『心のノート』へ心からのシャウト

2004-3-31 水曜日

雲母書房 松村康貴 :http://www.kirara-s.co.jp/

・ヤフーで【心のノート】と検索してみたら、NECのパソコン直販店のサイトが1位、2位に富士通のノートパソコンへのサイトでした。(まずは版元ドットコム的感想)

 『汝、殺す事なかれ』『汝、姦淫するなかれ』『盗みを働いてはならない』・・・・・・。
世界の多くの宗教がこうした戒律を定めている。しかしながら、一部の宗教を除いて多くの宗教は行為規範に限定して戒律を定めている。名前は忘れましたが、ある禅宗の高僧が修業時代、座禅をするにはするのだけれど、どうしても悶々としムラムラが消えず次から次へと邪なことが浮かんできてしまう。多分、根がとても助平なのだと思いますが悩んだ末、師匠に相談したところ『喝!』ではなくて『ええんじゃない』みたいなことを言われて(ええの?)と開き直り、妄想が自然と浮かんでくるのに任せ、となると自分は安心して水底へ沈んでいき、とうとう悟りの境地に至ることができたという逸話がありました。

 文部科学省が作った『心のノート』、長引く不況とはいえ何も国に支給してもらわなくても1冊くらい、親ごさんに買ってもらっても差し障りはなく、かつ無印のノートは100円(問題はどこまで消費税が上がるかだが)である。しかも『心のノート』には、ほんわかとしたファンタジー的印刷物で一杯で余白が極端に少なく、「書き込みできへんやんか!」と子どもでなくても、言いたくなります。

 さて、『心のノート』について、小社の季刊誌『子どもプラス Vol.16』(04年2月刊)にて特集を組みました。その中の「不気味さの正体」(芹沢俊介×斎藤次郎)で、斎藤次郎さんは代名詞の問題をあげています。このノート(特に1・2年用)は「あなた」という呼びかけで始まり、その後この人称代名詞が使用され続けます。また「僕」や「私」といった一人称は事例としてのエピソードや文章に限られます。そして正式に「わたし」という言葉が使われるのは、最章のタイトル「あなたがそだつまち」に添えられた「わたしをそだてるまち」という言い替えにおいてです。この「あなた=わたし」という受動的な呼び掛けから、能動的な一人称へとすり替えていくところに『心のノート』の不気味さや危うさがあるのだと斎藤さんは指摘します。
 まさにその通りで、道徳教育という眉唾ものをオブラートしている事柄、そこが「『心のノート』ノー」と言わせたくなる要因のひとつなのです。
 さらに言うならば、そのすり替えを保証するものとして文体の当然口調があげられます。例えば「中学生だもの自分で考え判断し実行するのはあたりまえ」(中学校用、23頁)や「正直に生きることは、自分の心を明るくします」(小学3・4年用、28頁)などです。
 また、戦時下の独裁、オウムのテロリズム、そして『心のノート』による子ども、ひいては大人に至る全体主義へと向かわせる文体的な力学を比較すると興味深いことが分かります。
・戦時下における命令口調。これは人を強制的(身体的・心理的)に統率するけれども反動的に反体制を生み出していきます。
・オウムのテロリズムによる断定口調。先行きの分からない不安の時代にあってこの口調はハマルひとは痙攣的にハマッてしまいます(心理的・補完的に身体的)。ダイレクトに無意識へ届けることのできる口調ですが、ハマらない人には意識下でシャットアウトされます。
・『心のノート』による当然口調。意識下での検閲が難しくすんなり無意識に届き、述べられた言葉は無意識と意識と行為を垂直に貫いていきます。

 当然口調の危険性は、無意識と意識を連結させてしまう点です。心ここにあらず、心機能の停止、自らが判断するという主体性が崩壊し、まさに死人の群れを作りだしてしまう可能性があることなのです。
 また、当然口調が作りだす限界線はその限界線に対して肯定的な生活をしているものになんら支障をきたすこともなく、かえって「自分は正しいのだ」という優越感(死人の優越)をもたらしますが、限界線に対して否定的な生活をしているもの、せざるを得ないものにとっては、屈辱感や自虐意識をもたらし、さらにドロップアウトを助長します。「家族みんなが幸せ」といっても、不幸せな家族もあるわけでその家族はその地点から生きていかねばならないのです。言うなれば、そこが主体的なゼロ地点の限界線でなくてはならないのに、全体的な限界線においてはマイナス地点であるという二重の基準に苦しまねばならなくなるわけです。
 排除するものは排除し、従えるものは統制していく(心理的統制のみで)。それを可能にしていく文体、それを凝縮したのが『心のノート』なのです。このノートの作成に著名な心理学者が関わっているのは、心を扱うからではなく心をどう統制していくかの点だったのかも知れません。
 心に限界線を引き、一つの価値基準以外をやわらかく排除していくこと。宗教でさえひとり一人の「心」を尊重することを守ってきたにも関わらず、『心のノート』はその領域を侵犯しようとしている。ノートによって認められた心以外は「心にノー」を巧みに突きつけていく。私はそのようなことを認めることはできません。

最後に『子どもプラス Vol.16』(特集の終わりに/斎藤次郎)を掲載して日誌を終わります。

「『心のノート』はいらないけど、でも心はとても大事なものです。美しい、おおらかな心だけが大切なのではありません。いじわるしたり、ウソついたり、いじけたり、泣きたくなったりする、そういう心も、丸ごと大事なのだと思います。
 心を大事にするというのは、よくはわかりませんが、少しゆったりして自分やほかの人のことを考えることだという気がします。いじわるやウソつきにも、みんな理由がありますし、そういうピンチをきりぬける方法がきっとあるはずです。
 元気がいいときはいいのです。意欲がなえ、バランスを崩し、調子が悪くなったときこそ、子どもの心が「大事にして!」と叫んでいるのに違いありません。そういう子どもたちに精いっぱい寄り添っていこう。
 この特集を組んで、私たちはまた改めて、ふつうのくらしの大切さを思うのです。」


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奥付定価表示の重さ

2004-3-24 水曜日

第三書館 北川明 :http://www.hanmoto.com/bd/d3skan/1/

 4月1日を前にして、本の総額表示問題がいよいよ具体化してきている。小社も新刊の表示をどのようにすべきか、参考のために書店の棚を覗いてみた。
 いくつかの、わたしにとっては小さくない発見があって、少なからず驚いた。
 まず、棚にある本のほとんど全部が奥付に定価表示をしていない。小社は開業以来25年間ずっと奥付定価表示を続けてきている。最近は少数派になっているのを知っていたが、これほどまでとは思わなかった。書店の棚で一番多いのは、「定価はカバーに表示してあります」と記載されているケースだが、まったく何も定価について奥付でのコメントのない本がけっこう多いのにも、びっくりした。これらはカバーを取ってしまえば、いくらで売ろうと勝手、ということでもある。ほんとにそれでいいのだろうか。
 再販制度をめぐる議論はすでに数十年続いてきているが、その場合の大前提として、本の定価は版元が決めるものという合意があったし、いまもそれは厳として存在している。その版元の決めた定価を流通の川下末端まで守るべしというのが再販制度だ。
 ところが、その版元自身がカバーを取り替えればいつでも値上げがOKという姿勢を維持しつつ、同時に1円たりとも定価を割ることは罷り成らぬと再販制度厳守を川下に向かって叫ぶ。これは、果していかがなものだろうか。法的には問題ないのは分かるが「読者のため」を常々標榜する出版界としてはいささか身勝手に過ぎると批判されてもしかたがないのではないか。
 そこのところを、故小汀良久・新泉社社長は、再販制度維持を主張する限り、版元も奥付定価表示を守るのが出版者のモラルであり矜持であるとして、終生それを続けた。小社もその顰(ひそみ)に倣ったわけだ。
 書店の棚の前に戻る。新泉社の新刊からは、きれいに奥付定価表示が消えている。(後で社員の一人に訊いたところでは、社内の合意ではなく、「ただなんとなく」消滅したとのこと) 他の再販制度厳守を叫ぶリーダー版元の大多数が「定価はカバーに表示してあります」組である。これには正直、心底驚いた。このまま進んで「定価はオビに表示してあります」になり、そのつぎは「定価はスリップに表示してあります」になって、ついには印刷された定価表示は一切なくて見返しの隅にエンピツで定価を書き込んでいるうちに再販制廃止に追い込まれたスウェーデンの轍を踏むことになりはしないか。
 まず隗より始めよ、などと説教するつもりはない。だが、ポイントサービスなど定価の1%前後のやりとりにクレームをつける根拠として、本の定価をのっぴきならないものとして主張していくためには、版元サイドも安易な値上げはしないというシグナルを出し、読者に対して旗幟鮮明にしておくことでシンパシーを得ようとする姿勢を打ち出すことが肝要ではないか。
 当初の懸案であった総額表示については、一応の小社なりの結論を得た。奥付はこれまで通り「定価2,000円+税」で行く。カバー、オビも同じ。これで税率がいくらに変わっても対応できる。スリップも同様だが、ボウズの丸いところだけに「2,100円」と入れた。しばらくこれでやってみる。
何だ、某大手版元と同じ方式ではないか、と言う声が聞こえてくるが、奥付表示と連動している点が決定的に違う。 
 その意味と重さは、版元なら判ってもらえないと困る。


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地方で出版10年

2004-3-17 水曜日

吉備人出版 金澤健吾 :http://www.kibito.co.jp/

 東京在住の方が岡山に立ち寄って話しをしている中で、「岡山はなんか違いますね。ゆったりするような、昔に返ったような感じがする。東京とは随分違うし、京都とも違う」と言っていたという話をまた聞いた。「田舎だね」という意味もあるのだろうが、最近は好意的に受け入れている。この10年間、地方で本をつくってきて思うのは、東京の人が感じるこの地域特性こそ掘り下げていくテーマであり、こんな面白いテーマはない、ということである。

 自然の環境や人、地理的条件、歴史的背景などが醸し出す、地域特有の雰囲気というのは、どこの地方にもある。日本全体を面白くするには、各地でこうした地域の特性を際立たせ、地域にいる人たちが主張していくことではないだろうか。その中で地域の出版社は、大きな役割を担えるのではないかと感じている。地域出版の編集活動は、特殊なテーマを扱うのなら別だが、東京で本をつくるよりも面白いことかもしれない。

 地方で本をつくるのは、例えば東京に比べて読者人口が少ない、著名な著者がいない、印刷や製本、デザインや流通など、ハンディキャップは意外と多い。しかし10年もやってくると、これらもやり方によって少しずつ克服できてくる。重要なのはテーマとその切り方である。幸い岡山には古代に吉備の国として栄えた歴史がある。そして桃やマスカットに代表される農産物が採れる温暖な気候や魚介類が採れる瀬戸内海のある自然があり、そこで育った人がいる。これで扱うべきテーマは十分である。

 地方出版では、古くから「地域を耕す」という言い方をよくしてきた。本にすべき内容を土を返すように掘り出し、文化の育つ土づくりをしていくということであろうか。それは地域の人と関わり合いながら、企画して編集し、誰でも気軽に読める本というパッケージにして後世に残すことである。読者が著者になり、著者が読者にもなる。地域の人とその地域の文化をネタに本をつくり、消費もその地域でする。地域でつくり地域の人が利用するわけだから、文化の地産地消ともいえる。もちろん関心がある人なら、それは全国どこからでも手軽に取り寄せることができる。地域出版は田舎でやる仕事としても面白い。

 ただ、地域出版でその経営をみてきて思うのは、本をつくるだけでは成り立たないということである。行政や企業の仕事も請け、パンフレットや記念誌、ホームページの編集も手がけ、10年目を迎えることができた。地域文化全般を扱い、本は表現手段の一つと考えることである。これからも地域の特性を生かし、さらに地域でしかできないことを追究していきたい。そして本にこだわりながら本だけにとらわれず、地域の人と文化を編集する会社を目指したい。  
 最近は次の10年を見据えて、出版企画の業務を兼ね、著者探しと読者の開拓という観点から、文化教室を手がけていこうと計画している。地域出版の模索は続く。


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2004-3-10 水曜日

てらいんく 佐相美佐枝 :http://www.terrainc.co.jp/

『ボラ』
ぼんやりした詩人が
ときに
わしを<石>とまちがえよる
2004年3月1日、てらいんく発行『わたしの魚類図鑑』 畑島喜久生著より
(シリーズ 子ども 詩のポケット えくすとら第1巻。)

『わたしの魚類図鑑』は、「海の中の哲学、抒情一辺到の少年詩に新風を吹き込んだ」と評された幻の少年詩集で、作者の感性の解説が付けられ、新たな装いで「てらいんく」から復刻されました。

『獰猛なエンゼルフィッシュ』
エンゼルフィッシュの赤ちゃんは
おかあさんに教えられたとおり こんどはすぐ
ほんとうに
その
アッと いうまに
おかあさんを食べつくしてしまいました

魚の絵、写真等入らない魚の詩集図鑑です。読んで、読者の知識のなかからその魚を連想。知識のない魚は、魚屋さん、または、食卓での観察をおすすめいたします。短い文で、あまりにも、言い当てたその表現に「うーん」と読者は、うなってしまうことでしょう。
今、「悲しいことばかり」と落ち込んでいる人にお薦めの1冊です!
感動し、感心し、大きく開きなおれるかも。そして、詩を書きたくなることだけは、確か!詩は、心を癒してくれます。ためしに、大きな声を出して『わたしの魚類図鑑』を読んでみてください。


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朝日新聞の威力

2004-3-3 水曜日

ロゼッタストーン 弘中百合子 :http://www.rosetta.jp/

1月17日、朝日新聞土曜版beの「編集長のツボ」というコーナーにロゼッタストーンが紹介されました。
日頃から知名度不足に悩んでいるロゼッタストーンですが、朝日新聞に掲載されたあとの1週間くらいは、インターネットでの注文や書店からの客注があいつぎ、改めて朝日新聞の影響力の大きさを感じました。

ロゼッタストーンは小さな出版社ですから、朝日新聞の全国版に大きく広告を出すなんて、まず無理です。取材時に、ロゼッタストーンの表紙の写真も小さく掲載されると聞き、今回の表紙はなるべくシンプルに、文字を大きくして、縮小されても最新号の中身がわかるように工夫しました。涙ぐましい努力です(笑)。

その甲斐あってか、書店での問い合わせも多かったらしく、「宣伝方法を変えたんですか?」と聞かれました。これまでロゼッタストーンにあまり好意的でなかった書店から「ロゼッタストーンのことを詳しく知りたい」と電話がかかってきた時には、感慨深いものがありました。

こんなに反響があるんだったら、もっと事前に書店営業をして、たくさん注文をもらっておけばよかったと後悔しました。ロゼッタストーンは書店にどーんと平積みになっているわけではないので、うまく見つけられないまま帰ってしまったお客様も多いと思うのです。

これまで、マスコミに紹介されても、それほど大きな反響はなかったのですが、やはり、発行部数が圧倒的に違うのですね。ただ、土曜版ということもあって、このコーナー、意外に出版関係者や書店関係者は読んでいない人が多いのです。一般の人たちのほうが、マスコミ人よりも、情報をまめにチェックしているのかもしれません。

朝日新聞がきっかけでロゼッタストーンを読んでくれた人の何人かは、編集部に遊びに来てくれました。読者の方と直接話すと、どの記事に興味を持ったのか、どこがよかったのかなど、ナマの声を聞くことができ、大変参考になります。今日も、たまたま会社がご近所だった女性が、「こんなに近くに、こんな雑誌を出しているところがあるなんて嬉しくて」と、立ち寄ってくれました。その女性は、ロゼッタストーンを電車の中で読んだり、会社の仲間に宣伝したり、ささやかなPR活動をしてくれているそうです。
熱心な読者は、本当にありがたいです。

ただ、こうした新聞の効果は一瞬の追い風にすぎません。まだ世の中には、ロゼッタストーンの存在に気づいていない人が大勢います。ちょっとずつでもクチコミで広まるように、より質の高い雑誌をつくっていかなければと思います。

ロゼッタストーンは今年の夏で創立5年目を迎えます。これまで細々と雑誌を発行してきたのですが、いよいよ今年は、書籍発行にのりだそうと思っています。ロゼッタストーンの日々のようすは、ロゼッタストーンwebの「ロゼッタストーン日記」で公開していますので、興味のある方は読んでみてください。
http://www.rosetta.jp)


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