憧れの第四惑星

2003-10-29 水曜日

アールズ出版 澁谷日出喜 :http://www.rs-shuppan.co.jp/

 そういえば、今年こそが2003年だった。
2003年といえば「火星大接近」の年である事を、僕は思い出した。
もっと正確に表現すると、メディアで話題になった事に触れて、僕は、2003年が「火星大接近」の年であることを知っていた事、を思い出したと言ったほうがいい。
小学生の頃、図書室の図鑑を見て、僕はそのことを知っていた、そして、無性に憧れた…はずだったが、すっかり忘れてしまっていた。
ついでに、火星の衛星がフォボスとダイモスという事も思い出した。
当然のように、今となってはあんまり役に立たないことだ。それから、
あの頃、天体望遠鏡が欲しくても買ってもらえなかったことも思い出した。
……
でも、2003年には、僕はもう大人になっているから、きっと天体望遠鏡で、大接近した火星を見ていることだろう…待てよ、2003年といえば、もう21 世紀じゃないか。科学が発達した新世紀には、戦争なんてもう無くて、人類は宇宙へ進出しているはずだから、ひょっとしたら大接近した火星に、僕は向かっているかもしれない…
そんなことを妄想しながら、ポコポコ歩いた帰り道の、秋の夕暮れの原っぱの匂いまで、思い出してしまった。

 そこで、現在の僕は、ちょっと愕然とする。
いつの間にか僕は、天体望遠鏡をもっていない、大人になってしまっていた。
……
でも、そんな事を言えば、いくら21世紀になったと言ったって、あいかわらず戦争は続いているし、人類の宇宙進出は遅々として進んでいないじゃないか。それどころか、原っぱの匂いまで無くなってしまった。
天体望遠鏡が何だ、どうせ東京からじゃ火星なんて…
そんなことを考えながら、ポコポコ歩いた帰り道の、
ふと見上げた、高層マンションとコンビニのネオンの隙間の夜空に、憧れの第四惑星が、赤く赤く輝いていた。ちょっと泣けた。


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日常雑感

2003-10-22 水曜日

批評社 臼井新太郎 :http://hihyosya.co.jp/

私の住む東京都文京区とその周辺地域には、大手から零細までの出版社、本の流通を担う取次、そして印刷所から製本所まで、関係業者の多くが集中していることで知られている。出版は「文京区の地場産業」などとも言われ、私の勤務する批評社も文京区の本郷にある。

1 年365日を、ほぼこのエリア内で生活しているのだが、まあ、職住接近という時期があってもいいかな、程度の気持ちで新卒時に某版元(批評社ではありません)に就職した際、文京区で下宿を始めたのだ。まず驚いたのは、朝、紙を運ぶトラックをとてもたくさん目にする、ということだ。印刷用紙は通常、版元から紙問屋に発注をして、そこからトラックで印刷所へ運ばれる。本文用紙やカバーなどに使う「特殊紙」は、100枚〜500枚程の単位で梱包されており、それをいくつかの山にしてトラックの荷台にロープで固定する。(屋根なしのトラックに積まれている場合)こうした光景が目の当たりにでき、朝はタクシーと同じくらい(といったらオーバー?)、大型から小型までの紙運びトラックが目白通りや外堀通りを走っている。商業印刷用の輪転用紙を積んだトラックも多い。これは荷台に巨大なトイレットペーパーのロールが並んでいる印象だ。積まれた紙のすきまには用紙の銘柄や入れ先(=印刷所名)を書いた紙が貼られており、「秋田書店漫画用紙」などという文字を目にすると「あぁ、これがかつて私を熱狂させた少年チャンピオンコミックスになるのか…」などと勝手に想像し、感慨深くなったりもする。

現在の住まいは勤務先にも歩いて30分ぐらいなのだが、その途中には様々な出版関係業者があり、それらを今和次郎の「考現学」さながら眺めつつ歩くことは、個人的にとても楽しい(変ですかね?)。特に多いのは「零細」印刷所や「○○紙工」といった折り屋(印刷された紙を折る専門業者。8頁や16頁といった単位で面付けされた印刷物を折ったものは「折り本」「折丁」などと言われる)や紙器屋(例えば辞書を入れるケースを製函したりする)、断裁屋、箔押屋、製版屋等々だ。たいていの業者は工場の前の公道を「作業場」として活用しているため、ただでさえ狭い道、歩行者はそれぞれの業者間を行き来するトラックやフォークリフトにひかれないように歩かねばならない。印刷所前に置かれたパレット(=輸送時に用いる木製の荷台)の上には紙が積まれており、銘柄のシールを見ると、自分が発注した紙がこうやって業者に届いているのか…、と実感として感じられる。枚数は同じ10連(1連=1,000枚)でも、用紙によって厚さがこんなに違うのか、とか、四六判4裁や菊判半裁(“四六判”“菊判”といった紙の定型サイズを半分や4つに切ったもの)といったサイズが目で確認でき、あらためて無駄の出ない用紙の取り都合を考えねば、などと思いが至る。

古紙回収の業者もいくつかあり、郊外の大規模な業者とは趣を異にするが、それでもベルトコンベアに大量に流れる屑紙となった本や雑誌の山は壮観だ。あれの下敷きになったら死ぬな…といつも見ながら思う。断裁を待つ雑誌や本の山を見ても職業柄、何も感じなくなってしまったのは少々問題だろうか…(いや、少しは感じるものもあります)。
 
また、本の間に投げ込み(読者カードなどのハガキやチラシ、その他諸々)を挟み込む専門の業者や、梱包結束を専業とする業者もある。作業場が通りに面していて、1冊1冊手作業でチラシを挟み込む中の光景がのぞけるところも多い。くだらない本ばっかり作りやがって、などと思われているかなぁ…、いるだろうなぁ…と自戒したりもする。朝、なんの変哲もない路地裏に俗に言う「エロ本」が大量に積まれている光景も、なかなか壮観である。もちろん私はエロ本だからなんだ、ということを言うつもりはない。私の前勤務先でもエロ本を作っており、肌の色を忠実に印刷再現することに心血を注いでいた(時期もあった)。朝日新聞2003年9月11日付「声」欄のトップに〈出版界に苦言〜放尿や脱糞の写真集が出版といえるのか〉という58歳男性の「投書」が掲載されたが、これとて大きなお世話、だと思ったりもする。

話がそれました。さて、私の勤務先への通勤路には、大手の取次「T」もある。新刊配本日の朝、書店配本用の部数が足りなくて、ここへ自転車に本を積んで届けに来たこともあったな…。前の会社では、文庫のオビの印刷がこすれて、配本用の本を汚してしまっている、との連絡があり、社員総出で帯のつけ替えとカバー磨きに来たこともあったっけ…(その時は特色のシルバーのインクが生乾き、だったんですね)。とにかく、流通センターが郊外にあるとはいえ、まだまだ朝は配本/集品用のトラックが大挙して押し寄せており、都心ではありながらちょっとしたラッシュである。また例によって、本がここから全国へ発送されるんだ、とおセンチになったりもする(バカだねぇ…)。

その近所には、活版印刷の技術力でその名を知られるK工房がある。私もいつの日かここに名刺を頼みたい…。並びには大手製本所のK製本がある。朝は、できたての新刊がパレットに積まれ、出荷を待っている。道からのぞくだけでも、やたらと数が多い新刊は目立つ。書名は確認できなかったがカバーの色が印象的な本が、やたらたくさん積まれてたな、と思ったら数日後の書店でその新刊を発見(宮本輝の本だった)することもある。かの、『ハ○ー・ポッター』の時は、荷台部分の屋根がガルウイング(上方に開く)の巨大なトラックに、これまた巨大なパレットに何百冊ずつだか忘れたが積まれており、ベストセラーと言われるものの物質的な「量」に圧倒された(このときはトラックに「ハ○ー・ポッター第○便」と書かれた貼り紙がしてあったのである)。そういえば、この『ハ○ー・ポッター』の版元も、少し前にこの界隈に引っ越してきた。メディアなどにもしばしば登場するここの社長さんが歩いているのも見かけたことがある。彼女は「肩で風を切って」歩いていた(ように見えた)。

 昔から読んでいた本の版元を、ふと、この界隈で発見することも多い。これまた私にとっては新鮮な発見である。大きい出版社を想像していたのにボロボロの戸建てだったり、小さい会社なんだろうな…と思っていたところが、立派な自社ビルだったりして面白い(まあ、たいていは前者なんですが…)。次々と社屋を移転する版元も多いし、昨今は廃業していく版元も多い。高校時代お世話になった教科書会社Kもこの界隈だ。ここの出している数学の問題集、自慢ではないが高校時代、1冊のうち、1問も解けなかった…。この版元の前を通るたび、かつての赤点を思い出しイヤな気分になる。けれども、それも今ではいい思い出だけど。

批評社の本を印刷している印刷所のいくつかもこの周辺にある。M印刷もそんなひとつだ。この前を通ると、厳しい納期を無事クリアしてもらったときは、職人さんと抱擁して喜びたい思いになるし、印刷の刷りムラがひどかったときは「なにやっとんじゃ〜」と怒鳴り込みたくなる(どちらも迷惑でしょうからやってませんが…)。主に色物の印刷(=カラー印刷)をお願いしているN印刷の営業所は神田川沿いだ。私は色物印刷の場合、なるべくフィルム検版まで自分で行うのを常としているため、印刷用のフィルムをかかえて、この神田川沿いの営業所まで自転車で届けるのも仕事の一つだ。そういえば、この界隈、自転車のカゴにPS版(オフセット印刷の版材)や印刷用の大きなフィルムを丸めて入れて移動するオジサン(職人さん)の姿も日常的な光景で、時に、それに同化している自分がいることに気付く。

界隈でひときわ目立つのが、新しくできた凸版印刷の小石川ビル。これは最高裁や警視庁などの作品で知られる岡田新一設計事務所による建物だ。他にもやたらとマンションが増えつつあり、スクラップ・アンド・ビルドによる建物の高層化が進んでいる。昔ながらの町工場も減ってきていると感じる。そういえば、写植をお願いしているI企画さんも、以前は事務所にオペレーターが大勢いたが、現在ではその事務所は引き上げ、自宅に写植機を置いて1人で仕事をしている。

……この調子でだらだらと際限なく続けても仕方ないので、このあたりでそろそろ切り上げる。この「版元日誌」では比較的マジメな出版に関するテーマが語られることが多いので、こういった日常雑感はどうかな? と思ったのだが、まあいいや! どうでも。それにしても「出版界や本の未来への提言」的な発言や著作が最近多く見受けられ、それらの主張は至極もっとも、である。私自身、出版業界に身を寄せる人間であり、「本を買わない/本が売れない」現在の状況は死活問題だし、書店への営業努力なども考えるべき重要な課題である。私も、自分の言葉で出版の未来を語ってみようかな、と今回思ったのだが、挫折した。

でも、ひとつ思うのは、本を生み出す著者と受け取る読者の間には、我々版元の人間をはじめ、ここまで書いてきたような様々な人々が関わっている事実を重く受け止め、そんな出版に関わる人々が皆、楽しく仕事できるようになれば良いな…、とは思う。いかにその人その人にとって、気分良く出版に関わることができる生活スタイルを作れるか、ということが重要であり、また考える必要があると思う。そのためには具体的にどうすれば良いのか? 例えばこの「版元ドットコム」も、実際問題、手に入れにくい中小版元の本やその情報が、読者や書店にとって入手しやすくなる具体的な活動のひとつであり、それは「本と人」の関係を充実したものにする手がかりとなろう。また、福岡や秋田、その他の地方にも「地方出版の雄」と呼ばれる版元があるし、版元ドットコム会員社の中にも地方で精力的に活動を続けている版元がある。それはまた、それぞれの地域でベストな出版活動を模索、実践しているということで、出版と人と地域の幸せな関係性とは? を考える切っかけとなる。もっと些細なこと、例えば社員募集の条件を問わない(「子育て中の人、高齢者、他国籍の人、レズビアン、ゲイ、部落民、障害者でもかまいません(ポット出版ウェブサイトより)」)といった基本姿勢なども、文化産業であることをうたいつつ、様々な点において閉鎖的かつひとりよがりなこの業界には、欠けていることだと思う。

あ〜、なんだかんだ言って最後につまらんことを語ってしまった…。「難しい話はやめてよ〜」という加藤さん(注・近所の印刷所のオジサン)の声が聞こえてきそうです。


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講演会販売はやめられない!?

2003-10-15 水曜日

オフィスエム 丸山慎二 :http://www.avis.ne.jp/~emu/

講演会販売を積極的にやるようにしています。著者から講演スケジュールをもらと、その会場に近いとか、イベント主催者と取引があるといった書店に声をかけ、いっしょに販売に行く。全国を股にかけるとさすがに経費的にキツイけれども、小社の場合、著者も地元=長野県内での講演が多いので、周辺の書店営業などとあわせれば動きやすくなります。
 講演会場では講師著書はもちろん関連本、ときには関連しない売れ筋本などもズラッと揃えて店を出す。著者本だけなら長机一本で済むのに三本も四本も並べてしまう、なんてこともしばしばです。小社は専門出版社ではないのでジャンルごとの点数は少ないけれども、そこで書店が「ノッて」くれると、おもしろい売場が出現します。たとえば小社刊「源流の発想<21世紀・ムラ医療の現場から>」の著者・色平哲郎医師の講演会の売場には、コミックの「ブラックジャックによろしく」が全巻並ぶことも。
 すでに特定少数に絞られた人たちが集まってくる!と勝手に期待し、また経験がほとんどないのに「売り切れ恐怖症」に取り憑かれ、いつもつい多めに本を用意してしまいます。しかし、ご承知の通り、プロ野球のバッティングじゃないけど、講演会の売上げは「水もの」。前回が売れたなんてデータはあてにならず、イベントの主旨と著者が話す内容との関連性、参加者の職種や年齢層、会場内の雰囲気から店を出す場所まで、同じものはひとつとしてありません。長机がこっちに倒れそうなぐらいの勢いで客が押し寄せることもあれば、どう考えても本日の経費に対して赤字だよな、なんてこともあったりです・・・。
 「そんなこと言ってる時代じゃないよ」と、ある書店主は小規模の集まりでもどんどん出かけていきます。大型書店に押されるなか、外商や配達をしながら地域の読者一人ひとりといかにつながっていくか、そこに活路を見いだそうとしている中小規模の書店も多い。だから講演会出店は読者への直接のアピールの場です。これは、読者に本の存在を知ってもらう機会がひとつでも増えることが大事な、小さい版元も同じだと思うのです。
 ということで、講演会販売の効果については、少々無理矢理に「長い目で見る」ことにして、明日も出稼ぎだ!


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本当にいいんですか?

2003-10-8 水曜日

海鳴社 辻 信行 :http://www.kaimeisha.com/

 あまり論議されることなく、ことがどんどん運んでいっているものがいくつかあります。 
 そのひとつは、いま、イラクの「復興」に貢献するために自衛隊が派遣されようとしています。外国の新聞に、臆病者の日本人とか書かれている、などと日本の世論を扇動するかのごとく報道する人がいます。その人は、戦場に行き戦うことはないでしょう。
 国連の職員が攻撃されたように、イラクの「復興」に金と自衛隊を日本が出せば、ゲリラ側は日本に忠告を与えるためにも、攻撃をしかけるのではないでしょうか。必ず日本人の死者がでる、と考えるのは私だけでしょうか。(自衛隊員はもちろん、日本大使館や海外企業、日本の国内のどこかが標的になる可能性も考えねばなりません。その覚悟はあるのでしょうか。)
 祖国のために、あるいは世界の平和のために、という名目で死んでいったひとは「英雄」かもしれませんが、遺されたものにとっては、たとえ臆病者の父であっても、生きていてくれるほうがよっぽどいいのです。
 「ふつうの国」でないスイスは、それゆえに国際社会のなかで名誉ある地位を占めています。もちろんスイス国民の努力はたいへんなものですが。日本も、国際紛争に武力を提供しなくても、アメリカは文句のいいにくい憲法をもっているという「ふつうでない国」ですが、それを放棄することに、みんな納得しているのでしょうか。
 また、国立大学の独立行政法人化も、来年度から具体化するようです。私が大学に入った頃、教養部長は「学問の自由は死守しなければならない」と、挨拶をされました。いま、だれが死守するのでしょうか。大学の人事権のトップを官僚組織=政府が握ることに、危惧はないのでしょうか。
 その政府を握る衆議院の選挙がもうすぐあるとか。二世・三世議員が幅を利かせています。被選挙権がまるで世襲のようです。階級社会化が強まっていくのを容認していていいのでしょうか。
 国民総背番号制も、また、われわれの業界では消費税の内税方式も、ずるずると既成事実が進行する気配です。管理社会がわれわれの行く手に待ち受けています。その社会は人類を幸福にするのでしょうか。

 終戦の前に生まれたものは、クラスの何人かは「父無し子」でした。そんな世代からのひとことです。


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読書とは何か

2003-10-1 水曜日

大村書店 萩原 祐介 :http://www.comk3.co.jp/ohmura/

ときどき新聞等で「読書調査」なるものをやっている。読書は好きか、月に平均何冊読むか、どんなジャンルの本を読むか、読書で感動したこと等を、年齢別、男女別に分析し、前回までの調査結果と比較しながら、総括的に結論付けられるケースが多い。大抵は最後に書籍読者の減少を問題視するコメントが載っている。
私はいつもこの調査と読書に纏わる記事に多くの疑問を感じる。確かに書籍読者の減少は、出版業界全体の責任も一部にあって、われわれも十分反省しなければならない。しかしながら、記事内容はどちらかというと「数の減少」そのものを問題視していることが多く、暗々裏に「読書数のグラフは右肩上がりになるべき」「読書は良い」という前提で語られている感がある。ひどい時には、カリキュラムに読書が組み込まれている学校を紹介し、それを肯定していることもある。
版元の人間がいうのもなんだが、書籍読者の減少が即、問題なのではない。この与件で最も問題にすべきなのは、むしろ読書という行為そのものにほかならない。
例えば私は本を最終ページから1ページの間でランダムにページを開き、上下左右にとばし読みし、ページ上で意味をモンタージュしたり、まるで絵画を観るかのように文章を眺めたり、逆に1字をずっと凝視したり、一時的に全く本を開かなかったり、逆に著しく本を読む時があるが、仮に私が読書調査をされた場合、どう答えてよいのだろうか(もっともこんな変な私に読書調査をすることは、まずないと思うが・・・)。私は稀なケースなので黙殺しても問題がないのであろうか。
本来、本との関わり方はもっと自由であるべきである。必ずしも、最初から読む必要もない。本を読まなくても良い。感動しなくてもよい。本が嫌いでもよい。最も大切なのは、本との誠実な関係を築くことにある。
読書とは何か。その行為自体を問うことなしに、統計的に行われている読書調査は全く意味をなさない。
——9月新刊——
『命を生きる! 藤沢周平の世界』巻 
北影雄幸 著
本体1600円・四六判・並製

普通の人がふつうに、しかし優しさと思いやりをもって今日という日を生きる——その哀歓を描くことこそ、自ら「人生の底を見た」という過酷な人生を歩んだ藤沢の究極の文学世界であった。名作『たそがれ清兵衛』や『蝉しぐれ』を始め、ひたむきに生きる人々の哀歓が描かれた数々の作品を詳解。純愛、人情、家族、師弟等、テーマごとに検証し、読みどころも収録。その魅力を余すところなく伝える。


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