「伝説のオカマ」は差別か

2001-10-17 水曜日

ポット出版 沢辺均 :http://www.pot.co.jp/

『週刊金曜日』の6月15日号に「伝説のオカマ 愛欲と反逆に燃えたぎる」という記事が掲載されました。このタイトルに使われた「オカマ」が差別だとすこたん企画が抗議しました。
この問題を深く検討しあう場として、ポット出版のサイト(http://www.pot.co.jp/)に『「伝説のオカマ」は差別か』というコーナーを開いています。
記事そのものや、経過、さまざまの人の意見などは、ぜひサイトを見てみてください。
で、僕の考えの要点を書いてみようと思いました。

第一に、差別ってなんなのかってことです。
ある基準で人間を区分けしてグループにして、丸ごとキラっちゃうことではないかな、って思ってます。
で、ある基準で人間を区分けするってコトは、しょうがないことだと。
グループにしてしまうことも、半分ぐらいはしょうがないことだけど、とっても危ないことなんで充分に注意すべき。
第二に、じゃ、あることが差別かどうかを、実際に判断するのは誰かってことです。
これは、「みんな」って思うしかないんじゃないか。
よく「踏まれたもの痛みは踏まれたものにしかわからない」っていうけど、これが今日の差別をめぐる問題の最大の誤りだと思ってる。
被差別者がうけた不利益の原因を機械的に差別にしてしまうことがあると思うんですが、これも気をつけなければならないポイント。
第三に、じゃ差別をなくすためにどうすることができるのか。
いろんな方策を立てなければ、差別を減らすことはできないと思うのですが、その大元の大元は、差別された人が「なにそれ? ばっかじゃないの。それで私をへこましたつもりなの」って思えちゃう、言えちゃう状況をつくることだと思うのです。

さてさて、メディアにおける差別と差別表現の問題をどう考えるか、です。
僕が『週刊金曜日』の編集長だったらどう対応するかな、っていうことで考えをまとめてみます。

まず第一に、抗議をうけたらどう対応するか、です。
僕は「じゃ、著者に連絡とって場を用意しますから、抗議は直接、著者にどうぞ」っていう意味のコトをいうと思います。
この記事は及川健二さんというライターの署名原稿ですから、著作権はもちろん、責任も著者にあると思ってます。
で、逆に言えば、常日頃から署名原稿に対しては、編集者としての意見などは目一杯いいますが、最後の判断は任せます。直す・直さないの最終決定権は著者にあると思うからです。
もちろん、その本や雑誌の基本的な狙いと大きくかけ離れていたりすれば、掲載しないという対処をすることもありだとは思います(その場合、原稿料を支払う・支払わないは、いま考えをまとめられてませんが)。
しかし、ただ知らんぷりするということではないですよ。その抗議の場には必ず同席します。
第二に抗議に対して、どう答えるかです。
もし、著者が「たしかに指摘のとおり、詫びたい」ということになったら、そのお詫びと抗議の内容を掲載します。
編集部としての、編集長として意見も掲載するかもしれません。
また、著者が「抗議には納得できない」となったら、その抗議をした人に、いかにその記事は差別なのかということを書いてもらって掲載します。
最後は読んでくれている人に判断してもらう、ということしかないと思ってます。
で、これで、抗議した人が納得しない場合にどうするのか? 
どうしようもありません。考え方がすりあわなかったんだから。

その記事が差別かどうかを判断するのは「みんな」でしかないと思うからです。
この場合の「みんな」は読んでくれている人、です。もちろん、抗議した人、された人(著者・編集部)も含んでいるとおもいますが。

僕が考えていることの要点を書いてみました。
『「伝説のオカマ」は差別か』というサイトをやってるわけだから、今度、もっとわかりやすく書いてみようと思ってます。
だから、http://www.pot.co.jp/ を時々見に来てください。


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小さく細く長く

2001-10-10 水曜日

日本林業調査会 辻 潔 :http://www.j-fic.com/

 居酒屋や喫茶店で領収書をもらうとき、「日本林業調査会です」と言っても、1回でスパッと書ける店員さんは少数派ですね。たいていは「日本」まで書いて、「リンギョウ?」と聞き返してきます。「林業」という言葉に馴染みがないというか、日常用語ではないのでしょう。むしろ、中国から来ている留学生風アルバイトの人の方が、スラスラっと書いてくれたりして、なるほどアジアの大国はまだまだ1次産業のステイタスが高いのだなと感じてしまいます。

 で、この「林業」を冠につけているのが小社。「調査会」とうたっていますが、別に探偵まがいのことをやっているのではなく、ごくありふれた零細出版社の1つです。堅い社名なので、よく「林野庁の外郭団体ですか」と聞かれますが、株式会社です。
 創業は昭和29年。現在の社員は4名。小社の雇用能力は、このへんが限界で、創業以来2〜4名の間を行ったり来たりしています。
 16年前、私が某百貨店から小社に転職しようとしたとき、当時の上司から「林業なんてもうやる人いないんだからやめときなさい」という忠告をいただきました。いま考えても非常に的確なアドバイスだったと思います。ところが、いつ消えてもおかしくないような「日本林業調査会」が、案外長持ちしている。なぜしぶといのか、と時々考えます。

 小社のような小規模家族的組織の場合、やれることに限りがある分、融通がききやすいというメリットがあるんですね。仕事の分担にしても、給料にしても、勤務時間にしても、調整しやすい。これは、裏返すとルーズでだらしないという欠点にもなるので、一定の線は引かなければなりませんが、自由度が高いのは貴重です。
 読者の顔も見えやすい。取材に行って名刺交換したときに、ああこの間あの本を買ってくれた人だ! と思い当たると、初対面という感じがしなくなります。
 一方、読者からも我々社員の顔が見えやすいので、いい加減な仕事ができないという効用もあります。大きな会社ですと、苦情専門に対応するセクションがあったりしますが、小社の場合はすべてダイレクト。自分のミスから逃れることはできません。本の内容についても、著者に聞くよりは、まず出版社に問い合わせる読者が多く、勢いこっちも勉強せざるを得ない。自分のやった仕事の責任は、すべて自分でとる。人任せにする余地はありません。

 もちろん、零細出版社ゆえの限界を感じることも多く、特に経営の厳しさから逃れることはできないでしょう。今までも大変だったし、これからも大変だと思います。
 でも、なぜか愚痴にはならないんですね。それは「林業」とはなんだ?という、小社が抱えているテーマが依然として解けていないからだと思います。創業以来、多くの本を出してきましたが、一口に「林業」といってもその幅広さと奥行きは途方もなく、いまでも「林業ってなんなのだろう?」という話題が酒の肴になる始末。そのたびに、私は16年間なにをやってきたのだろう、と考えさせられます。

 冒頭の話。「リンギョウ?」と聞き返すレジ係の人も、2、3回復唱すると「林業」と書いてくれます。そのとき、この2文字にどんなイメージを抱くでしょうか。
 時代とともに「林業」の位置づけは変わり、意味する内容も、受け止め方も違ってきていると思います。ただ、もう「林業」は死語なのだ! とバッサリ切って捨てられるものでもない。そこが、難しいところであり、面白いところでもある。
 こんな堂々巡りの愚考を続けながら、「日本林業調査会」の本づくりは今日も進められています。


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まだ見ぬ人に促されて

2001-10-3 水曜日

梨の木舎 羽田ゆみ子 :http://www.jca.apc.org/nashinoki-sha/

#まだ見ぬ人に促されて
 韓国の全州で、10月上旬伝統音楽散調のフェスティバルがあります。全州は朝鮮朝発祥の地であり、芸郷といわれる全羅道の州都です。訪ねるのは初めてです。小社で12月刊行の『韓国・歌の旅人——ノレナグネ』(仮)で紹介します。
 著者は韓国に3年半留学していた、元二期会の歌手戸田志香(ゆきこ)さんです。
 できるだけ現場を踏んで仕事をしたい、可能なかぎり追求したい。そこがもっている空気、どんな風が吹いているのか、どんな音が流れているのか。「見たい,聞きたい,会いたい」。人が、ものが、過ぎ去った事件が、その地にいざなうのです。
 
#報復で守るものは
 9月11日のあの事件のあと、数十万の人が海外旅行をキャンセルしたそうです。成田発ソウル行きのUA881便もキャンセル待ちでとれました。
 超高層ビルが砂の楼閣のように崩壊する映像は、世界を凍りつかせました。現代文明がいとも簡単に崩壊する瞬間、何千人もの命と彼らにつながる人たちの関係が断ち切られる瞬間でした。
 そして、その後着々とうたれるブッシュの報復作戦と、なすすべもなく国内に留まる、幾百万のアフガニスタンの人々。

#中村哲医師
 アフガニスタンの状況は、17年前からパキスタンそしてアフガンで医療援助を続ける中村哲医師によってメールに入ってきました。
 20年以上の内戦、経済封鎖、旱魃で水田が砂漠化し、400万人が飢餓状態、100万人が餓死寸前に追い込まれているということです。
 何日も何日も歩いてやっと診療所にたどり着いた母親の腕の中で赤ん坊が冷たくなっていたという話には、胸をふさがれます。その母の上にもアメリカの爆弾は降り注ぐのでしょうか。
 中村医師には、パキスタンのぺシャワール郊外の病院を訪ね話を聞いたことがあります。1998年正月でした。そのあと郊外の別なところにあるアフガンの人々の難民キャンプを訪ねました。そこには日々の人々の暮らしがあり、遠来の客を目を輝かせて迎えてくれた子どもたちがいました。

#死について
 5年前、既に別れていた夫を桜町病院のホスピスでみとりましたが、いつも忙しくしているわたしに彼はつぶやくように言いました。
「なんでみんな仕事、仕事って言うのかな」
そのことばは、私の胸に沈殿しつづけました。
 彼から私に送られたことばだと、いま思います。そばにいてあげること、気持ちはいつもいっしょといってあげること、必要なときにはいつも近くにいると伝えること、夫でも、妻でも、家族でも、友人でも。そのことによって、死に直面した人がどれだけ救われるかと。何の心の準備もないまま、身近な人の死に接して、死について考えました。自分の死も、身近な人の死もいつかは必ずやってくるものなのですから。
『ひそやかに死の準備をしてみる—女がよく生きるための』(仮)をグループ梨の花編ですすめています。来年の春の刊行です。

#報復の鎖を断ち切るには
 世界が蟻地獄に落ちていくように、戦争にむかっています。でも、11日以降俄然増えたメールは、戦争を避けたいとする人たちの声を届けています。アメリカでもたくさんの人たちがデモや集会をしています。その一つを紹介します。アメリカに在住の風砂子デ・アンジェルスさんからのメールで、転送されたものです。
 9月20日は、全米学生運動の日で、36州150の大学で、武力行使に反対の集会がもたれ、ベトナム反戦運動の拠点となったカリフォルニア大学バークレイ校では2500人の学生が集まりました。衝突機のスチュワーデスだったというおばさんを亡くしたという22歳の学生が、「もしおばが生きていたら、彼女はきっと僕の隣に立って、戦争でこれ以上犠牲者を出さないようにと訴えているだろう」と語り、感動を呼んだというものでした。
 これはわたしたちにおおきな励ましです。
11日のあの事件の犠牲者につながる人たちと、アフガンで報復戦争の下にいる人たちの、果てしない復讐の連鎖回避へのかすかな希望の灯りです。

#あなた自身を抱きしめて
 長くなってしまいました。最後に来週書店に出る本。著者の山口のり子さんは、時々私に言います。「生活楽しんでる?」『DV−ドメスティックバイオレンスーあなた自身を抱きしめて』は、DV防止のためのプログラムを紹介するものですが、人間関係を活き活きと紡いでいくために私への、あなたへのプログラムです。あなたとパートナーとの関係が、もっとよく変わると思います。

梨の木舎  羽田ゆみ子
Eメール  nashinokisha@jca.apc.org
http://www.jca.apc.org/nashinoki-sha/


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版元デキマシタ。

2001-9-26 水曜日

トランスビュー 工藤秀之 :http://www.transview.co.jp/

トランスビュー、2001年7月に出版活動開始。
島田裕巳著『オウム−なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』/山中和子著・養老孟司解説『昭和二十一年八月の絵日記』/老松克博著『サトル・ボディのユング心理学』の3点を刊行しました。いわゆる人文書の出版社です。
旅行関係やオンデマンド本は出していません、念のため。
事務所は間借り(約四畳半)、家具は中古&貰い物でスタートした我社の運命は?

出版社を創業したら、まずは本の問屋である「取次店」へご挨拶。業界の方へは言わずもがな、出版社と書店に対して非常(非情?)に影響力があります。全国の書店で本を売るには、この「取次店」が欠かせません。ブツとカネの流れを一手に担っています。
 ということで、我社も取引口座開設のお願いに。この交渉、なかなか厳しいという噂だけれど結果は・・・。

最初の交渉から五ヶ月、取次店とは今のところ利害が一致せず交渉継続中。取引開始にいたっていません。取次店に依存する書誌データベースでは検索が出来ないなど色々と不利な条件はあります。しかし現在、トランスビューの出版物は、全国の“トランスビューは、オモシロイ”と言って頂ける書店さんの店頭で、読者の皆様をお待ちしています。

トランスビューへ参加する以前に在籍した老舗出版社で営業をしていた時、ある書店の方に言われたことがある「おたくの本は良い本だけど、あまり売れないよ。」実際、部数は捌けなかった。それでも、毎回注文を出してくれた。そして、お客さんの顔を思い浮かべながら棚を作り、注文分は大抵売り切ってくれたように思う。
 小社から書店が直接仕入れた場合、取次店経由よりも入荷が早く、正味が低い(と推測される)。その分、手間のかかることも多いけれども粗利は大きい。少なくとも、客注を受けたら出版社への電話代で赤字なんて事はないだろう。手間暇を掛けて棚を作ってくださる書店の方の役にも立てるかもしれない。

「本」は個人が書いて、個人が売って、個人が読む。その個人個人にたいして、
出版社トランスビューは価値ある本を届けたい。

*読者・書店の方が、装丁・目次・本文の一部を確認してからご注文できるようホームページをOPENしています。http://www.transview.co.jp/


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おもしろイベントフェア展開中

2001-9-19 水曜日

トラベルジャーナル 石井章夫 :http://

 小社のイベント企画である『2001カルチャーガイドフェア』も折り返し地点に差しかかった。フェア企画を一言で言うと、小社発行書籍を買ってくれた人の中から消費者モニターの参加者を募集し、旅行業界誌“週刊トラベルジャーナル”誌面にてリポートしてもらうというものです。今年で3年目の企画でけっこう好評なので、宣伝も兼ねて今年の展開を紹介します。

 ところで『カルチャーガイド』って知ってますか? 旅の面白さを観光や食べることだけに留まらず、その国の歴史や文化、それに地方都市を紹介し、また、今流行っていること、今人気のあるアーチストなどを紹介し旅の楽しさを追及するために発刊した書籍のシリーズです。地味に発刊を続け、ハワイ,香港,タイ,ドイツ,イタリア,スペインなど今年7月で30国を超えるラインナップになりました。

 このシリーズでなにか面白い企画が出来ないだろうか?ということで始めたのがこのイベント企画です。小社と取引関係にある株式会社ジャルパックさんに旅行商品を提供していただき、‘カルチャーガイドを買って< アイル>で行く海外モニター参加者募集’をキャッチに書店向け企画書の作製から始まりました。花見の季節の3月でした。

 あ、そうそう、肝心の旅行商品というのは、
 < アイル>で行く[地球紀行]:
〈1〉“龍が舞い降りた場所”ハロン湾を訪ねるベトナム旅情6日間
〈2〉レイク・パレスに泊まるインド・マハラジャ紀行6日間
〈3〉“世界最大の仏教遺跡”ボロブドゥールを訪ねるインドネシア二島巡り
をペアで各コース1組です。

 話をもどして、ここからが営業の始まりです。いざ、出陣。と言ってもウチの営業は2人。旅行パンフレットとフェアの企画書を持って4月・5月で全国の主要書店を訪問しました。書店店内でのフェアは、6月から8月の3ヶ月間。本の陳列方法で、表紙が見えるように積むことを‘平積み’といいますが、6月上旬に一斉に本屋さんにフェア対象書籍が所狭しと言わんばかりに陳列された光景はひとつの達成感を感じました。フェアが始まってからは、店内にポスターを貼ったり、フェア開始前に店頭にある書籍にフェアを告知するオビを巻いたり、ふだんやらないことをやったことも面白かったことのひとつです。

 9月7日モニター募集を締め切りました。募集にあたっては、専用ハガキにアンケートとこのツアーでどんな事をしたいかを書いてもらうのだけど、これが結構難関。
締め切り間際に速達で応募ハガキが届いたりして、最終的には結構多くの応募をもらいました。
 今、1枚1枚のハガキを読んでいるところだけど、旅に対する考え方や人生観などさまざまな意見があり、とても楽しく読んでいます。来月には、当選者が決まって、年内には、ツアーに参加してもらう予定です。帰国後、記憶の薄れないうちに、原稿をかいてもらい、翌年2月頃“週刊トラベルジャーナル”に掲載してこの企画が終了です。

 スタートからちょうど1年の企画ですが3回目も成功しそうです。こんなかたちで読者(お客様)と接するのもいいな。手間暇はかかるけれど、こんな企画をどんどんやって続けていけたらと思う。つまり、お客さんや書店さんなどこの企画に関係したところにメリットが生じ、他の出版社がやってない、それでいて、ただ本を並べるだけのブックフェアに留まらない企画です。

 次回はトランスビューの工藤さんです。


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はじめまして。てらいんくです。

2001-9-12 水曜日

てらいんく 佐相美佐枝 :http://www.terrainc.co.jp/

 出版社を起して。5年目。「独立しました」と他人に言うと、「そうですか」と哀れみに満ちた表情で、返事がくる。そして、「で、なにを?」「はい。出版社です」「まあ、それは、大変。今、もうだれも、本を読みませんからね…。」と、物好き、はずれものを見る目で、「まあ、がんばってください」と肩をポンとたたかれる。

「“売れる”でなく、“読んでほしい”が。編集方針です。」と演説すると、「勝手な思い込み」と一笑される。

 でも、心に響く本、読んで欲しい本!が、『てらいんく』の編集方針! 
 まだ、点数は、少ないのですが、奮闘しているのです。
 韓国、中国、台湾、カンボジア、ミャンマー、ベトナムのアジア文芸の飜訳シリーズ。
児童文学評論、ヤングアダルト読み物シリーズ。教育シリーズ。
 今、お薦めが、「児童文学への3つの質問」 藤田のぼる著

  • 今、子ども達の「読書離れ」が盛んに言われていますが、その要因はどこにあるのでしょうか。
  • 子どもにとって文学作品を読むということは、どのような行為なのでしょうか。子どもは作品から、何を受け取るのでしょうか。
  • こども読者にとって、今どんな作品が求められているのでしょうか。

    3つの質問に仮託して、読書へのいざないともとれる児童文学評論集。

 児童文学にたずさわるすべての人に、すべての大人に読んでほしい1冊。
 アジア文芸シリーズからは、「モンシル姉さん」 権正生  卞記子訳
 南北分断が決定的になった朝鮮戦争下、母と生き別れ、父を亡くしながらも懸命に生きていく少女を描いた韓国児童文学のロングセラー。韓国では、テレビドラマ化され、お茶の間を釘付けにした。(日本図書館協会選定図書)

 ヤングアダルト読み物シリーズから、「海辺のモザイク」 高田桂子著
 肥大化する欲望のままに、人生の充足に渇える大人たち、小さな自己を内向せざるをえない子どもたち。どこにもある、ふつうの家族が、エア・ポケットに落ちたときに見る明日は、どのような形をとるのだろうか
 
 他に、中国の一人っ子たちの思いを綴る 「一人っ子たちのつぶやき」、シハヌーク国王文学賞受賞作品を在日カンボジア人である著者自ら邦訳の「アンコール・ワットの青い空の下で」…。
 心に響く本、読んで欲しい本ばかり。
 「近頃、子供達に読ませる本がなくて、困っていたの。てらいんくの本を子供達に読ませたい。」と、優しく、温かく、感動してくださる方もかなり増えてきたのです。
 「今、子供達が。本に、戻りつつある…」と、何かの記事で読みました。
 読書の感動を子供達に伝え続けたい『てらいんく』です。よろしく。


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「島津義弘の賭け−秀吉と薩摩武士の格闘−」
(山本博文著、読売新聞社、一九九七年八月初版、一二月第二刷、一八〇〇円)を読む

2001-9-5 水曜日

批評社 佐藤英之 :http://hihyosya.co.jp/

 慶長五年(一六〇〇)九月一五日、天下分け目の関ヶ原合戦の火蓋が切って落とされた。太閤秀吉亡き後のやり手の年寄(奉行)、石田三成は大谷吉継の援助を得て西国諸大名と結束し、毛利輝元を総大将にして、豊臣家五大老の筆頭徳川家康と対峙した。この天下分け目の関ヶ原合戦の最中に殆ど動かず、西軍の配色が濃くなってから家康軍の中央突破を計った奇妙な一団があった。後に「島津の退(の)き口」と言われ、敵陣中央突破の破天荒をやってのけたこの一団を指揮した武将が島津義弘である。
   *
 この本は、ぺりかん社の救仁郷建社長から是非にと言われて真夏の熱射が容赦なく照りつけるこの七月の寝苦しい夜、毎晩寝る間際になってから読み始めて途中何度も同じページを繰り返し読み直して消化不良のまま何とか読了したという体たらくなので、紹介することしかできない。

 山本博文氏の本は、「江戸お留守居役の日記」(読売新聞社、一九九一年)を読んだことがあるが、江戸時代のお留守居役の日常が微にいり細にわたって描かれていてとても面白く読ませていただいた。「島津義弘の賭け」も第一級の史料である島津家文書(国重要文化財)を丹念に活字化して訓註が付してあり、素人のために読み下し文も平易且つ丁寧である。

 島津義弘は、「天文四年(一五三五)に薩摩・大隅・日向の三国の守護島津貴久の次男として、薩摩国阿多郡伊作の丸亀城に生まれた。母は入来院重総の女で、雪窓夫人と称される。」「勇武英略をもって傑出した」武人でありながら、秀吉の命に服して上洛した京都から、或いは艱難辛苦の朝鮮から妻に宛てた手紙の数々は、感動もの。長男義久・三男歳久・四男家久の島津四兄弟は、よく結束して三州を支配していたが、九州統一を目前に秀吉軍に完膚無きまでに打ちのめされる。が、成り上がり者の悲しさ、羽柴秀吉は伝統ある島津本宗家と家臣団に武力では勝っても徹底的に滅ぼすことはできなかった。島津義久は剃髪して龍伯と号したが、豊臣政権の命には服さず徹底してサボタージュする。秀吉は石田三成、安宅秀安と通して豊臣政権への服属支配を強め、太閤検地、刀狩り、と天下統一への政略を具体的に推し進めて行くが、この辺りから豊臣政権にたて突く島津本宗家とその家臣団と豊臣政権に服属することが島津家の安泰に繋がるとする義弘たちとの齟齬が大きくなり、結束は乱れ、島津の有力武士団である渋谷諸氏、北郷氏、伊集院氏らと袂を分かつような事態に追い込まれて行く。
 義久・義弘の兄弟関係も複雑である。朝鮮出兵で苦労する島津義弘・久保親子が何度も食糧や兵の増援を依頼しても義久は頑として拒否に近い対応をする。秀吉の命に服して朝鮮へ出兵しなければ島津家そのものが改易されかねない、そんな状況下であるにも関わらずである。「朝鮮への出陣は、どこまでも義久や御家のためを思ってのことである。それなのに鹿児島方(義久のひきいる本宗家)からの支援がまったくない。これは御家を傾ける所行である。『無念千万』という義弘の言葉は痛切である。」義弘親子は、異郷の地で食糧も乏しく果てしない闘いに明け暮れていたが、文禄二年(一五九三)九月八日、二一歳の若さで跡取の次男久保が朝鮮巨済島で病死する。義弘は慟哭するが悲しむ間もなく、三男忠恒が京都伏見城で秀吉に謁見し正式に島津家の跡継ぎとして認められ朝鮮に出陣してくるのを迎え出る。
 結局、義弘・忠恒親子は、秀吉の死後無事薩摩へ帰ることになるが、島津本宗家義久の後継者は、義弘の次男忠恒を養子に迎えることになる。この忠恒が義久にそそのかされて伊集院幸侃を殺害したことから幸侃の息子忠真が庄内(都城)に立て籠もり、父幸侃の成敗(殺害)について、自分は義弘・忠恒に身の処遇を聞きそれに従うつもりであったのに、義久が納得せず庄内への通行を禁止し境目に放火している始末です、と義弘に訴え出て仲介を願い出でるが、事の是非よりも島津家の安泰をひたすら願い、島津本宗家義久を敬う義弘の反応は冷たく、忠真を不憫に思いつつも説得は功を奏さなかった。忠真は徹底抗戦し(庄内の乱)天下人徳川家康の援軍をもってやっとのことで調停が成立し、慶長五年(一六〇〇)三月一五日、忠真は都城を退去した。都城は北郷家に戻され、伊集院忠真は薩摩半島開聞岳の麓に移されることになった(その後、忠恒によって忠真、母親、弟たちまで殺害される)。この庄内の乱をもって「豊臣政権下の一三年間に行われた島津家の体制変革は、秀吉死後わずか一年半にして旧に復したのである。」「その本質は、島津家内部に押しつけられた豊臣体制の否定であった。」
この慶長五年九月一五日には、関ヶ原の合戦が起こり、島津義弘は僅か二〇〇の手勢で参戦することになるが、西軍に味方した島津家がその後どのような命運を辿るかはこの書を読んでいただきたい。
   *
この手の一次史料をつかった作品は、読むだけでも骨が折れるが、疑問点がない訳ではない。種子島に辿り着いたポルトガル人の鉄砲が何故島津氏によって実戦に実用化されなかったのか、細かい点もあるが、一国の経営はことほどさように難しいことがよく分かる。資本主義的合理性が徐々に形成されつつあった時代の、流れが大きく変わりつつあるなかで、その方向を見定め、経営の舵取りを誤らず一国を統御することは至難の業であることをこの書はよく伝えている。


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運動と販売の距離

2001-8-29 水曜日

太郎次郎社エディタス 須田正晴 :http://www.tarojiro.co.jp/

 商売ごとは2月と8月は売上が悪い。俗に「ニッパチ」と言われるやつだ。今年は8月にはいって書店からの注文の落ち込みがとくに激しい。あの暑さでは無理もなかったんだろうけど。
 ウチのような教育書の版元にとっての救いは、夏は教員向けの研究集会や講演会が多数あるということだ。これで落ち込んだ収入を若干カバーできる。とはいえ、出張費が出るほど売れるわけでなし、人手もなしで、たいがいは主催者か地元書店に販売を委託することになる。
 その、集会販売を熱心におこなっている書店から、悲しい話が聞こえてくる。

 最近、販売に制限がつくことが多すぎる、というのだ。制限というのは、
○講演者・パネラーの著書以外は販売できない。
○会場から離れた人通りのないところに販売場所が設定される。
○主催者の紀要や雑誌に広告を掲載した版元の本しか販売できない。
といったもので、こうなってくると、出かけていって出店料を払った甲斐のあるほどの売上はなかなか上がらないという。

「この会場で現金の授受はできないので、注文だけとって、あとで精算してください」などと言われたこともあるという。
 多くの場合、表面的には会場側(とくに公民館・学校などの公的設備)の都合で、販売が制限される。しかし、役人が商売人を見下して居丈高な命令をするのは昔からあったことで、むしろ制限は緩くなりつつあるのが現状だろう。
 むしろ問題なのは、主催者が販売者の立場に立って、会場側との交渉にあたってくれなくなっていることらしい。

 主催者側の教員は多くが公務員だが、以前は「関連する書籍を販売するのも、運動の一部」と考えてくれていたのが、最近は「書店や版元は、ウチの集会の動員人数をあてこんで商売にくる業者」と見る人が多くなったという 。
 私も直接間接に経験のあることだが、公務員の「業者」蔑視には目にあまるものがあり、そのくせ供応に慣れていて便益を要求するから、教科書などもちろんつくっておらず、大規模採用をねらいようもない版元にとっては、ギブ&テイクの関係がつくれない。
 逆に商才ゆたかに主催者自ら販売を請け負い、版元に条件交渉し、利益で主催費用の一端をまかなおうという会もある。これは尊敬できる姿勢だ。この商才がべつの方向に行くと、前述の広告費や出店料での「業者食いもの路線」に行ってしまう。

 ともあれ、私は、話を聞いた書店さんが懐かしんでいた「同志的連帯」の時代が、必ずしもいい時代だったともおもえない。そこに巣くっていた「運動ゴロ」たちがつくった馴れあいの関係が、下り坂の時代には不良債権となっていくのをすこしは見聞してきたからだ。
 しかし、「イベントプロモーターと提携業者」の関係となって、売れる本を仕掛け、一時の熱気で著者サイン本を売りまくる、という「参加者食いもの路線」もなかなか寒い構図だ。
 なんとか、販売ブースが集会の一部として成立しながら、日々の衣食に足るだけの利益も出る、という関係をつくりたい。本を売ることはその内容を広める運動であり、この両者は矛盾しないはずだ。
 本も売れない「研究集会」なんてロクなものではないのだから。

 次回は、同時代社の川上さんです。


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森田事務局員の夏休み

2001-8-22 水曜日

版元ドットコム事務局 森田華子 :http://www.hanmoto.com/

 毎回、版元日誌は業界にまつわる話がほとんどなので、ここは夏休み気分を盛り上げるためにも、全然関係のない話を書くことにした。
 もともと学生の頃は、夏休みは旅に出ると決めていて、そのためにアルバイトをし、バックパックを磨き(?)、本を沢山読んだりと準備をしていた。就職しても無理やり10日くらいの休みをもらったりして旅をしていた。
 そういうわけで、時間はあるけどお金はない状況を4年間、お金はあるけど時間はないというのを一夏経験して、最後はお金もないけど時間もなくなり、そして今年はお金はとてもないが時間は少しあるという中途半端なことになった。
 25歳ということもあり、そのわりに海の外に出るお金もなくどうしようかと考えていたら降ってわいたように富士登山の話が出てきて、友人6人でツアーに申し込んでしまった。

 このツアーは、8月6日の朝9時に新宿をバスで出発して、お昼に5合目に着き、そこから夕方まで登って、途中の山小屋で夕食・仮眠。再び夜中に登り始めご来光を頂上から見ようというもので、帰りに温泉まで連れていってくれるというおまけがついていて、ツアーなんて大嫌いという私もいいんじゃないかと思ってしまった。(まぁ、一度盛岡の小さな山に父親と叔父と登ったときに、遭難しかけたので、ガイド付きということに魅力を感じたということもありますが。)

 当日は、なかなかに晴れていて、登り始めは快調。途中何度も休憩を入れてくれるので40数名の集団でもけっこうまとまり、チョコレートを食しつつ4時間ちょっとで8合目の山小屋に辿り着く。
 噂通り、頭、足という交互形式で二段ベットに並べられ、少し落ち着く。外は涼しいと言うよりは寒いくらいで、下ズボンを履き、ズボンを履き替え、靴下を厚くしてフリースを着込んだ。眠る。夕食はもちろん全て平らげ(ちなみにこれはカレーという予想に反してハンバーグにご飯、煮豆、みそ汁)、落ち着いてお茶とかを飲んでいた。

 ここで、向こう側の遠いところで食事をしていた友人の所に遊びに行ったら、どうも食欲が全くないようでぐったりしてしまっている。「気持ちが悪い」しか言わなくなってしまい、食べなくなってしまった。
 これがいわゆる高山病で、別の広いところに布団を敷いてもらい、私ともう一人の友人が横で眠り、トイレに通う彼女を見守るということを5時間くらい続けて、結局彼女はそこで朝まで過ごし、下山することになってしまった。これには少し驚いた。

 ここから先、暗くて寒い状況で小雨もちらつき、休憩はすくなくなるしでばたばたとリタイヤ者が出てきた。私は、山小屋休憩の度に甘酒やお汁粉を胃に入れ、途中レーズンクッキーなどを口に入れながら登り続けた。
 リタイヤする人を観察していると、年齢的なものはあまり関係がなくて、どちらかというと自分のペースがつかめなかったり、装備が不足していたり、逆にいろいろとものを持ちすぎたりしている人が多かった。

 最後の山小屋で、「酸素が頭まで回らなくなった」という友人3人が断念。結局酸素も持参していない私ともう一人が頂上まで辿り着いた。もう寒くて最後の 10分は休憩もなくて必死で登って、気が付いたら周りは男の人しかいなかった。11人が先に着いてその中に混じっていましたよ。これはけっこう嬉しかった。
 その後は、山小屋に駆け込み、うどんをすすり、上も下も雲に隠れているご来光を僅かに見てから両親と好きな人にハガキを書き下山したのだが、毎朝走っているおかげで体力がついていて、あまりつらくなかったせいか今ひとつ感動が薄かった。人が沢山いたからか、どうも原因はよくわからないが涙が出るほどではなかった。それでも、何年も前に山登りをしたときよりずっと体力がついていることがわかったし、来年は穂高に行きたいなどと思う位なので楽しかったのだと結論付けることにした。

 山はおもしろい。歩くリズムと達成感、ゆったりとしたところと緊張が交互にくるところも心地よい。あまり話をしなくてよいところが素晴らしい。来年までに植村直己の本を全て読み、トレーニングをしておこうと決意する事務局員でした。
 みなさま、海に山に川に遊ぶ、楽しい夏休みをお過ごし下さい。

 次回は太郎次郎社エディタスの須田さんです。


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誰かがまだ本を読んでいるに違いない

2001-8-8 水曜日

第三書館 北川明 :http://www.hanmoto.com/bd/d3skan/1/

 出版不況なんて、いまさら口に出すのもおこがましい。とはいえ、それをつくりだしたもの、その背景にあるものをいろんな角度から掘り下げてみることは無意味ではないと思う。
 出版不況すなわち本が売れないということイコール本を買う人読む人がへったということ。本は毎日どんどん出版されている。不況以前より点数はふえている。それでも本が売れないのは、言い尽くされていることだが、人々の本離れが進んでいる証拠。
 そうなんだけど、そのなかにあって、依然としてあるのが、本というメディアに対する抜きがたい固定観念というか読書文化への“信仰心”のようなもの。これにいろんなところで出くわして、驚かされる。

 一番強いのが、著者の自著への思い入れ。それがなければ誰も膨大な時間を費やして本を書いたりしないわけだが、どんな出版不況のなかでも自分の本だけは別だと思い込み過ぎられるきらいが強い。
「この本は全国の図書館に一冊づつは是非必要だから図書館用に3000部余計に作って欲しい」なんて言う著者がまだ結構いる。ほんとにそうなら、嬉しいんだけど・・・。

 ある警察官の自伝入りエッセーを出版した。大新聞の一面三八ツにも、地元の地方紙にも数回広告を出したが、6ヶ月たって3000部中2000部近くが返本で残った。その事実を伝えると、著者は怒った。
「地元の県警だけで4800人いるから、1000人は買って読んでいるはずだ.。全国で1,000部のはずがない。」あとはご想像の通りの応酬である。データを示しても信仰は揺るがない。
 話をしていて感じたのは、世の中の人びとは本が出たら読むに違いないという抜きがたい思いこみ。いくらこちらが「TVなら視聴率1%でも1000000 人、本の1000000部とは次元が違う」と説明しても納得していただけない。広告代も入れたら大きな赤字だという現実が信じてもらえない。そういうご本人も聞いてみれば他人の書いた本をとりわけ読んでいらっしゃる風でもない。

 この方のように「誰かがまだ本を読んでるに違いない」という信仰があまりにひろく浸透していること驚くばかりだが、一方でそれが本というメディアの威信をかろうじて維持しているのではあるまいか。ほんとうに「本なんて視聴率にしたら0.005%もあれば御の字の世界だ」ということがバレてしまい常識化した日こそが恐ろしい。

 次回は版元ドットコム事務局の森田さんです。


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