「個人情報保護法案」に関して

2001-6-20 水曜日

皓星社 前田博章 :http://www.libro-koseisha.co.jp/

「ダカーポ」6月6日号(マガジンハウス刊)掲載の<個人情報保護法案なんていらない!>を読んで、またぞろエライ法案が進行中であることを知った。出版社に席を置きながら何を寝惚けたことをと、会員・会友諸兄からお叱り受けることと思います。風営法・暴対法このかた、ことの重大さが身に染みるよりも早いペースで斯くも容易に次々と楔が撃ち込まれているらしいことに対して「何をなすべきか」。今回、営業日誌のテーマより大きく外れます、ご勘弁下さい。

 まずは、多少長くなりますが引用から。

「<言論><暴力>を対立する概念と規定するところから、文弱の思想が生まれ、戦後擬制の民主主義の迷妄は発する。言論は暴力であり、武闘と文闘とは権力を撃つ双つの矛であるという認識を私たちは持たなくてはならない。さもないと、天下大乱に先立つ言論統制は、再びなべての反体制的言辞を容易に圧殺してしまうであろう。
 ニッポン低国の官憲は、すでに大がかりな思想・表現・言論の弾圧を始動しつつある。『週刊ポスト』“衝撃の告白”事件(2名の社外記者逮捕)は、そのまぎれもない予告であるにもかかわらず、新聞ジャーナリズムは、“低劣週刊誌”キャンペーンに汲々たるありさまであり、総合雑誌もそうした次元の低い問題にはわれ関せセズである。
 私が無名性の回復を志すゆえんは、国家権力との私闘を貫徹していく以上、いずれは当然のなりゆきであるという判断にもとづくものであり、ことさら奇矯を衒うのではない。もうそこまで、冬の時代が迫ってきていることを、私は予感する。ゆえに暗黒に待ち伏せて、言論の暴力の回路を確保して、敵を迎え撃たねばならないのだ。このような発想を被害妄想とわらえるのは、筆を折られたことも、ものを書くことに暴力的な干渉をくわえられたこともない、幸福な人々である。」

 以上、ご存知の方も多いと思います。出典は竹中労著 『ルポライター事始』(ちくま文庫版)所収「言論暴力とは何か?」<初出は1971年『展望』掲載>と題された文章。これを読んだ当初、<言論>と<暴力>を結びつけるとはなんと極端な論理であることかと思った。
 しかしながら冒頭の「ダカーポ」記事を読むとまさしくそのような<冬の時代>が執行段階にあること明白。その上、ここ一週間で予防拘束を含む刑法改正までプログラムに載ってくる可能性が出てきた。

 こころしたいのは風営法・暴対法の延長線上に破防法を持ってきたこと。はじめにエロと暴力という環の中で最も弱い部分から手をつけてくるということ。記事中、「青少年社会環境対策基本法」にも言及している、<有害図書とは何か?>。「我々は出版活動を通して青少年育成をはじめとする文化活動に貢献しているのだから<有害図書>の版元とは自ずと別だ。」といった
態度が同じ結果を招くことになる。
 戦中、「中央公論」や「改造」までもが出版できなくなくなった状況が現行憲法の元で鵺のように進行してゆく。「何をなすべきか」。

 今回はテーマを俎上に乗せるに留まります。

 「ダカーポ」記事については、講談社とマガジンハウス内に「共同アピールの会・事務局」が設けられているようです。宮崎学さんのホームページにレポートがアップしてありますので、まずはそちらからご覧になった方がよろしいかと思います。

  http://www.zorro-me.com/2001-4/010419.htm

 個人情報保護法案全文は以下より

  http://www.mainichi.co.jp/digital/houan/01.html

 以上。


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ベスト・セラーと教科書問題

2001-6-6 水曜日

現代企画室 杉山弘 :http://www.shohyo.co.jp/gendai/index.html

 出版社の営業担当という仕事柄、ほぼ毎日どこかしら本屋さんには足を運ぶ。自社の新刊本の売れ行きや在庫確認はもちろんのこと、その本のねらいにふさわしい書棚をあれこれ探すことなど、やるべきことはけっこうある。キョロキョロとした眼つき、ウロウロした態度、こんな風体のものに本屋さんで出くわしたら、出版社の営業にちがいない。

 足しげく本屋さんを訪ねては、書棚や新刊台、フェア台を眺めているのだから、今どんな本がどのくらい読まれているかくらいは、自ずとわかるようになる。考えるべきは、どうしてそれが売れているのか、読まれているのかだが、これはなかなか難しい。
「新しい歴史教科書をつくる会」や「自由主義史観」を標榜する人たちの動きがとり沙汰されて久しいが、書店の棚や平台は依然として、それをめぐる攻防の舞台だ。日本固有の文化や歴史なるものをことさらに言い募るかれらの書物にならべて、そのもくろみを批判し、記述の誤りを指摘する一群の本をとりそろえ、「教科書問題を考えるフェア」を催している本屋さんは少なくない。また、ある書店員によれば、ここ数年「どうして<自虐的>な本ばかり置いているのか」といったクレームをいうお客さんが増えているらしい。

 ところで、西尾幹二著『国民の歴史』(産経新聞社)は、どれくらいの人びとに読まれたのだろうか。先日、新宿の書店でたしかめたら、2000年の2月で7刷になっていた。通勤電車のなかで件の本に読みふける人を二度見かけたことがある。若い女性ともう一人は中年のサラリーマンだったが、「歴史」や「日本史」というコーナーにあって、この『国民の歴史』の売れゆきはたしかに抜群だった。では、なぜこの本は売れたのだろうか。

 それを問うためには、忘れてはならないもう一冊のベスト・セラーがある。1991年刊行の網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房)だ。こちらは99年4月までに27刷を重ねている。あるいは、同じ著者による『「日本」とは何か』(講談社)でもよい。これも昨年10月の刊行以来、わずか3ヵ月で 5刷である。網野善彦さんといえば、さまざまな「職人」や「海民」ともいうべき人びとに注目することで、これまで「農民」や「稲作」中心に想定されてきた日本史叙述の見直しを提唱したり、「東と西」という視点によって、均質とも、単一とも言えない、この列島の文化を描いてみせるなど、ユニークで、しかも読ませる歴史学者としてよく知られている。『国民の歴史』とならべて論じることは、見当ちがいなことだろうか。

 このところ網野さんの本には必ずといっていいほど、戦後歴史学(講座派の流れをくむマルクス主義史学)への批判的なコメントがある。「国民的歴史学運動」に自ら率先して参加したいきさつがあるから、その筆致は厳しく、また自己批判的だ。

 やや専門的な言葉でいえば「戦後歴史学批判」となるわけだが、読者の気分としては、むしろ、こういうことだろうか。「学校では学べない いちばんホットな日本史」、これは『日本の歴史をよみなおす』にまかれた帯の言葉だ。一方『国民の歴史』のそれには、「歴史は、こんなに面白くてわかりやすいのか」とある。そこに込められた思想も方法論もあきらかに異なる二冊だが、これを手にとりベスト・セラーにした人びと、つまり読者が、学校で学んだ歴史はわからない、つまらない、とか歴史は学校では学べない、と考えていることだけはまちがいなさそうだ。

 戦後の歴史学は、よく眺めてみれば、折にふれてさまざまな問題提起があり、叙述や論述の方法をめぐって論議がおこなわれてきた。「昭和史論争」があり、「民衆史」や「地域史」の台頭があり、またフランスのアナール派などに刺激をうけた「社会史」からの提起もあった。そこでの議論は学会や専門研究者たちのなかにとどまりがちだったが、網野さんの著作のベスト・セラー化は、その議論が読者一般に、言いかえれば世間にはなたれたことを意味している。そしてまた『国民の歴史』がよく売れたことも、著者のナショナリティを煽るもくろみとは別に、この流れのなかで考えてみる必要があるのではなかろうか。

 人びとをして「わからない」「つまらない」という気分にさせてしまった戦後の歴史学のありかたも、この際きちんと省みていこうではないか。「新しい歴史教科書をつくる会」や「自由主義史観」をいう著者が描く歴史書にしたって、やっぱりわからないし、つまらない、との声が聞こえてくるのもそう遠いことではない、と思うので。

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