ソウルから三ヶ根山そして馬籠
2002-10-30 水曜日
もう何年も前になくなった作家、堀田善衛の晩年の著作に『未来からの挨拶』があって、この一週間、電車の中や喫茶店で読んでいます。これは都市をテーマにしたエッセーですが、どこを読んでも目の前に生きて呼吸している都市が現れます。
2000年前の古代ローマのごみの話だったり、同じ時代からいまに至るパリだったり、モスクワだったり、ラベンナだったり、グラナダだったり、わたしがいったことのない、多分これからも行くことがないであろう街でのできごとが繰り広げられます。
その中に次のような文章があります。
かつてヴェトナム戦争が戦われていたとき、私は民族というものには『魔』が棲んでいる、と書いたことがあった。ヴェトナムではその『魔』はヴェトコンというゲリラ戦士に化して、ついにこの『魔』はアメリカの現代武器に勝ったものであった。しかしバルカンの諸民族に棲んでいる『魔』は解き放たれて相互に殺戮しあい、この地の文化文明を悉く破壊するように働いていると見える。(堀田善衛『未来からの挨拶』)
バルカンのことは、どうなっているか、おさまっていると思えないのですがあまりわたしたちに情報として入ってきません。
ナショナリズムについて考えてました。でも「面倒なもの」という以外なにかまとまりのあることはうかんでこないのですが、いろいろな局面を見ることで極端にはしることは避けられるのではないかと思います。
先月末、ソウルの安重根義士記念館を訪ねました。『旅行ガイドにないアジアを歩く 韓国』(小社刊)の改訂版のためです。
ソウルは朝鮮王朝時代の王都、風水思想によって築かれた城壁に囲まれた都市です。王宮である景福宮の南側の要地南山公園に救国の義士安重根の記念館があります。1909年伊藤博文を暗殺し、1910年日本によって処刑された人です。
韓国では超有名人です。記念館の前には、刑務所で彼が看守に遺したという遺墨十数点が碑に刻まれて残されていて、館内の壁には、その遺墨がかけられています。たとえば「才月を虚しく送るなかれ青春は再び来らず」、「疎水を喫し水を飲めば楽しみその中にあり」。単なるテロリストではない、深く思索をし苦悩した人間像に共感します。彼の生涯をたどったビデオが韓国語版とともに日本語版でも上映されています。たまたまチュソク(日本のお盆にあたる)で休館で、翌日再度出向いて入館できたのですが。チュソクの影響か訪れる人はあまりいませんでした。この記念館がつくられたのは1970年パクチョンヒ大統領によってであり、庭にある数々の記念碑の建立者に財閥が名を連ねるのも事実でした。
それから10日ほどたって日本の三ヶ根山にある殉国七士の碑を訪ねました。豊橋で新幹線を降りて、ここからはレンタカーを借り約1時間、三ヶ根山ドライブウェイの途中にあります。山頂付近に参道と彫りこまれた石の案内を左に入ると広い駐車場、その奥に木立に囲まれた碑がありました。清瀬一郎ら、東京裁判の弁護人が発起人になって建立されたものでした。
さらにそこからすこし離れたところに、全国比島方面戦没者慰霊場があります。ここ一帯には大東亜戦争がそのまま生きていました。
殉国七士の碑は一般には知られていませんし、ここまでお参りにくる人は普段はあまりないようです。4月末に毎年慰霊祭があり、この参道は黒塗りの車で埋め尽くされるということです。
安重根記念館のほうですが、新羅ホテルの近くから、タクシーに乗ったのですが、場所を運転手さんは知らず、無線で問い合わせた先の人も知らず、調べてもらってやっとあり場所が判明し、運転手さんも苦笑いでした。
だからといって、安重根を韓国人が忘れてしまったわけではないのです。韓国人の意識の深いところに普段は眠っているのです。強制連行も慰安婦問題も。
A級戦犯で処刑された人たちは、ある人たちにとっては殉国者です。
極東軍事裁判で国のために死刑となった人たちです。インドのパル判事が全員に無罪を下したように、勝者による一方的な裁判であったという一面があるのも真実でした。よく言われるように。広島長崎への原爆投下は裁かれていないのですから。確かに日本は侵略をした、だが日本を裁くほどに連合国はきれいか。というおもいが、アンビバランスなおもいが、日本人 の感覚のなかにあることもみておかなければいけないと思っています。
この日本人の意識の底にあるのが、西洋に対するナーヴァスな感情。
日本に西洋が登場して以来、江戸末期から明治維新にかけて、そしてそれ以降も、日本にとって西洋は立ち向かうべき、克服すべき対象として常に眼前に立ちふさがっている厚い壁のようなものではなかったでしょうか。
体育の日の連休に、中仙道の馬籠宿、妻籠宿を訪ねました。島崎藤村の生まれたところで、父親を主人公・青山半蔵にした『夜明け前』の舞台になったところです。国学の教養を身につけた地方の知識人にとって、新しい時代の流入、西洋の登場は、発狂に至らせる葛藤だったのだろうかと山間に静まる家々を見ながら思いました。藤村親子だけでなく、この時代に生きた多くの人びとにとって。それはいまだに続いているのかもしれません。
馬籠の藤村記念館で家系図を見ていて発見がありました。ほとんど私的な関心で、それがどうしたっていわれそうですが、藤村のはじめの妻冬子の旧姓は「秦」で、わたしの羽田も以前は「秦」だったんです。『新生』の作家の妻としての冬子にしばし思いをはせました。
羽田の本家は、馬籠宿から北に120,30キロ、15宿場さきの和田宿で、わたしの生まれはさらに3宿場ほど江戸に近い望月の宿の手前を東に1里のところ。今は昔ですが、天狗党が通り、和宮が通った道筋でした。