「飢餓」に強い食べ物

2004-12-22 水曜日

日本林業調査会 辻 潔 :http://www.j-fic.com/

 こんな飽食の時代がいつまでも続くわけがない。
 と思っていても、スーパーに行けばグローバルな食材が溢れんばかり。
 現実はどんどん進行する。
 でも、最悪の事態には備えておかないとね。
 外国から食い物が入ってこなくなったら、自前でやるしかないんだから。
 そのとき、何で食いつなげばいいのか。
 ということを考えさせられる小さな会合が、11月末に東京の山奥でありました。

 食材として取り上げられたのは、トチ(栃)の実。
 昔はトチ餅などとして食されたのですね。
 でも今、食卓にのぼることはまずない。
 だって手間がかかる。生食はできないから、
 1.水につけて虫を抜く
 2.カビが出ないよう乾燥する
 3.実を鍋で煮て渋皮を除く
 4.皮をとった実をケヤキやブナの灰に寝かせてアク抜きする
 という具合。
 しかも、どのくらい「寝かせ」るのか。
 「アク抜き」も熟練を要するのでパターン化できない。
 つまり、肝心なところは経験と勘頼り。
 レシピにできないんだからなあ。

 トチの実には、サポニンという毒性物質が含まれている。
 これは、水につけておくと抜けるとのこと。
 その上で、渋味をとれば……うーむ、現代人の舌にはやっぱりつらいか。ザラザラするし。
 でも、それがいいのだ。
 「食い物がないときに美味いもん出したらすぐなくなるだろ。栗なんかダメだ」
 なるほど。「飢餓」状況下で、美食指向はありえません。 
 「スローフードとか言ってても、まだまだアマいですね」と調子を合わせてたら、
 「昔、山の飯場で『ヘビ飯(めし)』を食った。あれは美味かった」
 というエピソードが出てきてドヒャー。
 いやあ、タフじゃなきゃ生き残れませんな。

栃の木の巨木
都下、奥多摩町にある栃の木の巨木


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韓国映画を見て

2004-12-15 水曜日

日本経済評論社 木野村照美 :http://www.nikkeihyo.co.jp/

韓国映画「ロスト・メモリーズ」を見た。前宣伝の時にSFアクションものだと言うのであまり興味を持たなかったが、娘の借りてきたビデオはなかなか面白かった。
 〈もし伊藤博文が安重根に暗殺されていなかったら〉世界はどうなっていたか? これがテーマ。
 原爆はベルリンに落とされ日本は、アメリカと手を組み戦勝国となった。朝鮮半島は、日本の領土となり人々は朝鮮系日本人として日本の支配のもとに組み込まれている。もちろん朝鮮独立を目指す人々は、地下活動を行い塗り替えられた歴史を元に戻すために戦う。
 SFとはいえ朝鮮系日本人として表現されている人々は、そのまま実際の在日韓国・朝鮮人の状況と通ずるところがあるように思われる。
 韓流ブームの中、年末・年始の海外旅行は韓国がハワイを抜いて1位になっているそうだ。韓国へ行く人たちがどれほど日韓の歴史を認識し、日本社会に住む韓国・朝鮮人の生活状況を把握しているのだろうか? 「未来志向」を目指すことを否定しはしないが、未来を志向するときに過去の歴史認識をしっかりしないと誤った未来になりかねないことを肝に銘じなければならないと思う。
 
 同時代史学会の第3回研究大会が開催され、今回のテーマは「朝鮮半島と日本の同時代史」−東アジア地域共生を展望して−だった。興味ある内容で私も書籍販売員として参加させてもらった。研究会そのものは直接聞けなかったがレジュメを見ると「植民地支配責任」「朝鮮戦争と在日朝鮮人−義勇兵派遣の問題を中心に」等、私としてとても関心のある課題だった。
 小社ではこの「同時代史学会」の年次報告を書籍として出版している。つい先日、昨年の第2回研究大会の報告が刊行された。ぜひご一読を。

同時代史学会 編
占領とデモクラシーの同時代史
四六判上製 244頁 定価(本体2700円+税)
【執 筆 者】福永文夫/大串潤児/荒木田岳/荒敬/深川美奈/雨宮昭一/古矢旬/加藤 典洋/豊下楢彦/安田浩/安田常雄/井川充雄/戸邉秀明


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母は自由人

2004-12-8 水曜日

梨の木舎 羽田ゆみ子 :http://www.jca.apc.org/nashinoki-sha/

一陣の風が吹き込む、この風はどうやらしばらく滞在するらしい。–

ユリ子さん・母、とわたしの間をくるくるっとまわり、遊んでいく風。平穏のひととき。
 母は、なつかしい人をみるようにわたしをみている。
「あのね、お母さんはわたしのお母さん。わたしはお母さんの娘。よろしくおねがいします 」
「まあ、そうかい。おどろいた。あんたはわたしの娘なの」
 特養(特別養護老人ホーム)に母に会いに行くとき、たいていの場合会話はそこからはじまる。

母とこれほど向き合う時間、いままであっただろうか。
 いままで自分中心に生きてきた娘に、母はもうひとつの時間のプレゼントを用意していた。
 ユリ子さん、83歳。介護度5。24時間介護が必要、車いす生活。
 わたしは、週に一度長野新幹線をつかって上田で下車、母のところにゆく。ときに数時間、休みが2日とれるときは自宅にもどって、ときには1晩、2晩をいっしょにすごす。
 

朝は母にとって、苦痛のとき。自分が誰なのか、どこにいるのか、どんな過去があったのか。家族は? こどもは何人? 頭の中に濃い霧のような過去が広がっているだけなのだろうか、なんにもわからない。
「こまちゃった。なにもわからなくて。ばかになっちゃって。さっぱりわからない」
「もう死にたい」
気分が悪いときはそういう。
少し前向きになると、
「たすけてね。さっぱりわからない」
 「もちろんよ。たすけるからからね」
 そして説明する。「わたしはお母さんの娘なの。そしてここはお母さんの家。ずーっとここに住んでいたの。」
「まあほんとかい。そりゃーたまげた。」
 母とのあいだで何回もくりかえされる会話。
 でもほんとうは、わたしが母にたすけられている。
 母と人と人として向き合える時間。母が用意してくれた時間。
 母、トイレ。無事にすこやかなおつうじ。いままでのうちでいちばん快調。
おいしく食べることができて、すこやかなおつうじ。これがわたしと母のなによりの課題。
「やった!」 「ちょっとまっててね、いまお湯くんでくるから」
「おしりきれいにするよ。あったたかくて、気持ちがいいんだよ」
「ちょっと失礼します」
 便座にこしかけている母のおしりをすこし熱めのタオルで湿布する。
「気持ちいい。ありがとう。あんたはよくだね。人のいやがることをやってくれて」
 ——いやじゃないけど。
ひょっとして、母はわかっている? 母はときどきいまある世界にもどってくる。

 夜明け、寝息をたてて眠っている。昨夕5時頃トイレにいってそれっきり。トイレは?、ときいても「いま、いってきた」とこたえる。咳もでていないし。一騒動するよりはこのまま平穏に朝まですごそう。お布団をなおすと「いろいろありがとう」と私の手を握る。暖かい。大丈夫。
 5時。「おなかがすいた」といって母がお布団を自分ではいで、おきあがろうとしている。おしっこはすこしだけシーツに重ねたパットにもれているだけ。紙パンツが全部吸収してくれたみたい。背中がぬれている。総取り替えして、トイレをしてもらって、あたためたパンと牛乳を母にはこぶ。
「はい、牛乳」
「牛乳あるの。うれしい!」
「これ食べていいの」
 レーズンパンをつまんで母がいう。
 茶の間と台所を行ったりきたりしているあいだに、お茶を飲みおえた母は、ベッドに横になっている。自分で起きあがり自分で横になる。そんなことができるようになるなんて去年のいまごろ考えもしなかった。これはひとえにアザレアン真田の職員の方々の献身的な対応の結果、いつかなにかのかたちで彼ら、彼女らにむくいたい。
 母の生活に少し負荷をかける。実はいま介護ベッドをつかっていない。元気だったとき母が使っていた木のベッドにもどった。在宅で借りていたベッドは返さなければならなかったからだが、結果的にそれはよかった。便利だがあの金属製のベッドは冷たい。いまは手すりさえない、ただシンプルなベッドで、自力でおきあがり、ちゃんとベッドのはしにこしかけることができるのだ。

「もうすこし寝ましょう」まだ朝にはまがある。
母はいま自由人。会話は自由にとびまわる。心は過去と現在を軽々と行き来する。
 ときには頭突きもくらわす。
母と話をするとき、わたしは母のなにかと向かいあう。母の核心のようなものと。母にわたしの核心を読み取られているかな。

 笑みうかべためらいがちに母のいうあんたはわたしのおかあさんなの?


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ブックオフに営業へゆく日??

2004-12-1 水曜日

トランスビュー 工藤秀之 :http://www.transview.co.jp/

山手線のある学生街、駅から徒歩7分、黄色い看板が目印の新古書店を訪れた。
思わずこちらがうつむいてしまう、黄色い声で「いらっっしゃいませー」の大合唱を覚悟して、店内へ足を踏みいれると・・・。んぅ?店内を見渡すと、大きなカウンターに学生アルバイトとおぼしき店員が3人。作業の手を止めて軽く会釈しながら、「いらっしゃいませ」。すぐにそれぞれの仕事に戻る。んんぅっ、なんか違うぞ。

近くに弊社の取引先の大型書店もあるが、今日、この駅で降りたのは、このブックオフが目的だ。
「あのブックオフは、すごい!」と、業界通の知人に教えられてやって来たのだ。例のマニュアルで出迎えられなかった私は、少し拍子抜けしつつ店内を見渡した。漂う雰囲気は新古書店というより古書店。神田神保町とか早稲田の専門性の高いそれではなく、古書店というより、カジュアルな古本屋さんと言った方がしっくりするだろうか。200坪ほどの店内を見渡すと、入り口近くにCD、飾り気のない床に置かれたボックスは映画のパンフレットだろうか。奥の方はコミック売り場のようだ。

お目当ての人文書コーナーを横目で見ながら、まずは店内を一周。平日の午前中、当方スーツにネクタイ姿につきアダルトコーナーは遠慮したが、なかなか整理が行き届いている。100円均一の文庫棚に、表紙が見えるように陳列してアクセントを付けてあったり、おすすめ本コーナーもある。反対に、ない!ない。新古書店に付物のゴミが。これには驚いた。じっくり隅々まで確認したわけではないが、少なくとも人文書の棚には、一目でわかるそれは見当たらなかった。

出版関係者には、新古書店を毛嫌いする人も多い。もちろん万引きの問題、著作権料の問題はある。
でも本当は、商品価値の無いものに値札つけて売っている、その光景が許せない。という感情的理由もあるように思う。誤解の無いように申し添えるが、本の良し悪しは、読んだその人が判断すればよい事だ。でも何年も前の学校案内や、某大先生作、宗教的自伝小説の不揃い巻などは、売る側だって商品としては、ゴミ同然だと判断していないはずがない。ゴミにカネを払ってくれるお客がいれば、儲けもんといったところだろう。

しかし、ここのブックオフ、どうも本を選んで置いている。いわゆる「棚」を作っているのだ。吉本隆明が棚一段あったり、中沢新一の隣に『人間と神話』(せりか書房)なんて本が差してある。本に関する本のコーナーもあった。「本の雑誌」や「レコレコ」のバックナンバーも売っている。よく判らないが、美術書のコーナーなんかも時間をつぶせそうだ。

しかも見てしまった。一人の客に「○○の本はどこにありますか」と尋ねられた店員が、まっすぐに単行本の棚へ進み、次に文庫の棚の前へ行き、「こことここに無ければ、あいにく在庫がございません」と答え、にこやかに元の持ち場へ戻る姿を!

売る商品を選ぶといっても、新古書店ゆえ仕入の制約もあるだろう。しかし、この本屋さんは、明らかに一冊の本に価格の安さだけではない付加価値をつけて顧客へ提供している。

新刊書店への営業の途中だったので、ブックオフの黄色いビニル袋をさげているのは憚られて、小さな本を2冊だけ手にとってレジへ向かった。店員さんへ尋ねると、4、5年前から営業していて、都内に数店の支店があるという。「またお越しください」という言葉とともに本を受け取り、数年ぶりに足を踏み入れた新古書店を後にした。もちろん、「ありがとうーございましたー」の合言葉はない。

ところで、周囲の新刊書店4店には、2000年以前の「吉本」本は一冊しかなかった。「中沢」本も最近の刊行のみ、さっき見かけた氏の出世作「チベットのモーツァルト」はどこにも置いていない。(もっとも講談社学術文庫版の在庫は確かめなかったけれど・・・)

新刊と古書、リメンダー(日本でいう非再販本)を同じ棚に並べて売る、アメリカの伝説的な書店、パウエルズ・ブックスのような売場をつくる書店は、ひょっとしたら新古書店から出てくるのかも知れないと感じてしまった。ブックオフが、私の営業コースに組み込まれる日が、遠くない将来、やって来るのかも知れない。

*先の業界通の知人によると、このブックオフはフランチャイズ店で、かなり特殊な店だそうです。


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