書籍が総額表示にできない3つの理由

2004-4-28 水曜日

太郎次郎社エディタス 須田正晴 :http://www.tarojiro.co.jp/

 先日、書店で見た光景。
 レジで初老の男性客が、多量の本を買って精算を待っている。手持ちぶさたに、書店員に話しかける。
「本は総額表示じゃないんだね。」
 書店員は、「ええ、まあ」と口をにごしている。
 気持ちはわかる。下手な受け答えをして、お得意さんの機嫌を損ねたくはないし、「なんで、版元の表示の都合に私が言いわけしなくちゃならないんだ」という気分もあるだろう。でも、ちゃんと答えてほしいとおもう。本には、総額表示にできない理由があるのだから。

 もとより、「総額表示義務化」はこれからの消費税増税に向けて痛税感を緩和するためにおこなわれた。「価格表示に混乱がある」「レジでわかりにくい」などという、絶無とまではいかないまでも、普遍性も切実性もない理由がつけられているが、そこに正当性はない。
 私が小出版社の営業として見聞した範囲から言うと、この正当性のない理由づけに諾々と従えば、書籍流通、とりわけ既刊流通は近い将来に大きなダメージを受けることになるだろう。書籍の流通は以下の3点の理由によって、まったくもって総額表示には向かないからだ。

●理由1 点数が多い。

 現在、書籍の入手可能点数は70万点ほどと言われている。なかなかの点数だ。
 店舗あたりの点数も多い。たとえばコンビニエンスストアの一般的なアイテム数は40坪弱で3,000品目くらいといわれるが、3,000点しか置いてない書店というのはほとんどない。書店によって開きはあるものの、だいたい坪あたり400点くらい置いている。駅前10坪強の書店でも4,000点はある。コンビニの6倍の密度だ。
 中規模(1,000坪ていど)なスーパーストアで25,000アイテムだそうだ。書店で1,000坪といったら、それは大きい。日本最初のメガブックストアといわれた八重洲ブックセンター本店が現在1,200坪、在庫点数は40万点以上となる。
 一方で市場規模はと言えば、書籍のみなら1兆円、雑誌とあわせても2.5兆円に過ぎない。コンビニ業界は主要13チェーンで7兆円、スーパー業界なら 14兆円だ。16倍の密度に14分の1の売り上げ。書籍業界の負担はスーパー業界の200倍以上になる勘定だ。

 とはいえ、点数の多い業界はほかにもあるかもしれない。手元にある50ccオートバイの部品リストを見てみると部品点数は1台で約1000点、それぞれに希望小売価格が付いている。機械部品は点数が多そうだ。しかし、書籍の流通にはほかにも特徴がある。

●理由2 メーカーが価格を決めている。

 コンビニやスーパーでは、商品に値札が付いていることが少なくなった。かなりの店で、ハンディターミナルとPOSレジのシステムが導入されている。バーコードをキーにして、店で決定した小売価格をデータベースに登録し、価格を棚の表示に反映させ、レジでの表示にも連動させている。
 生鮮食品が閉店間際に半額になったり、ある棚のものがタイムセールで20%引きになったりするのを見ればわかるとおり、小売価格は小売店が決定する。逆にメーカーが小売価格を統制することは独占禁止法で規制されている。
 出版業界は、この独占禁止法の規定から適用除外を受けていて、メーカーが小売りの末端価格を指定することができる。再販売価格維持制度、略して「再販制度」と呼ばれるものだ。出版社はほとんどすべてがこの再販制度を利用し、個々の書籍のカバーに「定価」を印刷することでアイテム毎の販売価格を指定している。
 日本の出版界がもつ、「再販制」と小売店が仕入れた書籍の返品をおこなうことができる「委託制」との組み合わせは、小売店のリスクとコストを下げることで、多品目の書籍を店頭に流通させることを目的につくられたものだ。種々の弊害は指摘されてきたが、おおむねその目的に成功してきた。
 このシステムでやってきたため、書店は小売価格を自分で決める裁量をもたないし、もてるだけのマージンも受け取っていない。そのため、書店は価格表記を変える機能をもっていない。ハンディターミナルとPOSレジのシステムを持った書店も増えてきたので、原理的には書店が価格表記を変えることもできる。その場合、前述の取り扱い点数が邪魔をする。書店の棚は多くが1点1冊なので、棚に価格表示をすることはできない。したがって、かつてのスーパーでよく見られたように、ラベラーを使って価格ラベルを1枚1枚手貼りするということになる。しかも1枚ごとに価格設定を変えて。そのコストは膨大なものになる。書店にはとても負いかねる。
 したがって、「再販制」と「委託制」のなかで、価格表記が変更されるときには、いったんメーカーである出版社に品物が差し戻される。ここに流通コストが発生する。これは、消費税の導入時にじっさいに起こったことだ。

●理由3 長期にわたって流通する。

 現在、書店の店頭には多くの書籍が本体価格表示のまま並んでいる。「当面、本体表記のものも混在します」という店頭の貼紙を見た人も多いだろう。しかし、いまの混在が過渡期のものとおもったら大間違いだ。2002年の書籍新刊点数は7万6千点。現在の流通点数が前述のとおり70万点。つまり、いったん世に出た書籍は平均10年に渡って流通する。その間、幾度かに渡って出版社と店頭を往復するわけだが、その出荷のされかたは、新刊や重版で一度に配本されるだけではない。1冊1冊を読者に届ける客注や店頭の棚に並ぶ常備品の入れ替え、書店のフェアへの出荷などは、在庫品から出荷することになる。在庫品を出荷するのに価格表示の確認の手をかけられない出版社もあるだろう。
「当面の混在」はどのくらい続くだろうか。仮に、店頭にある書籍の98%くらいの価格表示が改まるのを「混在の解消」と考えるのなら、店頭在庫が代謝してその状態になるのに、すべての出版社が協力しても2年以上はかかるだろう。
 政府税制調査会は、消費税を2025年度までに20%ていどまで引き上げるとしている。小泉内閣が来年には倒せたとしても、20年で15%だ。2%きざみとして7〜8回、ほぼ3年に1度の増税がある勘定になる(増税がなかった場合は国債の濫発からハイパー・インフレが起こるので、定価うんぬんの論議はいっさい不要になる)。
 3年ごとに、この4月のような混乱が起こる。しかも、「定価1800円(税込)」だけしか書いていないような表記では、実際の支払い金額がいくらなのか、たしかめようもない。いつのまにか「定価表示カード」という名前をつけられた書籍スリップの上部への総額表示は上記のような税込み総額のみの表記が多い。(5)などと書いて税率5%を示唆しているものもあるが、そんな符牒を読者に判れといっても無理だろう。
 財務省の言うような「わかりやすい表記」は、「スリップへの表記を随時変更」という方式では向こう20年以上は無理ということになる。その間に、再販制維持とのバーターをちらつかせた「カバーに総額表記せよ」という公権力からの圧力があらわれるだろう。書店が出店しているショッピングモールやデパートも「他業種と足並みを揃えよ」と言ってくるかもしれない。書籍への総額表示の必要性を認めてしまったら、そこに反論する根拠をどこに求めればいいのか。

 以上の3点の理由の組み合わせによって、書籍を総額表示にするのはとても難しい状況にある。逆に言えば、総額表示を強行しようとすれば、3点のうちいくつかを犠牲にしなければならない。さしあたり「理由3 長期にわたって流通する」が犠牲になるだろう。
 ただでさえ、既刊の流通はコストとの闘いである。新刊がもつ「手をかければ火がつくように売れだすかもしれない」という希望が既刊には薄い。これまでの売上実績から予測売上を出し、倉庫費用などの維持経費との兼ね合いで在庫量を決定することになる。死蔵させておいても売上が伸びることなどまずないが、やみくもに店頭に出荷しても、返品率を引き上げる結末になる。流通各所にかけてしまった負担と失った信頼も気が重いが、目の前で発生する入出庫経費や改装費もバカにならない。
 そんななか、「意義があるとおもって世に問うた本だから」「まだ読みたいと言ってくれる読者がいるから」、出版社は在庫を維持しようとする。「この本がなければ、社のラインナップが崩れてしまう」という本もある。そこに総額表示の負担だ。1点の書籍が10年間で経験する増税は3回。カバーの変更なんてムリ、奥付表記なんてもってのほか、スリップの表記ですら「やせ馬の背にわら一本」、品切れへのきっかけとなってしまうかもしれない。
 出版社が本を品切れにするのに、書店が本を返品するのに、「価格表記が古いから」という本質からまったく遠い理由を発生させてはいけない。「古い本=重版ができない本=売れない本」という等式はいつでもどの書店でも正しいとは限らない。読者・場所・時によって、求められている本はちがう。
 新刊・重版ごとにスリップを入れ替えていけば、「新価格表記のあるものは売れスジ本」となる。しかし、そのような本だけが残って日本中の書店が「ランキンランキン」になってしまうような状態に、あなたは耐えられるだろうか?

 5%への増税時に導入した本体価格表示こそ、本の安定流通のために書籍業界が公取委に対して勝ち得てきた権利ではなかったのか。それをこうも簡単に打ち捨てて、ほんとうにスリップだけで妥協が済むのか。早々にカバーに総額表示を入れだしている出版社もある。いまこそ、「本は総額表示にできない理由がある」とはっきり言い、読者や周辺業種への理解を求めるべきだろう。
 スリップ表記に妥協することで「花を捨てて実を取った」気になって説明を怠れば、将来に痛い目を見ることになる。


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当事者未満

2004-4-21 水曜日

しょういん 山田浩司 :http://www.shoin.co.jp/

– 『五体不満足』が身体障害に、『こんな夜更けにバナナかよ』が介護について奥歯に挟まったモノを引っこ抜いてくれた事を思い出しました。

これは「うつかもしれないと悩んでいた」という読者の方からいただいた手紙に書かれていた、『アカルイうつうつ生活』(小社)についてのコメントだ。

たしかに、『五体〜』や『こんな〜』はセンセーショナルで、おおかたの人たちが声に出しにくかった言葉を「引っこ抜い」た力があった。障害や介護の現場で苦しんでいる当事者の方にとっては、どうだったのだろう。

喘息やクローン病、うつ病。さまざまな病気の患者会を見学させていただく機会があった。気のおける患者仲間でしか吐露できない叫びやぼやき、切羽詰まった質問などを耳にして、聞く言葉ひとつひとつが不勉強ゆえショックで、当事者ではない自分はどこか気後れを感じた。ときどき、まるで患者自身が穢れているかのような自嘲的な発言をする人がいて、誰かに意見されることを拒んでいたようだった。

自分のような当事者でない人が「拒まれるのでは」と思い込み、勝手に引っ込めていたあやふやな疑問。障害や介護の当事者自身が本音で語り、そんな疑問を「引っこ抜い」てくれる場を作ったのが『五体〜』や『こんな〜』なのだろう。

– 「こころの風邪というより、こころの肺炎」ととらえつつ、ユーモアを忘れない著者のアドバイスは、うつ病の人や家族を温かく励ましてくれるだろう。(毎日新聞2004年4月8日 東京朝刊より)

すべての病気にその病気独特の悩みがあるように、こころというブラックボックスの病気とされている点にうつ病患者の悩みはある。捕らえ所のないこころについて悩む前に、うつ病は脳という臓器の機能不全であるのに、何かが壁になって語られる場所がない循環。どうもこころがうつうつすることが多く、「あれ、私はうつ病なのかな?」と不安になることがある。うつ病の当事者でもある上野氏の「ユーモアを忘れない」アドバイスが、誰にも相談できない、うつ病の当事者そして当事者未満の人が抱える悩みを、きっと「引っこ抜い」てくれるのだろう。

アカルイうつうつ生活』 上野玲著

毎日新聞 2004年4月8日 東京朝刊/書評


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紫煙と縁深い業界で、卒煙を叫ぶ

2004-4-14 水曜日

実践社 小山幸恵 :http://www.jissensha.co.jp/

エレベータの中でのこと。
「不自由だねぇ」
「僕らが不自由なんじゃない。社会の構造が不自由を創り出してるんだ」──。
 バリアフリー? 私が声の主に視線をやろうとしたその瞬間、話題の焦点が分かった。彼らの衣服の臭いが、まさに喫煙者のそれだったからだ。彼らは全館禁煙のその建物に、大変な立腹ぶりだった。
 私がエレベータに乗っていたのは、イラク戦争・自衛隊派兵に反対する人々の集まりに出掛けた会場でのこと。「反戦」と名の付くところに出掛けると、タバコを愛好する人が何故か大変に多い。
 その日の朝、4月末発刊予定の『タバコ病辞典』を印刷屋に入稿したばかりだった。タバコ(や他人の喫煙のケムリ)を吸うと発症リスクが上がる病気、悪化する病気、疾病治療への悪影響など、タバコの健康影響を網羅したものだ。学校の保健室や図書館、病院の待合室、できればお茶の間で、一人でも多くの「未来のタバコ病患者さん」と出会って欲しい本だ。
 が、本屋さんに行くと「たばこ、ダメですかぁ」と苦笑いされることもしばしばだ。気のせいか、本に関わる仕事をする人にも、喫煙者が多いように感じる。そういえば、ウェブの「ジュンク堂店員のおすすめ本」にも、「喫煙者のユ〜ウツ」(シガー・ライターズ・クラブ)が入ってたな。
 駅のホームや公共施設がことごとく全面禁煙化されていく昨今の状況は、愛煙家にとっては「他者に危害を(そんなには)加えない範囲での自由」が包囲されていくが如く感じられるのだろう。確かに世の中にはキケンなもの、フジュンだったりフケツだったりするものが溢れている。それに欲求に対する人の弱さ、意志や決意の脆さ。そこにこそ、この世の魅惑もある。迷惑を最小限に抑えることを条件に、侵されてはならない「私的領域」の自由。言論文化たるもの、その侵害には敏感でなくてはならない。反戦運動家や本屋に頑固な愛煙家が多いのは、そんな信条のせいなのか。
 季刊『談』(財団法人たばこ総合研究センター)は小社刊『理戦』がよく隣に並んでいる雑誌だが、最新号のエディタ・ノートで、大澤真幸氏が「自由の困難」と呼ぶ事態をひいている。「個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに——つまり他者危害要件によって——、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる」(「〈自由〉の条件」・『群像』)。〈私の自由〉と〈他者の自由〉の間に生じる出来事について、モラルがルールにどんどん置き換わっていく風潮には、確かに疑問を感じることもある。ただ、タバコに関してはちょっと待って欲しい。
 厚生省資料によれば、タバコが原因の病気での死者は9万5000人、直接・受動喫煙から発生する医療費は1兆3086億円にのぼる。これだけの社会的リスクを、タバコ販売からの税収2兆3000億円を頼む政府は黙認してきた。多くの国が「たばこを吸うと肺ガンになる」と断言する警告表示を、パッケージに大書きすることを法律で定めている。にもかかわらず、Meet your delight──あなたのかけがいのない歓びを、のJTは「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」とあいまい表記、「タバコは文化だ」キャンペーンを続けてきた。タバコがどれほど、どのように体に悪いのか、同僚や家族の体に影響を与えるのか。医療費などの社会的リスクはどれほどなのか。その情報開示があまりにも少なかった。ただ漠然と「体に悪い」ことなど、子供でも知っているが、漠然と「体に悪い」ものならたくさんある。コーヒーもビールも唐辛子も、過ぎれば病気のモト。タバコはそれらとは抜本的に違う、「純然たる嗜好品」たりえないことが、明らかにされてこなかった。それでは喫煙にストップはかからない。
 健康ブームの中で成人男性の喫煙率は急降下中なのに、高校3年生男子の16%が1日20本のタバコを吸っている。近年、妊婦さんの喫煙率はうなぎ登りだ。未成年や胎児の体にタバコが与える影響は深刻であることを考えると、私たちの社会は〈自由〉についてのメッセージを誤って若者たちに伝えてはいないか。
 情報を入手可能にした上で初めて、そのことに関する〈自由〉は議論できるものだ。どんなにキケンだメイワクだとわかったところで、止めない人は止めないだろう。ただこの『タバコ病辞典』が、少なくとも公共空間においてのタバコに関しては〈自由〉の分がかなり悪いことをご理解いただくきっかけとなればと願っています。喫煙者と嫌煙者の議論、お父さんとお母さんの喧嘩のタネになれたら、さらに幸いです。


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本を跨ぐ

2004-4-7 水曜日

批評社 高島徹也 :http://hihyosya.co.jp/

 子供の頃、本や新聞を踏んづけたり跨いだりしたとき、親によく叱られた。以来、書物が床に置いてあるときには注意して歩く癖がついてしまった。
どうしても跨がざるをえないときには、戒めに頭を軽くたたいてから跨ぐ。他人が足で本をどかしたりすると、つい目がいってしまう。
 親にしても、爪を切るときや戸外で敷くものがないときには新聞を広げていたのだから、書物そのものをないがしろにしてはならないと教えたかったわけではなかろう。何かが書かれているもの、知識を与えてくれるものには敬意を払いなさいよ、程度の意味で叱っていたのだと思う。
 しかし、私の体に染みついてしまったのは、そのような書物に関する約束事、「本=そこに書かれていること、そこに詰まっている知識」という制度に基づいた書物の尊重と同時に、「「本」と「足」を接近させてはならない」という習慣だった。あえて本を踏みつけにする人などいないだろうけれど、それが私と本の距離を象徴していたように思う。

 現在、出版に関わって生活するようになって、もうすぐ二年になる。とはいえどの業務もまだ中途半端で、会社にとっては全く戦力になっていない。
 零細版元はどこも似たり寄ったりだが、小社も事務所の半分が自社の商品の倉庫となっていて、棚から在庫が溢れ出し、結束(本の束)が何本かの塔を形成し、場合によっては「足の踏み場もなくなる」。そこが私の主な仕事場だ。
 毎週の返品日には、改装が必要な返本が玄関を埋め尽くす。絞り込んだ初版部数、目一杯の(といっても微々たる)新刊搬入が基本なので、いずれ返本の山となるとはいえ、出たばかりの新刊の在庫に余裕はなく、社外倉庫での改装の時間を短縮すべく(もちろん改装代を少しでも浮かせるべく)、上製本の新刊は社長も加わり社内(といっても3人)で改装する。圧倒的なスピードでカバーとオビをはぎ取る社長の瞳には、「なぜ帰ってきたのだ!なぜ!?」とサディスティックな炎がゆらめいているようにも見えるが、一方でそのリズミカルな作業を楽しんでいるようにも見える。またたく間に(ほとんど社長の手によって)改装が完了してしまう。その本をいっぱいになった書架に運び、ねじ込んでいるときにふと気づく。

「いま、そこの結束を跨がなかったか?」

   ・  ・  ・

 当日誌の第34回、第三書館の北川さんは書いている。

「・・・本というメディアに対する抜きがたい固定観念というか読書文化への“信仰心”のようなもの。・・・「誰かがまだ本を読んでるに違いない」という信仰があまりにひろく浸透していること驚くばかりだが、一方でそれが本というメディアの威信をかろうじて維持しているのではあるまいか。ほんとうに「本なんて視聴率にしたら0.005%もあれば御の字の世界だ」ということがバレてしまい常識化した日こそが恐ろしい。」

 あるいは第141回、大村書店の萩原さん。読書を無前提に肯定する読書調査を受けて、

「・・・本来、本との関わり方はもっと自由であるべきである。必ずしも、最初から読む必要もない。本を読まなくても良い。感動しなくてもよい。本が嫌いでもよい。最も大切なのは、本との誠実な関係を築くことにある。読書とは何か。その行為自体を問うことなしに、統計的に行われている読書調査は全く意味をなさない。」

 本は、著者の思考と紙とインクだけではなく、様々な「信仰」や社会的な期待によって成立している。それは本というメディアが長い歴史を経て獲得してきた信頼、既得権であると同時に足枷でもある。出版に携わるプロたちは、その信仰や期待の周囲で、一方でそれが相対化されないことを祈りつつ活用し、もう一方でそれとは別のありかた、人と本との関わりが持つ(かもしれない)多様性を開放できないかと模索する。本に対して、さらに本の動きに対して、自在に密着したり、俯瞰したりしてその位置を測定し、実際に動かす。
 そんな超人達の仲間に入れるのだろうか? という拭いがたい不安を抱えながら雑用漬けの日々を送っていた。
 でも、本の動きに翻弄されているうちに、本との関わり方がいつの間にか変わってきたらしい。「跨げるようになって」気づいたのは、本という仕組みの奥深さだったりする。本への信仰に囚われた、本とのホントの関係に固執する神経質な一読者の感覚から、少しだけ距離を取ることが出来るようになった(のか?)。二年近くかけて学んだことがそれだけなのかとも思うが、根本的にはその程度だと思う。しかし、この感覚にはいつでも還ってこられるだろう。出版それ自体を、どんな雑用も含めて愉しみながら暮らしていける準備が、ようやく整ったという所。しかしこの仕事にこれからもへばりついていけるかどうかは、その本との距離によってできた空間をどう活用できるかにかかっている。

 跨いでしまった本とその著者の方、そんな本を売るのかよ! とご立腹の読者の皆様、本当に申し訳ありません(踏みつけたわけではなく、跨いだだけですんで)。この一歩を大きな一歩として、精進して参りますのでどうかご容赦を・・・。


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