪魔をする。書店の棚は多くが1点1冊なので、棚に価格表示をすることはできない。したがって、かつてのスーパーでよく見られたように、ラベラーを使って価格ラベルを1枚1枚手貼りするということになる。しかも1枚ごとに価格設定を変えて。そのコストは膨大なものになる。書店にはとても負いかねる。
 したがって、「再販制」と「委託制」のなかで、価格表記が変更されるときには、いったんメーカーである出版社に品物が差し戻される。ここに流通コストが発生する。これは、消費税の導入時にじっさいに起こったことだ。

●理由3 長期にわたって流通する。

 現在、書店の店頭には多くの書籍が本体価格表示のまま並んでいる。「当面、本体表記のものも混在します」という店頭の貼紙を見た人も多いだろう。しかし、いまの混在が過渡期のものとおもったら大間違いだ。2002年の書籍新刊点数は7万6千点。現在の流通点数が前述のとおり70万点。つまり、いったん世に出た書籍は平均10年に渡って流通する。その間、幾度かに渡って出版社と店頭を往復するわけだが、その出荷のされかたは、新刊や重版で一度に配本されるだけではない。1冊1冊を読者に届ける客注や店頭の棚に並ぶ常備品の入れ替え、書店のフェアへの出荷などは、在庫品から出荷することになる。在庫品を出荷するのに価格表示の確認の手をかけられない出版社もあるだろう。
「当面の混在」はどのくらい続くだろうか。仮に、店頭にある書籍の98%くらいの価格表示が改まるのを「混在の解消」と考えるのなら、店頭在庫が代謝してその状態になるのに、すべての出版社が協力しても2年以上はかかるだろう。
 政府税制調査会は、消費税を2025年度までに20%ていどまで引き上げるとしている。小泉内閣が来年には倒せたとしても、20年で15%だ。2%きざみとして7〜8回、ほぼ3年に1度の増税がある勘定になる(増税がなかった場合は国債の濫発からハイパー・インフレが起こるので、定価うんぬんの論議はいっさい不要になる)。
 3年ごとに、この4月のような混乱が起こる。しかも、「定価1800円(税込)」だけしか書いていないような表記では、実際の支払い金額がいくらなのか、たしかめようもない。いつのまにか「定価表示カード」という名前をつけられた書籍スリップの上部への総額表示は上記のような税込み総額のみの表記が多い。(5)などと書いて税率5%を示唆しているものもあるが、そんな符牒を読者に判れといっても無理だろう。
 財務省の言うような「わかりやすい表記」は、「スリップへの表記を随時変更」という方式では向こう20年以上は無理ということになる。その間に、再販制維持とのバーターをちらつかせた「カバーに総額表記せよ」という公権力からの圧力があらわれるだろう。書店が出店しているショッピングモールやデパートも「他業種と足並みを揃えよ」と言ってくるかもしれない。書籍への総額表示の必要性を認めてしまったら、そこに反論する根拠をどこに求めればいいのか。

 以上の3点の理由の組み合わせによって、書籍を総額表示にするのはとても難しい状況にある。逆に言えば、総額表示を強行しようとすれば、3点のうちいくつかを犠牲にしなければならない。さしあたり「理由3 長期にわたって流通する」が犠牲になるだろう。
 ただでさえ、既刊の流通はコストとの闘いである。新刊がもつ「手をかければ火がつくように売れだすかもしれない」という希望が既刊には薄い。これまでの売上実績から予測売上を出し、倉庫費用などの維持経費との兼ね合いで在庫量を決定することになる。死蔵させておいても売上が伸びることなどまずないが、やみくもに店頭に出荷しても、返品率を引き上げる結末になる。流通各所にかけてしまった負担と失った信頼も気が重いが、目の前で発生する入出庫経費や改装費もバカにならない。
 そんななか、「意義があるとおもって世に問うた本だから」「まだ読みたいと言ってくれる読者がいるから」、出版社は在庫を維持しようとする。「この本がなければ、社のラインナップが崩れてしまう」という本もある。そこに総額表示の負担だ。1点の書籍が10年間で経験する増税は3回。カバーの変更なんてムリ、奥付表記なんてもってのほか、スリップの表記ですら「やせ馬の背にわら一本」、品切れへのきっかけとなってしまうかもしれない。
 出版社が本を品切れにするのに、書店が本を返品するのに、「価格表記が古いから」という本質からまったく遠い理由を発生させてはいけない。「古い本=重版ができない本=売れない本」という等式はいつでもどの書店でも正しいとは限らない。読者・場所・時によって、求められている本はちがう。
 新刊・重版ごとにスリップを入れ替えていけば、「新価格表記のあるものは売れスジ本」となる。しかし、そのような本だけが残って日本中の書店が「ランキンランキン」になってしまうような状態に、あなたは耐えられるだろうか?

 5%への増税時に導入した本体価格表示こそ、本の安定流通のために書籍業界が公取委に対して勝ち得てきた権利ではなかったのか。それをこうも簡単に打ち捨てて、ほんとうにスリップだけで妥協が済むのか。早々にカバーに総額表示を入れだしている出版社もある。いまこそ、「本は総額表示にできない理由がある」とはっきり言い、読者や周辺業種への理解を求めるべきだろう。
 スリップ表記に妥協することで「花を捨てて実を取った」気になって説明を怠れば、将来に痛い目を見ることになる。


▲ページの上端へ

当事者未満

2004-4-21 水曜日

しょういん 山田浩司 :http://www.shoin.co.jp/

– 『五体不満足』が身体障害に、『こんな夜更けにバナナかよ』が介護について奥歯に挟まったモノを引っこ抜いてくれた事を思い出しました。

これは「うつかもしれないと悩んでいた」という読者の方からいただいた手紙に書かれていた、『アカルイうつうつ生活』(小社)についてのコメントだ。

たしかに、『五体〜』や『こんな〜』はセンセーショナルで、おおかたの人たちが声に出しにくかった言葉を「引っこ抜い」た力があった。障害や介護の現場で苦しんでいる当事者の方にとっては、どうだったのだろう。

喘息やクローン病、うつ病。さまざまな病気の患者会を見学させていただく機会があった。気のおける患者仲間でしか吐露できない叫びやぼやき、切羽詰まった質問などを耳にして、聞く言葉ひとつひとつが不勉強ゆえショックで、当事者ではない自分はどこか気後れを感じた。ときどき、まるで患者自身が穢れているかのような自嘲的な発言をする人がいて、誰かに意見されることを拒んでいたようだった。

自分のような当事者でない人が「拒まれるのでは」と思い込み、勝手に引っ込めていたあやふやな疑問。障害や介護の当事者自身が本音で語り、そんな疑問を「引っこ抜い」てくれる場を作ったのが『五体〜』や『こんな〜』なのだろう。

– 「こころの風邪というより、こころの肺炎」ととらえつつ、ユーモアを忘れない著者のアドバイスは、うつ病の人や家族を温かく励ましてくれるだろう。(毎日新聞2004年4月8日 東京朝刊より)

すべての病気にその病気独特の悩みがあるように、こころというブラックボックスの病気とされている点にうつ病患者の悩みはある。捕らえ所のないこころについて悩む前に、うつ病は脳という臓器の機能不全であるのに、何かが壁になって語られる場所がない循環。どうもこころがうつうつすることが多く、「あれ、私はうつ病なのかな?」と不安になることがある。うつ病の当事者でもある上野氏の「ユーモアを忘れない」アドバイスが、誰にも相談できない、うつ病の当事者そして当事者未満の人が抱える悩みを、きっと「引っこ抜い」てくれるのだろう。

アカルイうつうつ生活』 上野玲著

毎日新聞 2004年4月8日 東京朝刊/書評


▲ページの上端へ

紫煙と縁深い業界で、卒煙を叫ぶ

2004-4-14 水曜日

実践社 小山幸恵 :http://www.jissensha.co.jp/

エレベータの中でのこと。
「不自由だねぇ」
「僕らが不自由なんじゃない。社会の構造が不自由を創り出してるんだ」──。
 バリアフリー? 私が声の主に視線をやろうとしたその瞬間、話題の焦点が分かった。彼らの衣服の臭いが、まさに喫煙者のそれだったからだ。彼らは全館禁煙のその建物に、大変な立腹ぶりだった。
 私がエレベータに乗っていたのは、イラク戦争・自衛隊派兵に反対する人々の集まりに出掛けた会場でのこと。「反戦」と名の付くところに出掛けると、タバコを愛好する人が何故か大変に多い。
 その日の朝、4月末発刊予定の『タバコ病辞典』を印刷屋に入稿したばかりだった。タバコ(や他人の喫煙のケムリ)を吸うと発症リスクが上がる病気、悪化する病気、疾病治療への悪影響など、タバコの健康影響を網羅したものだ。学校の保健室や図書館、病院の待合室、できればお茶の間で、一人でも多くの「未来のタバコ病患者さん」と出会って欲しい本だ。
 が、本屋さんに行くと「たばこ、ダメですかぁ」と苦笑いされることもしばしばだ。気のせいか、本に関わる仕事をする人にも、喫煙者が多いように感じる。そういえば、ウェブの「ジュンク堂店員のおすすめ本」にも、「喫煙者のユ〜ウツ」(シガー・ライターズ・クラブ)が入ってたな。
 駅のホームや公共施設がことごとく全面禁煙化されていく昨今の状況は、愛煙家にとっては「他者に危害を(そんなには)加えない範囲での自由」が包囲されていくが如く感じられるのだろう。確かに世の中にはキケンなもの、フジュンだったりフケツだったりするものが溢れている。それに欲求に対する人の弱さ、意志や決意の脆さ。そこにこそ、この世の魅惑もある。迷惑を最小限に抑えることを条件に、侵されてはならない「私的領域」の自由。言論文化たるもの、その侵害には敏感でなくてはならない。反戦運動家や本屋に頑固な愛煙家が多いのは、そんな信条のせいなのか。
 季刊『談』(財団法人たばこ総合研究センター)は小社刊『理戦』がよく隣に並んでいる雑誌だが、最新号のエディタ・ノートで、大澤真幸氏が「自由の困難」と呼ぶ事態をひいている。「個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに——つまり他者危害要件によって——、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる」(「〈自由〉の条件」・『群像』)。〈私の自由〉と〈他者の自由〉の間に生じる出来事について、モラルがルールにどんどん置き換わっていく風潮には、確かに疑問を感じることもある。ただ、タバコに関してはちょっと待って欲しい。
 厚生省資料によれば、タバコが原因の病気での死者は9万5000人、直接・受動喫煙から発生する医療費は1兆3086億円にのぼる。これだけの社会的リスクを、タバコ販売からの税収2兆3000億円を頼む政府は黙認してきた。多くの国が「たばこを吸うと肺ガンになる」と断言する警告表示を、パッケージに大書きすることを法律で定めている。にもかかわらず、Meet your delight──あなたのかけがいのない歓びを、のJTは「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」とあいまい表記、「タバコは文化だ」キャンペーンを続けてきた。タバコがどれほど、どのように体に悪いのか、同僚や家族の体に影響を与えるのか。医療費などの社会的リスクはどれほどなのか。その情報開示があまりにも少なかった。ただ漠然と「体に悪い」ことなど、子供でも知っているが、漠然と「体に悪い」ものならたくさんある。コーヒーもビールも唐辛子も、過ぎれば病気のモト。タバコはそれらとは抜本的に違う、「純然たる嗜好品」たりえないことが、明らかにされてこなかった。それでは喫煙にストップはかからない。
 健康ブームの中で成人男性の喫煙率は急降下中なのに、高校3年生男子の16%が1日20本のタバコを吸っている。近年、妊婦さんの喫煙率はうなぎ登りだ。未成年や胎児の体にタバコが与える影響は深刻であることを考えると、私たちの社会は〈自由〉についてのメッセージを誤って若者たちに伝えてはいないか。
 情報を入手可能にした上で初めて、そのことに関する〈自由〉は議論できるものだ。どんなにキケンだメイワクだとわかったところで、止めない人は止めないだろう。ただこの『タバコ病辞典』が、少なくとも公共空間においてのタバコに関しては〈自由〉の分がかなり悪いことをご理解いただくきっかけとなればと願っています。喫煙者と嫌煙者の議論、お父さんとお母さんの喧嘩のタネになれたら、さらに幸いです。


▲ページの上端へ

本を跨ぐ

2004-4-7 水曜日

批評社 高島徹也 :http://hihyosya.co.jp/

 子供の頃、本や新聞を踏んづけたり跨いだりしたとき、親によく叱られた。以来、書物が床に置いてあるときには注意して歩く癖がついてしまった。
どうしても跨がざるをえないときには、戒めに頭を軽くたたいてから跨ぐ。他人が足で本をどかしたりすると、つい目がいってしまう。
 親にしても、爪を切るときや戸外で敷くものがないときには新聞を広げていたのだから、書物そのものをないがしろにしてはならないと教えたかったわけではなかろう。何かが書かれているもの、知識を与えてくれるものには敬意を払いなさいよ、程度の意味で叱っていたのだと思う。
 しかし、私の体に染みついてしまったのは、そのような書物に関する約束事、「本=そこに書かれていること、そこに詰まっている知識」という制度に基づいた書物の尊重と同時に、「「本」と「足」を接近させてはならない」という習慣だった。あえて本を踏みつけにする人などいないだろうけれど、それが私と本の距離を象徴していたように思う。

 現在、出版に関わって生活するようになって、もうすぐ二年になる。とはいえどの業務もまだ中途半端で、会社にとっては全く戦力になっていない。
 零細版元はどこも似たり寄ったりだが、小社も事務所の半分が自社の商品の倉庫となっていて、棚から在庫が溢れ出し、結束(本の束)が何本かの塔を形成し、場合によっては「足の踏み場もなくなる」。そこが私の主な仕事場だ。
 毎週の返品日には、改装が必要な返本が玄関を埋め尽くす。絞り込んだ初版部数、目一杯の(といっても微々たる)新刊搬入が基本なので、いずれ返本の山となるとはいえ、出たばかりの新刊の在庫に余裕はなく、社外倉庫での改装の時間を短縮すべく(もちろん改装代を少しでも浮かせるべく)、上製本の新刊は社長も加わり社内(といっても3人)で改装する。圧倒的なスピードでカバーとオビをはぎ取る社長の瞳には、「なぜ帰ってきたのだ!なぜ!?」とサディスティックな炎がゆらめいているようにも見えるが、一方でそのリズミカルな作業を楽しんでいるようにも見える。またたく間に(ほとんど社長の手によって)改装が完了してしまう。その本をいっぱいになった書架に運び、ねじ込んでいるときにふと気づく。

「いま、そこの結束を跨がなかったか?」

   ・  ・  ・

 当日誌の第34回、第三書館の北川さんは書いている。

「・・・本というメディアに対する抜きがたい固定観念というか読書文化への“信仰心”のようなもの。・・・「誰かがまだ本を読んでるに違いない」という信仰があまりにひろく浸透していること驚くばかりだが、一方でそれが本というメディアの威信をかろうじて維持しているのではあるまいか。ほんとうに「本なんて視聴率にしたら0.005%もあれば御の字の世界だ」ということがバレてしまい常識化した日こそが恐ろしい。」

 あるいは第141回、大村書店の萩原さん。読書を無前提に肯定する読書調査を受けて、

「・・・本来、本との関わり方はもっと自由であるべきである。必ずしも、最初から読む必要もない。本を読まなくても良い。感動しなくてもよい。本が嫌いでもよい。最も大切なのは、本との誠実な関係を築くことにある。読書とは何か。その行為自体を問うことなしに、統計的に行われている読書調査は全く意味をなさない。」

 本は、著者の思考と紙とインクだけではなく、様々な「信仰」や社会的な期待によって成立している。それは本というメディアが長い歴史を経て獲得してきた信頼、既得権であると同時に足枷でもある。出版に携わるプロたちは、その信仰や期待の周囲で、一方でそれが相対化されないことを祈りつつ活用し、もう一方でそれとは別のありかた、人と本との関わりが持つ(かもしれない)多様性を開放できないかと模索する。本に対して、さらに本の動きに対して、自在に密着したり、俯瞰したりしてその位置を測定し、実際に動かす。
 そんな超人達の仲間に入れるのだろうか? という拭いがたい不安を抱えながら雑用漬けの日々を送っていた。
 でも、本の動きに翻弄されているうちに、本との関わり方がいつの間にか変わってきたらしい。「跨げるようになって」気づいたのは、本という仕組みの奥深さだったりする。本への信仰に囚われた、本とのホントの関係に固執する神経質な一読者の感覚から、少しだけ距離を取ることが出来るようになった(のか?)。二年近くかけて学んだことがそれだけなのかとも思うが、根本的にはその程度だと思う。しかし、この感覚にはいつでも還ってこられるだろう。出版それ自体を、どんな雑用も含めて愉しみながら暮らしていける準備が、ようやく整ったという所。しかしこの仕事にこれからもへばりついていけるかどうかは、その本との距離によってできた空間をどう活用できるかにかかっている。

 跨いでしまった本とその著者の方、そんな本を売るのかよ! とご立腹の読者の皆様、本当に申し訳ありません(踏みつけたわけではなく、跨いだだけですんで)。この一歩を大きな一歩として、精進して参りますのでどうかご容赦を・・・。


▲ページの上端へ

『心のノート』へ心からのシャウト

2004-3-31 水曜日

雲母書房 松村康貴 :http://www.kirara-s.co.jp/

・ヤフーで【心のノート】と検索してみたら、NECのパソコン直販店のサイトが1位、2位に富士通のノートパソコンへのサイトでした。(まずは版元ドットコム的感想)

 『汝、殺す事なかれ』『汝、姦淫するなかれ』『盗みを働いてはならない』・・・・・・。
世界の多くの宗教がこうした戒律を定めている。しかしながら、一部の宗教を除いて多くの宗教は行為規範に限定して戒律を定めている。名前は忘れましたが、ある禅宗の高僧が修業時代、座禅をするにはするのだけれど、どうしても悶々としムラムラが消えず次から次へと邪なことが浮かんできてしまう。多分、根がとても助平なのだと思いますが悩んだ末、師匠に相談したところ『喝!』ではなくて『ええんじゃない』みたいなことを言われて(ええの?)と開き直り、妄想が自然と浮かんでくるのに任せ、となると自分は安心して水底へ沈んでいき、とうとう悟りの境地に至ることができたという逸話がありました。

 文部科学省が作った『心のノート』、長引く不況とはいえ何も国に支給してもらわなくても1冊くらい、親ごさんに買ってもらっても差し障りはなく、かつ無印のノートは100円(問題はどこまで消費税が上がるかだが)である。しかも『心のノート』には、ほんわかとしたファンタジー的印刷物で一杯で余白が極端に少なく、「書き込みできへんやんか!」と子どもでなくても、言いたくなります。

 さて、『心のノート』について、小社の季刊誌『子どもプラス Vol.16』(04年2月刊)にて特集を組みました。その中の「不気味さの正体」(芹沢俊介×斎藤次郎)で、斎藤次郎さんは代名詞の問題をあげています。このノート(特に1・2年用)は「あなた」という呼びかけで始まり、その後この人称代名詞が使用され続けます。また「僕」や「私」といった一人称は事例としてのエピソードや文章に限られます。そして正式に「わたし」という言葉が使われるのは、最章のタイトル「あなたがそだつまち」に添えられた「わたしをそだてるまち」という言い替えにおいてです。この「あなた=わたし」という受動的な呼び掛けから、能動的な一人称へとすり替えていくところに『心のノート』の不気味さや危うさがあるのだと斎藤さんは指摘します。
 まさにその通りで、道徳教育という眉唾ものをオブラートしている事柄、そこが「『心のノート』ノー」と言わせたくなる要因のひとつなのです。
 さらに言うならば、そのすり替えを保証するものとして文体の当然口調があげられます。例えば「中学生だもの自分で考え判断し実行するのはあたりまえ」(中学校用、23頁)や「正直に生きることは、自分の心を明るくします」(小学3・4年用、28頁)などです。
 また、戦時下の独裁、オウムのテロリズム、そして『心のノート』による子ども、ひいては大人に至る全体主義へと向かわせる文体的な力学を比較すると興味深いことが分かります。
・戦時下における命令口調。これは人を強制的(身体的・心理的)に統率するけれども反動的に反体制を生み出していきます。
・オウムのテロリズムによる断定口調。先行きの分からない不安の時代にあってこの口調はハマルひとは痙攣的にハマッてしまいます(心理的・補完的に身体的)。ダイレクトに無意識へ届けることのできる口調ですが、ハマらない人には意識下でシャットアウトされます。
・『心のノート』による当然口調。意識下での検閲が難しくすんなり無意識に届き、述べられた言葉は無意識と意識と行為を垂直に貫いていきます。

 当然口調の危険性は、無意識と意識を連結させてしまう点です。心ここにあらず、心機能の停止、自らが判断するという主体性が崩壊し、まさに死人の群れを作りだしてしまう可能性があることなのです。
 また、当然口調が作りだす限界線はその限界線に対して肯定的な生活をしているものになんら支障をきたすこともなく、かえって「自分は正しいのだ」という優越感(死人の優越)をもたらしますが、限界線に対して否定的な生活をしているもの、せざるを得ないものにとっては、屈辱感や自虐意識をもたらし、さらにドロップアウトを助長します。「家族みんなが幸せ」といっても、不幸せな家族もあるわけでその家族はその地点から生きていかねばならないのです。言うなれば、そこが主体的なゼロ地点の限界線でなくてはならないのに、全体的な限界線においてはマイナス地点であるという二重の基準に苦しまねばならなくなるわけです。
 排除するものは排除し、従えるものは統制していく(心理的統制のみで)。それを可能にしていく文体、それを凝縮したのが『心のノート』なのです。このノートの作成に著名な心理学者が関わっているのは、心を扱うからではなく心をどう統制していくかの点だったのかも知れません。
 心に限界線を引き、一つの価値基準以外をやわらかく排除していくこと。宗教でさえひとり一人の「心」を尊重することを守ってきたにも関わらず、『心のノート』はその領域を侵犯しようとしている。ノートによって認められた心以外は「心にノー」を巧みに突きつけていく。私はそのようなことを認めることはできません。

最後に『子どもプラス Vol.16』(特集の終わりに/斎藤次郎)を掲載して日誌を終わります。

「『心のノート』はいらないけど、でも心はとても大事なものです。美しい、おおらかな心だけが大切なのではありません。いじわるしたり、ウソついたり、いじけたり、泣きたくなったりする、そういう心も、丸ごと大事なのだと思います。
 心を大事にするというのは、よくはわかりませんが、少しゆったりして自分やほかの人のことを考えることだという気がします。いじわるやウソつきにも、みんな理由がありますし、そういうピンチをきりぬける方法がきっとあるはずです。
 元気がいいときはいいのです。意欲がなえ、バランスを崩し、調子が悪くなったときこそ、子どもの心が「大事にして!」と叫んでいるのに違いありません。そういう子どもたちに精いっぱい寄り添っていこう。
 この特集を組んで、私たちはまた改めて、ふつうのくらしの大切さを思うのです。」


▲ページの上端へ

奥付定価表示の重さ

2004-3-24 水曜日

第三書館 北川明 :http://www.hanmoto.com/bd/d3skan/1/

 4月1日を前にして、本の総額表示問題がいよいよ具体化してきている。小社も新刊の表示をどのようにすべきか、参考のために書店の棚を覗いてみた。
 いくつかの、わたしにとっては小さくない発見があって、少なからず驚いた。
 まず、棚にある本のほとんど全部が奥付に定価表示をしていない。小社は開業以来25年間ずっと奥付定価表示を続けてきている。最近は少数派になっているのを知っていたが、これほどまでとは思わなかった。書店の棚で一番多いのは、「定価はカバーに表示してあります」と記載されているケースだが、まったく何も定価について奥付でのコメントのない本がけっこう多いのにも、びっくりした。これらはカバーを取ってしまえば、いくらで売ろうと勝手、ということでもある。ほんとにそれでいいのだろうか。
 再販制度をめぐる議論はすでに数十年続いてきているが、その場合の大前提として、本の定価は版元が決めるものという合意があったし、いまもそれは厳として存在している。その版元の決めた定価を流通の川下末端まで守るべしというのが再販制度だ。
 ところが、その版元自身がカバーを取り替えればいつでも値上げがOKという姿勢を維持しつつ、同時に1円たりとも定価を割ることは罷り成らぬと再販制度厳守を川下に向かって叫ぶ。これは、果していかがなものだろうか。法的には問題ないのは分かるが「読者のため」を常々標榜する出版界としてはいささか身勝手に過ぎると批判されてもしかたがないのではないか。
 そこのところを、故小汀良久・新泉社社長は、再販制度維持を主張する限り、版元も奥付定価表示を守るのが出版者のモラルであり矜持であるとして、終生それを続けた。小社もその顰(ひそみ)に倣ったわけだ。
 書店の棚の前に戻る。新泉社の新刊からは、きれいに奥付定価表示が消えている。(後で社員の一人に訊いたところでは、社内の合意ではなく、「ただなんとなく」消滅したとのこと) 他の再販制度厳守を叫ぶリーダー版元の大多数が「定価はカバーに表示してあります」組である。これには正直、心底驚いた。このまま進んで「定価はオビに表示してあります」になり、そのつぎは「定価はスリップに表示してあります」になって、ついには印刷された定価表示は一切なくて見返しの隅にエンピツで定価を書き込んでいるうちに再販制廃止に追い込まれたスウェーデンの轍を踏むことになりはしないか。
 まず隗より始めよ、などと説教するつもりはない。だが、ポイントサービスなど定価の1%前後のやりとりにクレームをつける根拠として、本の定価をのっぴきならないものとして主張していくためには、版元サイドも安易な値上げはしないというシグナルを出し、読者に対して旗幟鮮明にしておくことでシンパシーを得ようとする姿勢を打ち出すことが肝要ではないか。
 当初の懸案であった総額表示については、一応の小社なりの結論を得た。奥付はこれまで通り「定価2,000円+税」で行く。カバー、オビも同じ。これで税率がいくらに変わっても対応できる。スリップも同様だが、ボウズの丸いところだけに「2,100円」と入れた。しばらくこれでやってみる。
何だ、某大手版元と同じ方式ではないか、と言う声が聞こえてくるが、奥付表示と連動している点が決定的に違う。 
 その意味と重さは、版元なら判ってもらえないと困る。


▲ページの上端へ

地方で出版10年

2004-3-17 水曜日

吉備人出版 金澤健吾 :http://www.kibito.co.jp/

 東京在住の方が岡山に立ち寄って話しをしている中で、「岡山はなんか違いますね。ゆったりするような、昔に返ったような感じがする。東京とは随分違うし、京都とも違う」と言っていたという話をまた聞いた。「田舎だね」という意味もあるのだろうが、最近は好意的に受け入れている。この10年間、地方で本をつくってきて思うのは、東京の人が感じるこの地域特性こそ掘り下げていくテーマであり、こんな面白いテーマはない、ということである。

 自然の環境や人、地理的条件、歴史的背景などが醸し出す、地域特有の雰囲気というのは、どこの地方にもある。日本全体を面白くするには、各地でこうした地域の特性を際立たせ、地域にいる人たちが主張していくことではないだろうか。その中で地域の出版社は、大きな役割を担えるのではないかと感じている。地域出版の編集活動は、特殊なテーマを扱うのなら別だが、東京で本をつくるよりも面白いことかもしれない。

 地方で本をつくるのは、例えば東京に比べて読者人口が少ない、著名な著者がいない、印刷や製本、デザインや流通など、ハンディキャップは意外と多い。しかし10年もやってくると、これらもやり方によって少しずつ克服できてくる。重要なのはテーマとその切り方である。幸い岡山には古代に吉備の国として栄えた歴史がある。そして桃やマスカットに代表される農産物が採れる温暖な気候や魚介類が採れる瀬戸内海のある自然があり、そこで育った人がいる。これで扱うべきテーマは十分である。

 地方出版では、古くから「地域を耕す」という言い方をよくしてきた。本にすべき内容を土を返すように掘り出し、文化の育つ土づくりをしていくということであろうか。それは地域の人と関わり合いながら、企画して編集し、誰でも気軽に読める本というパッケージにして後世に残すことである。読者が著者になり、著者が読者にもなる。地域の人とその地域の文化をネタに本をつくり、消費もその地域でする。地域でつくり地域の人が利用するわけだから、文化の地産地消ともいえる。もちろん関心がある人なら、それは全国どこからでも手軽に取り寄せることができる。地域出版は田舎でやる仕事としても面白い。

 ただ、地域出版でその経営をみてきて思うのは、本をつくるだけでは成り立たないということである。行政や企業の仕事も請け、パンフレットや記念誌、ホームページの編集も手がけ、10年目を迎えることができた。地域文化全般を扱い、本は表現手段の一つと考えることである。これからも地域の特性を生かし、さらに地域でしかできないことを追究していきたい。そして本にこだわりながら本だけにとらわれず、地域の人と文化を編集する会社を目指したい。  
 最近は次の10年を見据えて、出版企画の業務を兼ね、著者探しと読者の開拓という観点から、文化教室を手がけていこうと計画している。地域出版の模索は続く。


▲ページの上端へ