春の憂鬱

2001-3-29 木曜日

太郎次郎社エディタス 須田正晴 :http://www.tarojiro.co.jp/

 3月はわが社の本の常備入換月だ。先々週に怒濤のごとく出ていった本が書店に到着すると、前年度分の常備品の返品が濁流となって戻ってくる。常備の本は年間を通 じて売れれば補充されるのが原則だから、たくさん戻ってくるのは問題ない。問題なのは、戻ってくる本の状態だ。

「返品の濁流」と書いたのはダテではない。カバー・オビの破れは良いとしても、並装の表紙は折れ、上製のボールはへこみ、本文にまで深く瑕がはいって戻ってくる。こういった本は、いくら改装したところで再商品化することはできず、断截せざるをえない。ウチでは返品は業務委託している倉庫にされるから、伝票の流れだけでは返品の状態はわからない。5月の決算棚卸しのさいに変わり果てた自社本の姿に暗然とさせられるが、それがどこから返ってきたものかは間接的な証拠でしかわからないのが常である。乱暴な結束・梱包によって傷んだ姿は、出荷時の面 影もない。

 返品の状態のヒドさは常備品にかぎらない。そして入帳条件についての取り決めもなしくずしにされ、注文品はずっと昔の担当者の「返品了解」がついて戻ってくるし、委託品は期限が切れたあとものべつ幕なしに返される。そのなかにはおそろしく古い、ボロボロになった本もある。それらが公然と入り正味や分高正味の書かれた伝票で送られてくる。

 日販の橋昌利常務は3月15日付の「新文化」インタビュー記事で、注文などの買切り品が実質的に「ほとんど返品条件付き」で「委託と同様」だと指摘している。たしかに現実そうなりつつあるが、これはけっして版元が了承している「商習慣」などではない。

 書店の経営が、現在の取引条件を額面通りに守っていては立ち行かないという問題は、入り正味の引き下げなどの抜本的な解決がなされるべきであって、「売れない本は随時返品すればいい、しかも仕入れ時と同正味で」などというのは商行為の本道にもとる。そうやって出版物の贋金化が加速して「書名と定価さえ読めればどんな状態でも返品できる」となっていることが、流通 段階での本の扱いのモラルハザードにつながっている。

 いまのように既刊本の注文流通にまで「返品・改装・断截」のリスクがつきまとう状況では、かつかつの利益で重版している本は順次絶版にせざるをえなくなってしまう。私にとって、春は、その当落ライン上にある本を重版するか否かの決断をせまられる、憂鬱な季節だ。

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拮抗する日常と非日常の観念世界
持続する緊張で漲った小説を 求めて

2001-3-22 木曜日

批評社 佐藤英之 :http://hihyosya.co.jp/

 「立花隆の無知蒙昧を衝く」(佐藤進著、社会評論社、2000年10月初版) に続いて箒木蓬生の「臓器農場」(新潮社、文庫)について書こうと思ったが 手元に資料が何もない。記憶だけでものを言うのは如何なものかと思うので真砂 図書館から幾冊かの本を借りてきたが肝心の「臓器農場」はなかった。

 箒木逢生 の作品は、69年の東大安田講堂の攻防戦を通して巨大マスコミの闇の構造を抉 った「十二年目の映像」以来、「白い夏の墓標」や「カシスの舞」、はじめて賞 をもらった「三たびの海峡」、山本周五郎賞の「閉鎖病棟」や憲兵だった父親が 戦犯として追及される様を描いた「逃亡」など初期の作品は殆ど読んできたが、 初期の作品は奥付を見ると殆どが初版どまりで、よくもまあこの成績で次から次 へと新刊書を出せるなあ、と新潮社の編集部に頭が下がったものである。

 箒木蓬生は東大仏文からTBSへ入るが、その後九大医学部に入り精神科医となって文学作品を発表するが、精神科医としての論文はまだ見たことがない。九大の連中に一度聞いたことがあるが、多忙な精神科医がどうしてあれほどの文学作品を書けるのか分からないといっていた。確かに凄まじいエネルギーである。箒木蓬生の作品の凄さは、最初から最後まで作者の緊張感が持続していることである。数ヶ月ならともかく数年間にわたってリアルな日常生活とフィクションの世界との拮抗する緊張感の持続は並大抵なことではない。これは精神科医として日常的に患者と向き合うことから患者の心の奥底に内包された凄まじいエネルギーに作者は触発されているのではないかと思う。長編ものはかなりの作家でも緊張感が続かない。村上春樹「ノルウェイの森」でも、船戸与一「砂のクロニクル」にしても、辻邦生「西行花伝」にしても息切れを感じてしまう。精神科医という仕事は、治療者自身が患者の内面の世界と向かい合い互いに共感できるような<共鳴する身体=心的構造>を共有できる人ほど治療がうまいと言われる。しかしこの緊張感も並大抵ではない。患者の内面の世界と一体化してしまえば、治療者としては失格である。そのギリギリのところで治療するしかないのが精神科医ではないかと思う。

 この精神科医の物語を小社から刊行する予定である。「深淵から〈精神科医物語1〉」を4月に、「深淵へ〈精神科医物語2〉」を5月に刊行する 予定である。久々にエネルギーの充満した原稿を手にして一気に読んでみた。 「深淵から」より「深淵へ」の方が凄まじい。精神科医ならではの緊張感に満ち た表現である。乞うご期待。次回は宮崎学「突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年」(上下巻)とその周辺を取り上げたみたいと思う。

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占領下の日本に生まれて

2001-3-14 水曜日

凱風社 新田準 :http://www.gaifu.co.jp/

 最近続けて5冊の文庫・新書を読んだ。『新憲法の話』(古関彰一、中公文庫)、 『侵略戦争』(纐纈厚、ちくま新書)、『日本海軍の終戦工作』(纐纈厚、中公新書)、『戦略爆撃の思想』(上下、前田哲男、社会思想社文庫)だ。前田さんの『戦略爆撃の思想』は親本で読んでいたが、自宅の本棚に見当たらず、改めて文庫を買っ た。

 いずれの本もとても面白く、さすがに「寝食」は忘れるほどではなかったが時間を ひねり出して一気に読んだ。それぞれの内容についていちいちここで触れる余裕はな いが、自分の生きてきた時代について考えるのに山のような示唆があった。

 3月は、子供のころからなんとなく戦争のことを考える季節になっている。私は 1947年に生まれた。3年前に死んだ父は、「学徒動員」で1944年に中国戦線へ軍医と して出征している。父の父すなわち父方の祖父は、東京・深川で医者をしていたが、 父が戦場にいるあいだに東京大空襲で死んだ——というか1945年3月10日以降、現在 までずっと行方不明のままだ。でも、私に戦争の実感は当然ないし、会ったことも触 れたこともない祖父に、肉親の情のようなものはほとんど感じたことがない。前田さんの『戦略爆撃の思想』からすると、重慶への日本の戦政略爆撃の延長線上に米ルメ イ将軍の対日戦略爆撃の思想がある。してみると、私の祖父は日本が考え出した「戦略爆撃の思想」によって殺されたことにもなる。

 ドイツの同世代と違って、私たちの世代は父親たちの戦争責任を追及することがで きなかった。こうした責任が問われないまま半世紀が過ぎるうちに、現代の若者たち のあいだになにやらドス黒いナショナリズムが広がっているようだ。台湾から入境拒否までされる「よしりん」のマンガのどこにそんな説得力があるのだろうか。また、 扶桑社の教科書で教育される子供たちの将来も心配だ。現在読んでいる『天皇の戦争責任』(径書房)のなかの橋爪大三郎さんの言説にも、時代錯誤的な異様なものを感 じる。

 出版界の現況と同じで、どうも明るい未来は見えてこない。このへんにくさびを打ち込むような本を出してゆきたいと考えている。

 まだ書きたいことがあるが、長くなるのでまたこの次の機会に。

 ところで、先週の矢野さんの記事について一言。

 矢野さんは、「すべての表現は一切の公権力から自由でなければならない」という が、私は「公権力への批判には完全な自由が保障されなければならない」という立場 をとる。私的な存在・関係に関する表現の自由が無条件に認められているとは考えて いないからだ。

 むろんこれは、「規制」を容認するという意味ではない。あらゆる検閲・「自主規制」・出版表現の制限には反対だ。

 暴力にしろ、殺人にしろ、ポルノにしろ、どんな表現をするかは、要は、表現者の 個人としてのモラルと責任の問題だ。したがって、いったん本になって、あるいは映画として、世の中に出てからの批判・非難・反論は当然ありうるし、また、表現者にはそれを受けとめる責任がある。


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有害でナニが悪い!

2001-3-8 木曜日

青弓社 矢野恵二 :http://www.seikyusha.co.jp/

 『完全自殺マニュアル』(太田出版)を「不健全」指定にして販売に規制をかける東京都の執拗な動き、その審議機関は自殺ばかりか犯罪一般をあつかった出版物までをも規制しようとする答申案を提出、あるいは記憶に新しい映画『バトルロワイヤル』を「上映中止にしてほしい」などと平然と公言する政治家、さらには、テレビ・ラジオ放送を対象に青少年への影響を口実とした規制法案の提案、数年前には「無垢な子どもたちに悪影響を与えるから」を押し立てたコミック規制……。不況だ、森総理退陣だ、といっているうちに、いつの間にか「有害」を口実とした法律・条例による規制が大きく動き始めている。これに対して「憲法で禁じた検閲であり、言論・出版の自由への抑圧だ」というとすぐに、「そんなこと戦前の話だよ」と反論があるかもしれない。あるいは、「規制は必要だ」という意見もあるかもしれない。しかしそれらは、あまりにも政治の力学に無垢だといわざるをえない。

 自殺者の手元に『完全自殺マニュアル』があった事例はあるし、インターネットには自殺サイトもある。あるいは、殺人の具体的な方法を明らかにした書籍や雑誌もある。放送でいえば、この50年間、規制に継ぐ規制にさらされてきたし、テレビの暴力シーンなどを突破口に番組全体ににらみをきかせようとしているのは明らかだ。

 だがしかし、そもそも有害ではない表現というものがあるのか。書籍・雑誌、テレビ・ラジオ、身体表現、歌、演劇、映画……。人の魂を揺さぶり、感情をかき乱し、決意を迫り、失意に突き落とし、一時的にではあれもう一人の自分を気づかせる表現こそが「おもしろい」作品ではないのか。自殺にしても、その善悪は措くとして、そもそも自殺を願望していた人にとってはその手段を教えてくれる書籍などは、百万巻の哲学書よりも有益であったのだ。あるいは、時の政府の失政を自分に代わって斬ってくれる番組を支持する、暴力を描くフィクションのカタストロフィーで精神の均衡を得る。

 こうした精神の高揚を否定することは、人間存在そのものを否定することでしかないのである。

 ただし、一つだけ注意しなければならないのは、「そんな有害で俗悪なものがあるから、私たちが作っている有益で社会的なものまでもが規制されるんだよ」という、同じ陣営からの転倒した批判、いわば後ろから弓を射る行為に対してである。繰り返すが、あらゆる表現は等価である。医学書のようなポルノ写真集が一冊の宗教書よりも心の平安をもたらしたり、観念的な文学が社会の問題を突く映画などよりも強力に自分の生き方に影響を与えたり、そんなことは私が言うまでもないことだ。しかし、この等価であるという本質が見えない連中は、まわりまわって規制派の隊列に並ぶことにもなるのである。

 有害で、ナニが悪い!

 私は、「すべての表現は一切の公権力から自由でなければならない」、と確信している。

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